景福宮
1592年の文禄¥の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失した。
その後、景福宮は約270年の間再建されなかった。
昌慶宮
文禄¥の役(1592年)において、国王の宣祖が漢陽(ソ¥ウル)から逃亡すると、豊臣秀吉軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり景福宮や昌徳宮などと共に建物の多くが焼失した。
1909年、日本が純宗の心を慰めるとして昌慶宮内の宮門や塀を壊して動物園と植物園を造り一般人も観覧できるようになり、1911年には博物館を建て、昌慶苑に改名したとされる。
昌徳宮
文禄¥の役(1592年)では、日本の軍勢が首都に迫る中、国王の宣祖一行が漢城から逃亡すると、治安が乱れて豊臣秀吉軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり景福宮や昌慶宮、付属する庭園(秘苑)などと共に焼失した。王朝末期の1868年に景福宮が再建されると、昌徳宮は再び離宮として使用された。1907年に純宗が大韓帝国の皇帝に即位すると宮殿として使用され、1910年の日韓併合後も李王となった純宗の住まいとなった。その後朝鮮総督府により改築されている。
徳寿宮
光海君が昌徳宮(チャンドクグン)に移ると顧みられることなく廃墟となった。 1897年に高宗が慶運宮を改修し、1896年に閔妃が暗殺され、高宗がロシア公館に避難する事件が起きてからは、慶運宮に高宗は居住した。以後高宗が退位する1907年まで日韓保護条約の締結など大韓帝国の歴史の舞台となった。高宗の次の皇帝純宗は長寿を祈願して「慶運宮」を「徳寿宮」と改名し、現在にいたる。