江戸時代(1600 - 1867)
※資料はそれぞれのリンク先を参照して下さい。1617(元和三)年 - 大谷九右衛門が竹島(鬱陵島)に漂着
日本人による始めての鬱陵島の発見。米子で廻船業を営んでいた大谷甚吉は、越後から帰帆の途次に難風に遭い、竹島(鬱陵島)に漂着した。「竹島渡海由来記抜書控」
1618(元和四)年 - 幕府の「渡航許可書」
鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けた。これ以降、両家は交替で毎年年
1回鬱陵島に渡航し、あわびの採取、あしかの捕獲、竹などの樹木の伐採等に従事した。両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事
し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていた。この間、隠岐から鬱陵島への道筋にあ
る松島(現在の竹島)は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかや鮑の漁獲の好地として自然に利用されるようになった。
1635(寛永十¥二)年 - 幕府の「鎖国令」
鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、日本人の海外への渡航を禁止した鎖国令を発した後、これらの島に対する渡海を禁じていたはずだが、そのような措置はなされなかった。
1643(寛永ニ十¥)年 - 林羅山「本朝地理志略」(續々群書類従, 巻8所収)
幕府儒官林羅山が朝鮮国信使申¥竹堂に贈呈した日本国地理書。隠岐国の最後に「隠岐海上有竹嶋多竹多鰒味甚美海獣曰葦鹿」と記載。
1650年頃 - 鳥取の商人石井宗悦から大谷道喜当て書状
¥"松島へ七八拾石之小船遣、鉄砲ニ而ミち打申¥候ハハバ、小島之事ニ候間、竹島江ミちにけさり、竹嶋之納所大分候ハんと市兵衛望被申¥候...¥"村川市兵衛が盛んに松島でアシカ漁をしている事を示すものがある「新修鳥取市史」
1656 (明暦ニ)年頃 - 村上家「松島絵図」
松島を単独で描いた絵図。入り江や周辺の岩礁などの位置が、韓国・国立海洋調査院が2001年に刊行した現代の竹島の海図とほぼ一致。また、絵図の右上
に「松嶋之絵図、嶋之惣廻り壱里之内」といった表¥記があり、二つの島からなる松島の周囲の長さなどが記されている。隠岐島や韓国・鬱陵島との距離表¥記もあ
り、鬱陵島から松島までの距離が約五十¥五キロとなっている。
1657(明暦三)年 -
この時期には既に、村川家単独で松嶋渡海を試みており、松嶋渡海に伴う利権をめぐっては大谷家との間に意見の違いが見られ、両者の意見調整を阿部に求め、万治元年には村川側の考えを詳しく阿部に伝える事となった。
1658(万治元)年 - 亀山庄左衛門から大屋九右衛門への書簡
¥"将又竹嶋渡海筋松嶋へ之小舟之儀被仰越候、今度市兵衛方ニ様子具承候、去年市兵衛舟出候、着舟不申¥大分之損仕由、於然 ¥"
1659(万治二)年 - 亀山庄左衛門から大屋九右衛門への書簡
「阿倍四郎五郎儀 去る三月十¥六日相果て候 在生の打ちに末弟権八郎を養子致し 親同前に御老中には御心懸けられ有難し 来年より竹島の内松島へ貴船相渡す由・・・」
1661(寛文元)年 - 亀山庄左衛門から大屋九右衛門への書簡
然者来丑ノ年竹嶋松嶋へ弥貴様 御舟御渡被成候筈市兵方と今度申¥談候左様ニ御意得年内より御支度可被成候御仕合能¥帰朝之時分可預御左右候 将々竹嶋より桐
之木御取寄大坂迄御届可被下候 大坂ニテ相良壱岐守殿蔵屋舗 迄御届可被成候彼御留守居衆 深水仁兵衛殿川原又兵衛殿と申¥仁両人御座候
彼御方へ内々申¥遣置御断候ハゝ無 相違請取可被申¥遣存候 権八方へ二本程我等も一本可申¥受候遠路乍御六借資入候
此方二而珍敷木ニテ御座候 間御無心申¥入候 壱岐守殿御屋 舗者今度村川市兵衛御存知ニて御座候 尚御参府之時分可得御意候恐惶謹言
1667(寛文七)年 -斎藤豊仙 「隠州視聴合紀」
出雲松江藩の齋藤豊仙が隠岐郡代として隠州(隠岐島)を巡察した際、見聞きしたことを採録した近世隠岐の地誌。
1681(延宝九)年 -大谷九右衛門から巡見使宛請書
「延宝九年酉ノ歳二御順見様宿申¥上候覚」三代目勝信の幕府巡検使に対する請書
¥"一、厳有院様御代竹嶋之道筋ニ弐十¥町斗廻リ申¥小嶋御座候 草木茂無御座岩ニ而御座候 廿四五年以前阿部四郎五郎様御取持を以拝領船渡海仕候 此小嶋ニ而
茂みち之魚之油小宛所務仕候 右之小嶋江隠岐国 嶋後福浦より海上六十¥里余茂御座候御事
1692(元禄¥五)年 - 「竹島一件」
村川家が鬱陵島で、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇した。
1693(元禄¥六)年 - 「竹島一件」
大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇し、安龍福(アン・ヨンボク)、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を逮捕し日本に連れ帰った。幕府の命を受けた対馬藩は、両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を開始したが、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るにいたらなかった。
1695(元禄¥)年12月24日 - 幕府から鳥取藩へ「御尋の御書付」
1695(元禄¥)年12月25日 - 鳥取藩の回答書
1696(元禄¥九)年 - 伯耆州太守「磯竹島覚書 地理局」
1696(元禄¥九)年 - 小谷伊兵衛「磯竹島図」
松島(現竹島)が、形状、位置共にほぼ正確に描かれている。
1696(元禄¥九)年 - 幕府の「渡航禁制令」
幕府が竹島(欝陵島)渡航を禁止した際の通達。文書には松島(現在の竹島:Liancourt rocks)が含まれていない。
1696(元禄¥九)年 - 「安龍福事件」
安龍福が国禁を犯して日本へ密航。
1724(享保九)年 - 『竹島考圖説』「竹島松島之図」
松島(現竹島)が、形状、位置共にほぼ正確に描かれている。
1724(享保九)年 - 竹嶋之書附
鳥取藩が幕府に提出した文書。「享保9年辰申¥年閏四月十¥六日」「伯耆国米子の者」「船二艘」。「竹嶋図(享保九甲辰閏4月江戸え書上ノ写)」には、松島(現竹島)が、形状、位置共にほぼ正確に描かれている。
1724(享保九)年4月、 - 「小谷伊兵衛ニ所持被成候竹嶋絵図之写」
松島(現竹島)が、形状、位置共にほぼ正確に描かれている。
1742(寛保二)年 - 松岡布政「伯耆民諺記」「伯耆民談記」
続々群集類従に採録されている伯耆地方の一種の風土記
1751-63(宝暦年間) 年- 「竹島図説」
隠岐の松島として、現竹島が記述されている。
1779(安永八)年 - 長久保赤水「日本輿地路程全図」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の記載。二島の間に「見高麗如自雲州望隠州」。(無彩色)
1779(安永八)年 - 長久保玄珠「新刻 日本輿地路程全圖」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(無彩色)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥"。(隠岐も無彩色?)
1785(天明五)年 - 林子平「三国通覧輿地路程全図」
半島東部に島、図の中央右下に竹嶋(どちらも半島と同じく黄色)。「此嶋ヨリ隠州ヲ望、又朝鮮ヲモ見ル」・「朝鮮ノ持也」の註記
1785(天明五)年 - 林子平「朝鮮八道之図」
「三国通覧圖説」(1786年刊)の付図の写し。鬱陵島には「鬱陵島」と「于山国」の2つの名称が記載してある。
1786(天明六)年 - 林子平「三国通覧図説」
「三国通覧輿地路程全図」を作成した経緯を説明。それによると、日本周辺での有事に際しては、近隣との地理的関係が知れる地図が必要であると認識して、
日本地図(=長久保赤水の「日本輿地路程全図」)を中心に置き、「三国通覧図説」に附図として収録された四枚の地図「朝鮮国全図」、「琉球国全図」、「蝦
夷国全図」、「無人島大小八十¥余山之図」を繋いで、完成したという。
1789(寛政元)年 - 長久保赤水「亜細亜小東洋圖」
中国の時代ごとの地図十¥二枚を収録した地図帳「唐土歴代州郡沿革地図」のうちの一つ。¥"竹シマ(現鬱陵島)¥"¥"松シマ(現竹島)¥"を¥"ヲキ¥"や日本と同じ赤褐色に彩色。
1787(天明7)年 - Dagelet島の発見
鬱陵島がフランス軍艦学校のLepaute Dagelet教授によって発見され、¥"Dagelet¥"と名付けられた
1789(寛政元)年 - Argonautの発見
イギリスの探検家、James Colnettが鬱陵島を発見し、¥"Argonaut¥"と命名した。このダージュレー島とアルゴノート島はそれぞれ違う緯度と経度だった為に、後の欧米の地図では2つの鬱陵島が描かれる事になる。
1790(寛政期)年代 - 木村蒹葭堂「華夷一覧図」
「大清」を中心とする東半球図。隠岐西北に¥"松シマ¥"と¥"竹シマ¥"が日本と同じ朱に彩色。
1791(寛政三)年 - 長久保玄珠「新刻 日本輿地路程全圖」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(無彩色)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥"
1795(寛政七)年 - 安部恭庵「因幡志」
1796(寛政8)年 - 橋本宗吉「オランダ新訳地球全図」
鬱陵島が日本と同じ、朝鮮半島とは違う色で彩色されている。
1801(享和元)年 - 矢田高当「長生竹島記」
出雲の大社の人。竹島に渡航した水主からの伝聞のさらに伝聞¥"隠岐州と松島間160里、隠岐州と竹島間260里、 「これぞ聞伝(ききつた)ふ松島哉(かな)と遠見す本朝西海のはて也」 ¥"
1804(文化元)年 - 近藤重蔵守重「邊要分界圖考」「今所考定分界之圖」
「マツシマ」「タケシマ」が記載。日本及び朝鮮と同じ赤で彩色。特筆すべきは、「岩瀬文庫」蔵の同図では、二島は地名が無く、ヲキノシマや日本と同様に青く彩られている。(朝鮮は黄色)
1811(文化八)年 - 長久保玄珠「改正 日本輿地路程全圖 増修定本新分郡界」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(無彩色)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥"
1823(文政六)年 - 大西教保「隠岐(遠記)古記集」
「隠州視聴合紀」を基礎としてそれを敷衍して詳述したもの。¥"亥の方四十¥里にして、松島あり。周り一里余にして、生木なき岩島といふ。¥"隠岐の漁夫の実見談など¥"隠岐と松島間40余里、隠岐と竹島の間70里¥"
1827(文政十¥)年 - 中川顕允「石見外記」
高田屋嘉兵衛の商船が¥"松竹二島ノ間ニ出デ¥"と記述
1828(文政十¥一)年 - 因府・江石梁編述「竹島考」
1830-1844(天保年間) - 「天保雑記十¥八」
¥"隠岐の松島¥"の記述あり
1830-1844(天保年間) - 「竹嶋渡海一件記 全」
竹島事件の供述調書の抄録
1833(天保三)年 - 長久保赤水「新刻日本輿地路程全図」
無彩色図。竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥"
1835(天保6)年 - 伊丹屋善兵衛他「唐土歴代州郡沿革地圖」
1789(寛政元)年長久保赤水作成の改訂版。¥"竹シマ(現鬱陵島)¥"¥"松シマ(現竹島)¥"が日本と同じ色で彩色。
1836(天保七)年 - 竹島事件(竹島一件)
濱田藩の御用船係を務めていた廻船問屋会津屋八右衛門(1798-1836)は、慢性的な藩の財政難を見かね、鎖国の掟を破り、竹嶋と呼ばれた現在の鬱
陵島へ渡航し、漁業伐木だけでなく、異国船との交易も進めた(一説には中国・東南アジアまで行ったとされる)。しかし後に幕府隠密、間宮林蔵に内情が知ら
れ、天保7年(1836)、八右衛門と橋本三兵衛は処刑され、家老岡田頼母等は自刀した。一連の取調べの内容を記述した文書が多く残されており、その中で
八右衛門と橋本三兵衛が松嶋(現竹島)に渡海する名目で竹嶋(現鬱陵島)に行くことにした経緯をそれぞれ証言した。つまり、当時の日本人は竹嶋(現鬱陵
島)に関してはともかく、松嶋(現竹島)は日本の領内であると認識していたことが分かる。「竹嶋渡海一件記 全」
1836(天保七)年 - 「日本針図」中央に「松前エカヘル船冬分多ハ竹嶋松嶋ノ間ヲヒラク」の文字があり、航路を示す赤い線が「竹嶋」と「松嶋」の間を通っている
1837(天保八)年 - 「竹嶋渡海禁止令」
幕府による竹嶋渡海の禁止令が出されるが、この中にも松島(現在の竹島:Liancourt rocks)が含まれていない。
1840〜1860(天保年間)年 - 文鳳堂こと 山城屋忠兵衛「文鳳堂雑纂」
¥"隠岐の松島¥"の記述あり
1842(天保十¥三)年 - 岡嶋正義「因府年表¥」「因府歴年大雑集」
1843(天保十¥四)年 - 松村九兵衛他「日本圖 : 天保再鐫改正」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)(無彩色)
1846(弘化三)年 - 栗原信充「改正 日本輿地路程全圖」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥"。現竹島に島根県隠岐諸島を指す「隠岐国」と同じ彩色を施した、「改正日本輿地路程全図」(1779年刊)の改訂版。
1849(嘉永二)年 - 高柴英三雄「嘉永新増 大日本國郡輿地全圖」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。(彩色)
1849(嘉永ニ)年 - フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1853(嘉永六)年 - 整軒玄魚圖「大日本海岸全圖」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(現鬱陵島)(無彩色?)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥"
1854(安政元)年 - ロシア軍艦のパルラダ号(Pallada)が鬱陵島の位置を精測
さきにコルネットがアルゴノートと呼んだ鬱陵島の位置として報告された経緯度が不正確である事が分かり、その後の欧米の地図では、アルゴノート島を点線で表¥したり、「現存せず」と注記したものが表¥れる。
1854(安政元)年 - 松浦武四郎「竹嶋雑誌」
1855(安政二)年 - 酒井喜煕「皇国総海岸図」
水戸藩士の酒井が幕府所蔵の地図や水運関係者の聞き取り調査から作製。海岸の状況や港の施設、航路の距離・帆走方向を収録。松島(現在の竹島)と竹島
(現在の鬱陸島)は無彩色。ただし、福岡県沖の御号島(現在の沖ノ島)も無着色。隠岐周辺の地図では、竹島渡海の港であった福浦(現在の隠岐の島町)付近
に「松島竹島ハ亥子ノ間二当ル」と、当時の地図では初めて両島に至る航路の方角を示す表¥記が見つかり、隠岐島との間で交流があったことをうかがわせる。
1857(安政四)年 - 「亜細亜小東洋圖」
1790(寛政四)年の長久保赤水作成の改訂版。¥"竹シマ(現鬱陵島)¥"¥"松シマ(現竹島)¥"を¥"ヲキ¥"や日本と同じ赤褐色に彩色している。
1861(文久一)年 -佐藤政養「新刊輿地全図」
幕末を代表¥するメルカトル図法による世界地図。原図は1857年のオランダ製の航海用地図で、内容が詳しく正確なうえ、世界の主な都市・山川の一覧があ
る。佐藤政養は幕末から明治にかけての蘭学者・技術者で、勝海舟の塾で蘭学、測量術を学んだ。隠岐と朝鮮半島の中間に¥"タケ●●¥"と読める日本と同じ色で
彩色された島がある。また、国境線と思しき点線がその島の朝鮮寄りの位置を通っている。
1862(文久二)年 - 武田簡吾「新鐫万国航海図」
イギリス人庸普爾地(John
Purdy)氏が1845年に作成した地図を、1858(安政5)年に沼津の医師武田簡吾らが翻訳刊行したものである。本図は図右の英語によると1862
年2月に横浜で作られた版である。ロシア使節プチャーチンの旗艦が伊豆下田港で地震のため大破し、その船にあった世界地図の補修の際に模写したものであ
る。本来のより北方にタケシマともう一島が描かれている。国境線と思しき点線がその南を通っている。
1862(文久二)年 - 井上治兵衞「日本郡國一覽」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色)
1864(元治元)年 - 逸見豐次郎「増訂 日本輿地全圖」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色?)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥"
1864(文久四)年 - 「大日本海陸全図」竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥" (●2)
1865(元治二)年 - 松川半山譯 「新刻 大日本程路全圖」
竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色)のところに¥"見高麗猶望雲州隠州¥"
1867(慶応三)年〜1881(明治十¥四)年 - 太政類典
1867(慶應三)年 - 勝海舟「大日本國沿海略圖;大日本沿海畧圖(元題簽)」
¥" (明治大学蘆田文庫HPより)¥"仮に編としたが, 海舟の序文によれば, 昨今航海術が発達して船航が繁くなったので,
英国出版の地図が非常に精細なのを,
わが家塾で刻して以て航行の便りとせしむとある。幕末に流行した翻訳日本図の代表¥的なものの一つである。南が上(普通の地図とは上下逆転)。凡例あり。序
末福田に朱印。「伊豆諸港」として, 「江ノ浦・戸田浦・安良利浦・田子浦」4港の図を付す。黄色の表¥紙。 ¥"
竹島(アルゴノートの位置)(朝鮮半島と同色に彩色)、松島・ホウリルロック・セユル崎(現鬱陵島)(朝鮮半島と同色に彩色)、リユエンコヲルト ローツク(無彩色?)
1867(慶應三)年 - 勝海舟「大日本國沿海略圖;大日本沿海畧圖(元題簽)」
上と同版
1868(慶応四)年 - 大谷勝廣「竹島渡海由来記抜書控」
「元和四年竹島渡海御免之 御奉書頂載同年より竹島渡海相始め凡七拾八年之間無怠慢毎年渡海仕候」御公儀貢物上納は雖不仕と誠に空居之嶋甚吉見顕日本之
土地広め御式帳戴之段抜群之働と御称美 因茲ニ三年振又は八九年自毎に参勤公方様江独礼御目見被爲仰付其上御紋御時服御尉斗目拝領竹島渡海之船江も御紋船
印等拝領被爲仰付冥加之至 云々」江戸幕府は当時、鬱陵島を日本領土として認識していたことがわかる
時代が特定できないもの - 「朝鮮竹嶋渡航始末記 全」「大谷家由緒實記」「朝鮮通交大紀」「竹島紀事」「通航一覧」池田家文書他松浦静山「甲子夜話 続編三」