大韓民国中央情報部(KCIA)部長・金載圭は朴大統領の古い友人だったが、「学生運動の弾圧が生ぬるい」としてしばしば叱責され、また、ライバル関係にあった車智澈大統領府警護室長から、野党新民党の金泳三の総裁就任に対する阻止工作失敗の責任を負わされ、後継者争いから脱落した。
このため、一説では金が両人に恨みを持ち、殺害を計画するようになったとも言われている。
射殺
10月26日夜、ソウル特別市鍾路区宮井洞(クンジョンドン)にあるKCIA所有の秘密宴会場で、歌手やモデルなどの部外者も出席の上で、大統領を迎えた晩餐が行われた。
この席上、朴大統領が金に対して、反政府学生らが釜山のアメリカ文化館を占拠した事件(釜馬民主抗争)について責任を追及すると、車室長も追従して、KCIAの無能振りを叱責した。
叱責は長時間に及んだが、歌手らが晩餐会場に入って場の雰囲気が和やかになると、金は中座して直属部下の朴興柱と朴善浩を呼び、銃声が聞こえたら控え室の大統領府警護員(車の部下)を射殺するよう指示した。
ほどなくして金は晩餐会場に戻り、再び政治の話が始まったが、KCIAの失態に話が及ぶに至り、19時41分、
金は「閣下、こんな虫けらのような奴を連れて、政治がちゃんとできますか?」と叫び、車と朴にそれぞれ1発ずつ拳銃を発射した。しかし、金の拳銃が故障し、また銃声を電気のショートと勘違いした職員によってブレーカーが落とされたため、室内の電気が消えた。金は晩餐会場を一度出て、警護員らを射殺した朴善浩から拳銃を借りると再び晩餐会場に戻り、車と朴にとどめとして1発ずつ銃撃した。このとき晩餐会場には、他に大統領府秘書室長の金桂元やホステス2名(歌手の沈守峰と女子大生の申才順)も同席していたが、難を逃れた。
また、この日の宮井洞は、金の招待によって陸軍参謀総長の鄭昇和大将が大統領一行とは別に訪れていた。しかし、大統領の接待をしなくてはならなかった金は、部下である第二次長補の金正燮に、宴会場とは別の部屋で鄭の相手をさせていた。
間もなく金は、自分が射殺犯であることを隠して鄭のもとを訪れ、鄭や朴興柱らを伴って現場を離れたが、自らの牙城である南山のKCIA庁舎ではなく陸軍本部に向かい、参謀総長である鄭に戒厳令の布告を迫った。しかし、軍上層部にそれほどのパイプもない金の説得は無為に終わる。その後、金桂元秘書室長の証言によって金の犯行が明らかになると、緊急国務会議で逮捕令が出され、27日0時40分に大統領殺害犯として国軍保安司令部により逮捕された。その直後に全国に非常戒厳令が敷かれ、鄭参謀総長が戒厳司令官に就任した。
朴正煕暗殺事件(パク・チ ョンヒあんさつじけん、ぼく・せいきあんさつじけん)は、
1979年10月26日に大韓民国のソウル特別市で、朴正煕大統領と車智澈大統領府警護室長が金載圭大韓民国中央情報部部長によって殺害された事件である。
韓国では、「10・26事件」や「宮井洞事件」とも呼ばれている。