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大正時代以降の竹島(独島)に関する資料

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大正時代(1912 - 1926)

1912(大正元)年 - 島根県隠岐島庁「隠岐全図」
地図の左上にある「本土に対する隠岐国の位置」に「竹島」の記載がある

1912(大正元)年 - 朝鮮総督府編「最近朝鮮事情要覧」  
2版渡辺為蔵東経百二十¥四度十¥三分より百三十¥度五十¥四分に至り、1912(大正元)年 - 日韓書房編集部「最新 朝鮮地誌」
朝鮮の東端を東経130度54分と明記

1912(大正元)年 - 北垣恭次郎小学地理教材」 著
東は同百三十¥度五十¥四分なる鬱陵島の東端に終わる

1916(大正五)年 - 海軍水路部「日本水路誌」
第4巻第1編 本州北西岸、竹島(Liancourt rocks)第4巻第1編 本州北西岸、隠岐列島に竹島の記述

1920(大正九)年4月 - 「日本水路誌」
第十¥巻上 第2編 朝鮮東岸、竹島(Liancourt rocks)記載あり。

1920(大正九)年7月 - 「日本水路誌 第十¥巻下 朝鮮西岸」
地図に竹島無し

1923 (大正十¥二)年 - 「島根県誌」
第五章に竹島の記述がある。竹島編入の経緯が詳しく書かれている。


昭和時代 (1926 - 1989) 戦前

1927(昭和ニ)年 - 島根県隠岐島庁「隠岐及竹島全図」

1933(昭和八)年2月 - 島根県隠岐支庁発行「隠岐島誌」

1933(昭和八)年 - 「朝鮮沿岸水路誌」
第1巻 朝鮮東岸及南岸、竹島(タケシマ)。前各刊の朝鮮水路誌における「欝陵島」の項目が、「欝陵島及竹島」となっているが、説明には¥"竹島(竹嶼)は島(欝陵 島)の東岸を距る一浬¥余の処に在り、周囲陟嶮其の頂扁平にして大樹密生す、高さ一二九米¥"とあり、この”竹島”は欝陵島属島の”竹嶼”のこと

1934(昭和九)年 - 島根県隠岐島庁「隠岐及竹島全図」

1935(昭和十¥)年 - 「朝鮮全図」

1935(昭和十¥)年 - 「朝鮮現勢便覧」
領土の東限は「慶尚北道鬱陵島竹島」、位置は「東経130度56分」

1936(昭和十¥一) - 陸軍陸地測量部「地図区域一覧図」
軍隊の運用のためその管区を定め、部隊を運用する為の地図

1939(昭和十¥四)年4月24日 - 島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決

1940(昭和十¥五)年8月17日 - 島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ


 戦後(1945.8.15-)

1943年11月27日 - カイロ宣言

1945(昭和ニ十¥)年5月 - 海軍水路部発行「本州沿岸水路誌」
隠岐列島及び竹島の項に竹島の記述がある

1945(昭和ニ十¥)年6月 - 海軍水路部発行「朝鮮沿岸簡易水路誌」
第1冊 ¥"竹島は日本島根県でおおよそ 86海里, 鬱陵島で東南方へ約 50海里の朝鮮東海岸にある島¥"

1945年07月26日 - ポツダム宣言
ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と明記されている。

1945年08月15日 - 日本、ポツダム宣言を受諾

1945(昭和ニ十¥)年11月1日 - 海軍省消滅に伴い、竹島は大蔵省所管になる

1946(昭和ニ一)年1月29日 - SCAPIN第677号
連合国司令部「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」 竹島を日本の行政権から外すが、第6項には、「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政 策を示すものと解釈されてはならない」(ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」)と 明記されている。

1946(昭和ニ一)年2月21日 - 「勅令第97号」
昭和二十¥年勅令第707号の改正 竹島に適用

1946(昭和ニ一)年6月 - SCAPIN第1033号
連合国司令部覚書「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」
連合国はいわゆる「マッカーサー・ライン」を規定する同文書をもって、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めた。その第3項には、「日本船舶又はその乗組員は 竹島から12マイル以内に近づいてはならず、またこの島との一切の接触は許されない。」と記された。しかし、同第5項には、「この許可は、当該区域又はそ の他のいかなる区域に関しても、国家統治権、国境線又は漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表¥明ではない。」と明記されている。

1946(昭和ニ一)年11月18日 - 「勅令第548号」
竹島に財産税法を施行

1947(昭和ニニ)年 - 警察権の停止
警察大学校資料

1947年3月 - 米国国務省において対日講和に向けての最初の草案
草案の根拠はSCAPIN667。その後、数度の若干の修正を経た草案(1949年11月付)は、GHQ外交局長兼アメリカ駐日政治顧問であるウイリアム・シーボルトにも送付された

1947年09月16日 - SCAPIN 1778
竹島を米軍射爆に指定。通知は日本側にのみなされた。第一次

1949(昭和ニ四)年1月8日 - 李大統領が対馬返還要求
李承晩大統領は政府樹立直後の1949年1月、新年記者会見で日本に対馬島返還を要求した

1949年(昭和ニ四)年1月23日 - 漁船第12万栄丸が韓国船から銃撃うけ、船員1人死亡。

1949年(昭和ニ四)年2月1日 - 韓国船から銃撃うけ、第6・第8ゆたか丸でも1人。

1949年(昭和ニ四)年5月 4日 - 韓国船から銃撃うけ、大繁丸でも1人死亡。

1949(昭和ニ四)年8月 - 海上保安庁発行「本州北西岸水路誌」
隠岐列島及び竹島の項に竹島の記述がある

1949年09月19日 - SCAPIN 2046
SCAPIN-1033を廃止する旨の指令書

1949年11月14日 - 駐日政治顧間代理(シーボルド)からバタワース国務次官補へ電報
日本側の要請を受けたシーボルト駐日政治顧問がアメリカ国務省に対して、「竹島はもともと日本領だった」と提言した。正規の意見書(1949年11月19日付)でも、リアンクール岩(竹島)が
我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることと提案した

1950年 - オーストラリア政府の質問に対する米国の回答
米国極東アジア事務局のロバート・A・フィアリー氏のメモ(日付なし)より。(『オーストラリア政府からの質問状に対する回答』より) 「内海の島々、隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻、対馬、竹島、五島列島、琉球北部、伊豆諸島、などの永く日本領と認識されていた島々は日本が保持することになるであろうと考えられている。」

1950(昭和ニ五)年7月 - 連合国総司令部覚書(SCAPIN第2160号)
連合国総司令部は、竹島を米軍の海上爆撃演習地区として指定した。

1951(昭和二六)年1月26日 - 韓国は独自に「対日講話会議に対する韓国政府の方針」を定める

1951(昭和二六)年3月〜4月 - 韓国軍艦による同国近海での日本漁船だ捕が多発。
2カ月間で30隻がだ捕された。

1951(昭和ニ六)年4月27日 - 韓国が対馬の領有権を主張
韓国は米国務省に送った文書の中で、サンフランシスコ条約草案の「領土」部分に対して言及しながら、「韓国は正義が永久的平和の唯一の基盤という堅固な信 頼で対馬島の領土的地位に対する完全な検討をすることを要請する」とし、「歴史的にこの島は韓国領土だったが日本によって 強制的、不法的に占領された」と言った。しかし、米国側は「対馬は日本が長期間にわたり完全に統治しており、平和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさな い」と答え、韓国の要求を拒否した。

1951年7月12日 - 韓国はアメリカに対して、日本が対馬に対する権利を放棄することなどを含めた10項目の覚書を送る

1951年7月18日 - 韓国は再度、アメリカに対して5項目の要求を行い、「独島・対馬島・波浪島」を韓国領に含めるように求めた。

1951(昭和ニ六)年7月19日 - 北東アジア課朝鮮担当官(エモンズ)による会談覚書
ダレス氏は韓国大使の伝達文第一項が対馬島に言及していないことを指摘し、韓国大使はこれが落とされたことに同意した。次いでダレス氏はドク島、パラン島 二島の位置について尋ねた。ヤン氏は、これらは日本海にある小島であり、大体鬱陵島の近くだと思うと述べた。ダレス氏はこれらの島が日本の朝鮮併合前に朝 鮮のものであったかどうかを尋ね、大使は肯定した。ダレス氏は、もしそうであれば条約中の日本による韓国領土の領土権放棄に関する適当な箇所にこれらの島 を入れることについて、特に問題はないとした。

1951(昭和ニ六)年7月19日 - ヤン駐米韓国大使からアチソ¥ン米国務長官宛の書簡
米英両国によるサンフランシスコ平和条約草案内容を承知した韓国は、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソ¥ン米国務長官宛の書簡を提出した。その内容は、「我 が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及び波浪島(パラン島:存在しない架空の島)を含む 日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものであった。

1951年7月26日 - 韓国政府は三度目の修正要求を提出する。
新たな日韓漁業協定が締結されるまで「マッカーサー・ライン」が存続するように要請した。

1951(昭和ニ六)年8月10日 - 「ラスク書簡」
ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡は次の通り、明らかに竹島は日本の領土であるということが肯定されているものであった。 「・・・合衆国政府 は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構¥成するという理論を(サン フランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々 の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領 有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」

1951年8月16日 - 講和条約の最終案が発表¥される。
韓国案の第二条A項の領土規定の修正は受けいれられなかった

1951(昭和ニ六)年9月8日 - サンフランシスコ平和条約条約に調印。
日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定した。(韓国領土に竹島は含まれず)

1952(昭和ニ七)年1月18日 - 李承晩大統領の海洋主権宣言(李承晩ライン宣言)
韓国大統領李承晩、海洋主権宣言により竹島の領有を主張。以後、日本漁船の拿¥捕や銃撃するなど竹島を武装占拠し、非武装であった日本政府に対して脅迫外交を開始。 1965年(昭和40年)の日韓漁業協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿¥捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。船はすべて没収され、漁民は長期間の抑留の後、処罰されて帰還した。李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国人・朝鮮人472人を収容所より放免し、韓国人密入国者の日本滞在の合法化として在留特別許可を与えた。完全に不法な要求であったが、防衛力を持たない当時の日本は韓国の要求を受け入れざるを得ず、以後これらの処遇は在日韓国・朝鮮人の既得権となったまま、今日に至っている。

1952年01月28日 - 日本による抗議
政府は、直 ちに韓国側へ抗議を行い、海上保安庁では、銃撃をも伴う韓国側の激しい取締りから我が国漁船を保護するため、政府方針に基づき、巡視船を派遣し、漁船と韓 国警備艇との間に割って入り煙幕を使用したり、巡視船が漁船を横抱き又はえい航して脱出する、あるいはだ捕寸前の漁船に接舷して、最悪でも乗組員だけは救 出する等の困難な作業により、懸命にだ捕防止に努めた。以降、竹島周辺海域に常時巡視船を配備して監視を続けるとともに、我が国漁業者の安全確保の見地か ら被だ捕の防止指導等を行う。

1952年04月28日 - サンフランシスコ講和条約発効。

1952年(昭和二七)年2月11日 - 漁船第3石宝丸が韓国船に銃撃され、船員1人死亡。

1952(昭和ニ七)年4月 - 「マッカーサー・ライン」は、1952(昭和27)年4月に廃止が指令され、またその3日後の4月28日には平和条約の発効により、行政権停止の指令等も必然的に効力を失うこととなりました。

1952(昭和ニ七)年7月 - 日米行政協定
米軍が引き続き竹島を訓練場として使用することを希望したことを受け、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(注:旧 日米安保条約に基づく取り決め。現在の「日米地位協定」に引き継がれる。)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定する とともに、外務省はその旨を告示した。官報に(竹島爆撃機訓練地域として明記)。

1952(昭和ニ七)年10月3日 - Koreans on Liancourt Rocks

1952(昭和ニ七)年11月5日 - Confidential Security Information about Liancourt Rocks
米国務省極東局北東アジア課長ケネス・T・ヤング発駐韓米国大使館臨時代理大使E・アラン・ライトナー宛て書簡

1952(昭和ニ七)年12月4日 - CONFIDENTIAL SECURITY INFORMATION
駐韓米国大使館臨時代理大使E・アラン・ライトナー発米国務省極東局北東アジア課長ケネス・T・ヤング宛て書簡

1953(昭和ニ八)年1月12日 - 韓国政府、「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿¥捕を指示する。

1953(昭和ニ八)年2月4日 - 漁船第1大邦丸、第2大邦丸が済州島付近で韓国軍の銃撃をうけ、瀬戸重四郎(一説には重次郎)漁労長が射殺される。

1953(昭和ニ八)年3月 - 日米合同委員会で竹島の演習区域からの解除が決定

1953年04月20日 - 独島義勇兵を結成した韓国の青年が竹島に上陸

1953年06月19日 - 島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す

1953(昭和ニ八)年6月24日 - 隠岐高校水産科教官一行が事実確認のために竹島へ渡航隠岐高校水産科(現・隠岐水産高)の元指導教官、岩滝克己さんの証言。県の試験船からの情報を受け、 事実確認のため五三年六月二十¥四日、学校の実習船に乗り込み、同僚ら十¥三人で渡航した。日本側の乱獲で絶滅したとされるニホンアシカが、多数生息していた 状況を説明。鬱陵島からワカメやアワビ採取のため渡航し、夏から秋にかけて滞在するという三人の韓国漁民がおり、漁獲物の運搬でやってくる仲間の船がしけ で来ず、食料が乏しいというので、持参した米とタバコを差し出すと大変喜び、「捕まえたアシカを料理してごちそうすると話した」という。

1953(昭和ニ八)年6月27日 - 島根県、海上保安庁協働で竹島を調査し、韓国人6名に対し退去命令をし、「日本島根県隠岐郡五箇村」という領土標識(木柱)を建てる

1953(昭和ニ八)年7月12日 - 竹島に上陸していた韓国の守備隊により、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した日本の海上保安庁巡視船に向け、発砲・銃撃される。以後、日本政府の抗議にも関らず竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近は不可能¥となり、事実上の占領を実施する。

1953 (昭和ニ八)年7月22日 - アメリカ国務省がラスク書簡の竹島日本所属を追認
国務省北東アジア課バーマスター(L.Burmaster)による覚書 ¥"日韓間リアンクール岩紛争のあり得べき解決策¥"
「ディーン・ラスク国務次官補の1951年8月10日づけ通牒において述べられています。」
これは竹島を爆撃して抗議をしてきた韓国へ対し、米国政府の公式見解として、ラスク書簡の見解はサンフランシスコ条約締結以降も有効であり、韓国はこの見解、すなわち竹島は日本領で有ると言う事を受け入れるべきだと述べている。

1953(昭和二八)年9月3日 - 韓国海軍が「李ライン侵犯船は撃沈する」と発表¥。

1953年07月27日 - 朝鮮戦争終結

1953年9月 - 韓国軍、竹島を軍事占領

1953年10月17日 - 日本の国会議員が海上から竹島を調査

1953年10月21日 - 島根県水産試験船・島根丸の船員と記者が竹島に上陸

1953(昭和ニ八)年10月31日- 日本弁護士連合会「李ライン問題に関する日本漁民拉致に対し韓国の反省を求める件(宣言)」
人権擁護大会宣言・決議集“凡そ、1国の領海は、3海里を限度とすることは国際法上の慣行であり、公海内に於ける魚族其他一切の資源は人類共同の福祉の為 めに全世界に解放せらるべきである。然るに、韓国大統領は、これを封鎖して、平和的漁船を拿¥捕し、漁民を拉致し且つ刑事犯人として処罰するが如きは国際正 義に悖る行為である。よって、本委員会は、正義と平和の名において、茲に韓国の反省と漁船、漁民の即時解放を求め、以って、相倚り相助け東亜の再建に貢献 することを期待する。”

1953年10月23日 - 海上保安庁の巡視船2隻が竹島に近付いて韓国の領土標識を撤去し、日本の領土表¥示を設置

1953年11月30日 - 駐日米国大使館公使参事官ウイリアム・T・ターナー(William T.Turner)による調書 ¥"リアンクール岩(竹島)論争に関する覚書¥"
韓国に対し、我々の以前の見解表¥明(ラスク書簡)を想起させる。日本との間で解決に至るべき
強い希望を表¥明する。合衆国はこの問題にどのような形にせよ介入することを避けるよう努めるが
衝突が続けばラスク書簡を公表¥しそこで表¥明された見解を反復せざるを得なくなるかもしれないと述べる。もし韓国がラスク書簡で表¥明された見解を受け入れられないなら仲裁裁判か国際司法裁判所への付託に向けた措置を取るべきだと示唆する。

1954年(昭和ニ九)年2月10日 - 外務省の覚書「1954年2月10日付亜2第15号」

1954(昭和ニ九)年8月 - 竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認された。韓国側により竹島に灯台が建設されていることを確認した。

1954(昭和ニ九)年8月15日 - ヴァン・フリート特命報告書
大統領特命大使ヴァン・フリートが使節団を率いて極東各国を歴訪して作成。非公式に竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を韓国に伝達した等の事を大統領に報告。
・一方的な領海宣言(李承晩ライン)は違法である
・米国政府はサンフランシスコ講和条約において竹島は日本領土であると結論している
・この領土問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれる

1950年代 - 竹島をめぐる論争における日韓それぞれの主張

1954(昭和ニ九)年 - 韓国”独島切手”発行に対する公式抗議

1954(昭和ニ九)年9月25日 - 韓国政府による「獨島領有に関する1954年2月10日付、亜2第15号、日本外務省の覚書として日本政府が取った見解に反駁する大韓民国政府の見解」

1954(昭和ニ九)年9月25日 - 国際司法裁判所提訴についての口上書
日本政府は、竹島紛争について、国際司法裁判所に付託して、公平な第三者の裁判による解決を韓国に提案。

1954(昭和ニ九)年10月 - 韓国側は国際司法裁判所への付託の提案を拒否。

1954(昭和ニ九)年11月16日 - 駐米日本大使館田中一等書記官との会談覚書 - 主題「リアンクール紛争を安全保障理事会に付託するとの日本の提案」

1954(昭和ニ九)年11月17日 - 駐米日本大使館島公使との会談覚書 - 主題「リアンクール岩」

1954(昭和ニ九)年11月30日 - 韓国守備隊が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃する事件が発生。

1955(昭和三十¥)年2月14日 - 漁船第6あけぼの丸が韓国軍艦に追突され沈没・船員21人が死亡。

1955(昭和三十¥)年11月17日 - 韓国統合参謀本部が、「李ライン侵犯船は撃沈」と発表¥
全日本海員組合が翌18日に「韓国の発表¥は不当」と中央執行委員会声明を発表¥。

1958(昭和三三)年5月18日 - 「李ライン侵犯」で韓国に抑留されていた日本の漁船船員が全員釈放された。しかし、この後もだ捕が発生した。

1959(昭和三四)年1月22日 - 韓国警備艇が日本漁船2隻をだ捕。2月4日にも一隻だ捕。

1961(昭和三六)年12月26日 - 日本政府「韓国官憲による竹島の不法占拠に関する韓国政府への抗議について」

1962(昭和三七)年3月 - 日韓外相会談
日本政府が再度竹島問題の国際司法裁判所への付託を韓国に提案したが、韓国側からは前向きな反応が得られず。

1964(昭和三九)年1月29日 - 漁船第22佐代丸が韓国沿岸で韓周警備艇に拿¥捕された。
なお、52年から64年までの間に、韓国によってだ捕された漁船は232隻、2784人。拿¥捕の際の攻撃で5人が死亡したほか抑留中に収容所で相当数が死亡している。

1965(昭和四十¥)年5月 - 韓国が米の日韓共同管理提案拒否
朴正煕大統領がワシントンを訪問した際、ラスク米国務長官が日韓共同で灯台を建設して管理し、領有権争いをしないよう促したものの、韓国側が拒否

1965(昭和四十¥)年6月22日 - 日韓基本条約調印
「李承晩ライン」が廃止されるが竹島問題は紛争処理事項とされる

1965-1976(昭和十¥四−五一)年 - 島根県知事、県議会議長連名で国に対して竹島の領土権確保を要望

1977(昭和五二)年3月19日 - 島根県議会、竹島の領土権確立及び安全操業の確保について決議     

1977(昭和五二)年4月27日 - 島根県竹島問題解決促進協議会(促進協)設立

1977-1985(昭和五二−平成七)年 - 促進協、国に対して竹島の領土権の確立及び安全操業の確保を要望

1987(昭和六二)年 - 竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議設立

1977-現在(昭和五二-現在)年 - 国への重点要望として竹島の領土権及び安全操業の確保を要望

平成時代(1989 - 現在)

2004(平成十¥六)年1月16日 - ¥"独島¥"切手への公式抗議
韓国郵政庁が発行した独島(竹島)切手に対して川口順子
外 相は同日、趙世衛駐日韓国大使に遺憾の意志を伝える。また高野紀元駐韓大使が外交通商省の金在燮次官に「わが国の領土である竹島を 主題とした切手の発行は容認できない」と抗議し、万国郵便連合の「良好な国際協力関係を求め」る憲章の精神に反するとして、加盟国に通知すると告げる。

2004(平成十¥六)年3月15日 - 島根県議会、国における「竹島の日」制定について意見書を採択

2004(平成十¥六)年6月17日 - 韓国海洋警察当局の「遊船事業免許証」発給に対し日本大使館が正式抗議
韓国の海洋警察当局が竹島(韓国名・独島)の観光船ツアーを主催する韓国の海運会社「独島観光海運」に運航許可にあたる「遊船事業免許証」を発給した。こ れを受けて在韓日本大使館は同日、韓国政府に「日本の領土に対する管轄権行使であり、容認できない」として抗議し、許可撤回を求めた。     

2004(平成十¥六)年10月25日-26 - 島根県、「竹島の日」制定を国へ要望

2005(平成十¥七)年3月16日 - 島根県議会、本会議で「竹島の日を定める条例案」を賛成多数で可決

2005(平成十¥七)年3月16日 - 小泉首相が「以前から日本は(竹島は)日本の領土」
島根県議会での「竹島の日」条例の可決、成立について小泉首相は、「以前から日本は日本の領土、韓国は韓国の領土と(主張して)対立してきた。それを前提 に対処してきたことを踏まえ、日韓友好を基調にして対応する必要がある」と述べた。同時に「今は感情的な対立があるが、それにはあまり左右されずに対処す る必要がある」と強調した。

2005(平成十¥七)年3月25日 - 島根県知事、条例を公布・施行

2006(平成十¥八)年2月22日 - 第1回「竹島の日」記念式典開催

2006(平成十¥八)年2月23日 - 高野紀元・駐韓日本大使が竹島は明白な日本領土だと主張
高野大使が、外信記者クラブ招請の記者懇談会で、「竹島問題は韓日間に明らかな観点の差がある」とし、「しかし、歴史的に、また法律的に竹島は日本領土だ」「同問題を解決するためには、感情的にならず、平和的方案を探り葛藤を解決しなければならない」と述べた。

翻訳を見る

타이쇼 시대 이후의 타케시마(독도)에 관한 자료

타이쇼 시대(1912 - 1926)

1912(타이쇼원) 년- 시마네현 오키도쵸 「오키 전도」
지도의 좌상에 있는 「본토에 대한 오키국의 위치」에 「타케시마」의 기재가 있다

1912(타이쇼원) 년 - 조선 총독부편 「최근 조선 사정 요람」  
2판 와타나베 때문창고 동경백이104번103 분부터백삼10번 504분에 이르러, 1912(타이쇼원) 년 - 일한 서점 편집부 「최신 조선 지지」
조선의 동단을 동경 130도 54부와 명기

1912(타이쇼원) 년 - 키타가키공지로초등학교 지리 교재」저
동쪽은 동백삼10번 504분 되는 울릉도의 동단에 끝난다.

1916(타이쇼5) 년 - 해군 수로부 「일본 수로잡지」
제4 각권 1편혼슈 북서기슭, 타케시마(Liancourt rocks) 제4 각권 1편혼슈 북서기슭, 오키 열도에 타케시마의 기술

1920(타이쇼9) 년 4월 - 「일본 수로잡지」
제10권상 제 2편조선 동해안, 타케시마(Liancourt rocks) 기재 있어.

1920(타이쇼9) 년 7월 - 「일본 수로지 제10권하 조선 서해안」
지도에 타케시마 없음

1923 (타이쇼102) 년 - 「시마네현잡지」
제5장에 타케시마의 기술이 있다.타케시마 편입의 경위가 자세하게 쓰여져 있다.


쇼와 시대 (1926 - 1989) 전쟁 전

1927(쇼와니) 년 - 시마네현 오키도쵸 「오키급타케시마 전도」

1933(쇼와8) 년 2월 - 시마네현 오키 지청 발행 「오키도지」

1933(쇼와8) 년 - 「조선 연안 수로잡지」
제1권조선 동해안급남해안, 타케시마(다케시마).전 각 간의 조선 수로잡지에 있어서의 「울능도」의 항목이, 「울능도급타케시마」가 되고 있지만, 설명에는"타케시마(타케서)는 섬(울능도)의 동해안을 거일리여의 곳에 있어, 주위척험다른 정상 평평하게 해 큰 나무밀생, 높이129미"와 있어, 이”타케시마”는 울능도족도의”죽서”

1934(쇼와9) 년 - 시마네현 오키도쵸 「오키급타케시마 전도」

1935(쇼와10) 년 - 「조선 전도」

1935(쇼와10) 년 - 「조선 현정세 편람」
영토의 동한은 「경상북도 울릉도 타케시마」, 위치는 「동경 130도 56부」

1936(쇼와10하지메) - 육군 육지 측량부 「지도 구역 일람도」
군대의 운용을 위해 그 관할구역을 정해 부대를 운용하기 때문에(위해)의 지도

1939(쇼와104) 년 4월 24일 - 시마네현 오키군 고카무라 의회, 타케시마를 고카무라의 구역에 편입하는 것을 의결

1940(쇼와105) 년 8월 17일 - 시마네현, 타케시마의 공용을 중지해, 해군 용지로서 마이즈루 진수부에 계승한다


 전후(1945.8.15-)

1943년 11월 27일 - 카이로 선언

1945(쇼와니10) 년 5월 - 해군 수로부 발행 「혼슈 연안 수로잡지」
오키 열도 및 타케시마의 항에 타케시마의 기술이 있다

1945(쇼와니10) 년 6월 - 해군 수로부 발행 「조선 연안 간이 수로잡지」
제1권 "타케시마는 일본 시마네현에서 대체로 86 해리, 울릉도에서 동남분에게 약 50 해리의 조선 동해안에 있는 섬"

1945년 07월 26일 - 포츠담 선언
포츠담 선언 제 8항:「일본노 주권하 혼슈, 홋카이도, 큐슈급시코쿠병니오등 노 결정 술제작은 섬니 국한 세라르베시」라고 명기되어 있다.

1945년 08월 15일 - 일본, 포츠담 선언을 수락

1945(쇼와니10) 년 11월 1일 - 해군성 소멸에 수반해, 타케시마는 대장성 소관이 된다

1946(쇼와니1) 년 1월 29일 - SCAPIN 제 677호
연합국 사령부 「약간의 외곽 지역의 일본으로부터의 정치상 및 행정상의 분리에 관한 각서」타케시마를 일본의 행정권으로부터 제외하지만, 제6항에는, 「이 지령중의 어떠한 규정도, 포츠담 선언의 제8항에 기술되어 있는 제작은 섬의 최종적 결정에 관한 연합국의 정책을 나타내는 것이라고 해석되어서는 안 된다」(포츠담 선언 제 8항:「일본노 주권하 혼슈, 홋카이도, 큐슈급시코쿠병니오등 노 결정 술제작은 섬니 국한 세라르베시」)이라고 명기되어 있다.

1946(쇼와니1) 년 2월 21일 - 「칙령 제 97호」
쇼와 20년 칙령 제 707호의 개정 타케시마에 적용

1946(쇼와니1) 년 6월 - SCAPIN 제 1033호
연합국 사령부 각서 「일본의 어업 및 포경업에 인가된 구역에 관한 각서」
연합국은 이른바 「막카서·라인」을 규정하는 같은 문장서를 가지고, 일본의 어업 및 포경 허가 구역을 정했다.그 제3항에는, 「일본 선박 또는 그 승무원은 타케시마로부터 12마일 이내에 가까워져 안되어, 또 이 섬과의 일절의 접촉은 용서되지 않는다.」라고 기록되었다.그러나, 동 제5항에는, 「이 허가는, 해당 구역 또는 그 외의 어떠한 구역에 관해서도, 국가 통치권, 국경선 또는 어업권에 대한 최종적 결정에 관한 연합국의 정책의 표명은 아니다.」라고 명기되어 있다.

1946(쇼와니1) 년 11월 18일 - 「칙령 제 548호」
타케시마에 재산세법을 시행

1947(쇼와 니니) 년 - 경찰권의 정지
경찰 대학교 자료

1947년 3월 - 미국 국무성에 대해 대일 강화를 향한 최초의 초안
초안의 근거는 SCAPIN667.그 후, 몇차례의 약간의 수정을 거친 초안(1949년 11월 첨부)은,GHQ외교 국장겸미국 주일 정치 고문인 위리엄·Siebold에게도 송부되었다

1947년 09월 16일 - SCAPIN 1778
타케시마를 미군 쏘아 맞혀 폭으로 지정.통지는 일본 측에만 되었다.제1차

1949(쇼와니4) 년 1월 8일 - 이 대통령이 대마도 반환 요구
이승만 대통령은 정부 수립 직후의 1949년 1월, 신년 기자 회견에서일본에 대마도 반환을 요구했다

1949년(쇼와니4) 연 1월 23일 - 어선 제 12 만에환이 한국선으로부터 총격 받아 선원 1명 사망.

1949년(쇼와니4) 연 2월 1일 - 한국선으로부터 총격 받아 제6· 제8 유타카 동그라미로도 1명.

1949년(쇼와니4) 연 5월 4일 - 한국선으로부터 총격 받아 대번 동그라미로도 1명 사망.

1949(쇼와니4) 년 8월 - 해상보안청 발행 「혼슈 북서기슭 수로잡지」
오키 열도 및 타케시마의 항에 타케시마의 기술이 있다

1949년 09월 19일 - SCAPIN 2046
SCAPIN-1033을 폐지하는 취지의 지령서

1949년 11월 14일 - 주일 정치고방세리(시보르드)로부터 바타워스 국무 차관보에게 전보
일본측의 요청을 받은 Siebold 주일 정치 고문이 미국 국무성에 대해서, 「타케시마는 원래 일본령이었다」라고 제언했다.정규의 의견서(1949년 11월 19 일자)에서도, 리안크르바위(타케시마)가
우리의 제안에 걸리는 제3조에 대해 일본에 속하는 것으로서 명기되는 것으로 제안했다

1950년 - 오스트레일리아 정부의 질문에 대한 미국의 회답
미국 극동 아시아 사무국의 로버트·A·피아리씨의 메모(일자 없음)보다.( 「오스트레일리아 정부로부터의 질문장에 대한 회답」보다) 「내해의 시마시마, 오키 열도, 사와타리, 오쿠시리, 레분, 리시리, 대마도,타케시마, 오도 열도, 류큐 북부, 이즈제도, 등이 영원하고 일본령이라고 인식되고 있던 섬들은 일본이 보관 유지하게 될 것이다라고 생각되고 있다.」

1950(쇼와니5) 년 7월 - 연합국 총사령부 각서(SCAPIN 제 2160호)
연합국 총사령부는, 타케시마를 미군의 해상 폭격 연습 지구로서 지정했다.

1951(쇼와26) 년 1월 26일 - 한국은 독자적으로 「대일 강화회의에 대한 한국 정부의 방침」을 정한다

1951(쇼와26) 년 3월~4월 - 한국군함에 의한 동쿠니치카해로의 일본 어선이다 포가 다발.
2개월간에 30척이 나포되었다.

1951(쇼와니6) 년 4월 27일 - 한국이 대마도의 영유권을 주장
한국은 미국무성에 보낸 문서속에서, 샌프란시스코 조약 초안의 「영토」부분에 대해서 언급하면서, 「한국은 정의가 영구적 평화의 유일한 기반이라고 하는 견고한 신뢰로 대마도의 영토적 지위에 대한 완전한 검토를 하는 것을 요청한다」라고 해, 「역사적으로 이 섬은 한국 영토였지만 일본에 의해서 강제적, 불법적으로 점령되었다」라고 했다.그러나, 미국측은 「대마도는 일본이 장기간에 걸쳐 완전하게 통치하고 있어, 평화 조약은 대마도의 현재의 지위에 영향을 미치지 않는다」라고 대답해 한국의 요구를 거부했다.

1951년 7월 12일 - 한국은 미국에 대해서, 일본이 대마도에 대할 권리를 방폐하는 것 등을 포함한 10항목의 각서를 보낸다

1951년 7월 18일 - 한국은 재차, 미국에 대해서 5항목의 요구를 실시해, 「독도·대마도·파랑섬」을 한국령에 포함하도록(듯이) 요구했다.

1951(쇼와니6) 년 7월 19일 - 북동 아시아과 조선 담당관(에몬즈)에 의한 회담 각서
다레스씨는 한국 대사의 전달문 제1항이 대마도에 언급하고 있지 않는 것을 지적해, 한국 대사는 이것이 떨어졌던 것에 동의 했다.그 다음에 다레스씨는 드크섬, 파란섬후타지마의 위치에 도착해 물었다.얀씨는, 이것들은 일본해에 있는 작은 섬이며, 대개 울릉도의 근처라고 생각한다고 말했다.다레스씨는 이러한 섬이 일본의 조선 병합전에 조선의 것이었는지를 물어 대사는 긍정했다.다레스씨는, 만약 그렇다면 조약중의 일본에 의한 한국 영토의 영토권 방폐에 관한 적당한 개소에 이러한 섬을 들어갈 수 있는 것에 대하여, 특히 문제는 없다고 했다.

1951(쇼와니6) 년 7월 19일 - 얀 주미 한국 대사로부터 아치소미국무장관앞의 서간
미국과 영국 양국에 의한 샌프란시스코 평화 조약 초안 내용을 안 한국은, 대들보(얀) 주미 한국 대사로부터 아치소미국무장관앞의 서간을 제출했다.그 내용은,「우리 정부는, 제2조 a항의 「방폐한다」라고 하는 말을 「(일본이) 조선 및 제주도, 거문도, 울릉도, 독도 및 파랑섬(파란섬:존재하지 않는 가공의 섬)을 포함한 일본에 의한 조선의 병합전에 조선의 일부에서 만난 섬들에 대한 모든 권리, 권원 및 청구권을 1945년 8월 9일에 방폐한 것을 확인한다.」에 옮겨놓는 것을 요망한다.」라고 하는 것이었다.

1951년 7월 26일 - 한국 정부는 세번째의 수정 요구를 제출한다.
새로운 일한어업 협정이 체결될 때까지 「막카서·라인」이 존속하도록(듯이) 요청했다.

1951(쇼와니6) 년 8월 10일 - 「러스크 서간」
러스크 극동 담당 국무 차관보로부터 대들보 대사에의 서간은 다음과 같이, 분명하게 타케시마는 일본의 영토인 것이 긍정되고 있는 것이었다. 「···합중국 정부는, 1945년 8월 9일의 일본에 의한 포츠담 선언 수락이 동선언으로 취급된 지역에 대한 일본의 정식적 있어 해 최종적인 주권 방폐를 구성 한다고 하는 이론을(샌프란시스코 평화) 조약이 취해야 한다고는 생각하지 않는다.드크섬, 또는 타케시마내지 리안크르바위로서 알려진 섬에 관해서는, 이 통상 무인인 이와시마는, 우리의 정보에 의하면 조선의 일부로서 취급되었던 것이 결코 없고, 1905년경부터 일본의 시마네현 오키섬지청의 관할하에 있다.이 섬은, 전혀 조선에 의해서 영유권의 주장이 이루어졌다고는 볼 수 없다. ····」

1951년 8월 16일 - 강화 조약의 최종안이 발표된다.
한국안의 제2조A항의 영토 규정의 수정은 받아 넣을 수 없었다

1951(쇼와니6) 년 9월 8일 - 샌프란시스코 평화 조약 조약에 조인.
일본에 의한 조선의 독립 승인을 규정하는 것과 동시에, 일본이 방폐해야 할 지역으로서 「제주도, 거문도 및 울릉도를 포함한 조선」이라고 규정했다.(한국 영토에 타케시마는 포함되지 않고)

1952(쇼와니7) 년 1월 18일 - 이승만 대통령의 해양 주권 선언(이승만 리인 선언)
한국 대통령 이승만, 해양 주권 선언에 의해 타케시마의 영유를 주장.이후, 일본 어선의 나포나 총격 하는 등 타케시마를 무장 점거해, 비무장인 일본 정부에 대해서 협박 외교를 개시. 1965년(쇼와 40년)의 한일 어업 협정이 성립할 때까지의 13년간에,한국에 의한 일본인 억류자는 3,929명, 나포 된 선박수는 328척, 사상자는 44명을 세었다.배는 모두 몰수되어 어민은 장기간의 억류의 뒤, 처벌되어 귀환했다.이승만 리인의 문제를 해결하는 것에 즈음해, 일본 정부는 한국 정부의 요구에 따르고,일본인 억류자의 반환과 교환에, 상습적 범죄자 혹은 중대 범죄자로서 수감되고 있던 재일 한국인·조선인 472명을 수용소보다 방면해, 한국인 밀입국자의 일본 체재의 합법화로서 재류 특별 허가를 주었다.완전하게 불법인 요구였지만, 방위력을 가지지 않는 당시의 일본은 한국의 요구를 받아 들이지 않을 수 없지 않고, 이후 이러한 처우는 재일 한국·조선인의 기득권이 된 채로, 오늘에 이르고 있다.

1952년 01월 28일 - 일본에 의한 항의
정부는,즉시 한국측에 항의를 실시해, 해상보안청에서는, 총격도 수반하는 한국측의 격렬한 단속으로부터 우리 나라 어선을 보호하기 위해(때문에), 정부 방침에 근거해, 순시선을 파견해, 어선과 한국 경비정과의 사이에 나누어들이 연막을 사용하거나 순시선이 어선을 옆구리에 끼기 또 파리 있어 항해해 탈출한다, 혹은 나포 직전의 어선에 접현하고, 최악에서도 승무원만은 구출하는 등의 곤란한 작업에 의해, 열심히 나포 방지에 노력했다.이후, 타케시마 주변 해역에 상시 순시선을 배치하고 감시를 계속하는 것과 동시에, 우리 나라 어업자의 안전 확보의 견지로부터 피나포의 방지 지도등을 실시한다.

1952년 04월 28일 - 샌프란시스코 강화 조약 발효.

1952년(쇼와27) 연 2월 11일 - 어선 제 3석보환이 한국선에 총격 되어 선원 1명 사망.

1952(쇼와니7) 년 4월 - 「막카서·라인」은, 1952(쇼와 27) 년 4월에 폐지가 지령되어 또 그 3일 후의 4월 28일에는 평화 조약의 발효에 의해, 행정권 정지의 지령등도 필연적으로 효력을 잃게 되었습니다.

1952(쇼와니7) 년 7월 - 일·미 행정 협정
미군이 계속해 타케시마를 훈련장으로서 사용하는 것을 희망한 것을 받아 일·미 안전 보장 조약의 실시를 위해서 설립된 미일 합동 위원회는, 일·미 행정 협정(주:구일·미 안보 조약에 근거하는 결정.현재의 「일미 지위 협정」에 인계된다.)에 근거해, 주일미군의 사용하는 해상 연습 및 훈련 구역의 하나로서 타케시마를 지정하는 것과 동시에, 외무성은 그 취지를 고시했다.관보에(타케시마 폭격기 훈련 지역으로서 명기).

1952(쇼와니7) 년 10월 3일 - Koreans on Liancourt Rocks

1952(쇼와니7) 년 11월 5일 - Confidential Security Information about Liancourt Rocks
미국무성 극동국 북동 아시아 과장 케네스·T·영발주한미국 대사관 임시 대리 대사 E·알란·라이트나 앞서간

1952(쇼와니7) 년 12월 4일 - CONFIDENTIAL SECURITY INFORMATION
주한미국 대사관 임시 대리 대사 E·알란·라이트나발미국무성 극동국 북동 아시아 과장 케네스·T·영 앞서간

1953(쇼와니8) 년 1월 12일 - 한국 정부, 「이승만 리인」내에 출어 한 일본 어선의 철저나포를 지시한다.

1953(쇼와니8) 년 2월 4일 - 어선 제 1 대국환, 제2 대국환이 제주도 부근에서 한국군의 총격을 받아 세토중시로(일설에는 시게츠구 츠카사) 어로장이 사살된다.

1953(쇼와니8) 년 3월 - 미일 합동 위원회에서 타케시마의 연습 구역으로부터의 해제가 결정

1953년 04월 20일 - 독도 의용병을 결성한 한국의 청년이 타케시마에 상륙

1953년 06월 19일 - 시마네현이 현 어민에 대해, 타케시마에 관한 어업 허가권을 내린다

1953(쇼와니8) 년 6월 24일 - 오키 고교 수산과교관 일행이 사실 확인을 위해서 타케시마에 도항 오키 고교 수산과(현·오키 수산고)의 전 지도교관, 이와타끼 카츠미씨의 증언.현의 시험선으로부터의 정보를 받아 사실 확인을 위해 5삼년 6월 204일, 학교의 실습선에 탑승해, 동료등10세 명으로 도항했다.일본측의 난획으로 멸종했다고 여겨지는 니혼아시카가, 다수 생식 하고 있던 상황을 설명.울릉도로부터 미역이나 전복 채취를 위해 도항해, 여름부터 가을에 걸쳐 체재한다고 하는 세 명의 한국 어민이 있어 어획물의 운반으로 오는 동료의 배가 눅눅해져로 오지 않고, 식료가 부족하다고 하므로, 지참한 미와 담배를 내밀면 대단히 기쁨,「잡은 강치를 요리해 맛있는 음식을 대접한다고 이야기했다」라고 한다.

1953(쇼와니8) 년 6월 27일 - 시마네현, 해상보안청 협동으로 타케시마를 조사해, 한국인 6명에 대해 퇴거 명령을 해, 「일본 시마네현 오키군 고카무라」라고 하는 영토 표지(목 기둥)를 세운다

1953(쇼와니8) 년 7월 12일 - 타케시마에 상륙하고 있던 한국의 수비대에 의해, 불법 어업에 종사하고 있는 한국 어민에 대해 타케시마로부터 철거하도록 요구한 일본의 해상보안청 순시선을 향해서 발포·총격 된다.이후, 일본 정부의 항의에도 관계하지 않고 타케시마의 무장화를 진행시켜 일본의 함선의 접근은 불가능이 되어, 사실상의 점령을 실시한다.

1953 (쇼와니8) 년 7월 22일 - 미국 국무성이 러스크 서간의 타케시마 일본 소속을 추인
국무성 북동 아시아과 바 마스터(L.Burmaster)에 의한 각서 "일한간 리안크르바위 분쟁이 있어 이득나무 해결책"
「딘·러스크 국무 차관보의 1951년 8월 10 날짜 통첩에 대해서 기술되어 있습니다.」
이것은 타케시마를 폭격하고 항의를 해 온 한국에 대해, 미국 정부의 공식 견해로서 러스크 서간의 견해는 샌프란시스코 조약 체결 이후도 유효하고, 한국은 이 견해, 즉 타케시마는 일본령으로 있다고 하는 일을 받아 들여야 한다고 말하고 있다.

1953(쇼와 2월과 8월) 년 9월 3일 - 한국 해군이 「이 라인 침범선은 격침한다」라고 발표.

1953년 07월 27일 - 한국 전쟁 종결

1953년 9월 - 한국군, 타케시마를 군사 점령

1953년 10월 17일 - 일본의 국회 의원이 해상에서 타케시마를 조사

1953년 10월 21일 - 시마네현 수산 시험선·시마네환의 선원과 기자가 타케시마에 상륙

1953(쇼와니8) 년 10월 31일- 일본 변호사 연합회 「이 라인 문제에 관한 일본 어민 납치에 대해 한국의 반성을 요구하는 건(선언)」
인권옹호 대회 선언·결의집“대략, 1국의 영해는, 3 해리를 한도로 하는 것은 국제법상의 관행이며, 공해내 에 있어서 어족기외 모두의 자원은 인류 공동의 복지이기 때문에 째에 전세계에 해방한다.어떤에, 한국 대통령은, 이것을 봉쇄하고, 평화적 어선을 나포 해, 어민을 납치해 한편 형사범인으로서 처벌하지만 여 나무는 국제 정의에 패행위이다.따라서, 본위원회는, 정의와 평화의 이름에 대하고, 자에 한국의 반성과 어선, 어민의 즉시 해방을 요구해 이는, 상의상도움 동아의 재건에 공헌하는 것을 기대한다.”

1953년 10월 23일 - 해상보안청의 순시선 2척이 타케시마에 가까워져 한국의 영토 표지를 철거해, 일본의 영토표시를 설치

1953년 11월 30일 - 주일 미국 대사관 공사 참사관 위리엄·T·타나(William T.Turner)에 의한 조서 "리안크르바위(타케시마) 논쟁에 관한 각서"
한국에 대해, 우리의 이전의 견해표명(러스크 서간)을 상기시킨다.일본과의 사이에 해결에 이르러야 한다
강한 희망을 표명 한다.합중국은 이 문제에 어떠한 형태이든 개입하는 것을 피하도록(듯이) 노력하지만
충돌이 계속 되면 러스크 서간을 공표해 거기서 표명 된 견해를 반복 하지 않을 수 없게 될지도 모른다고 말한다.도해 한국이 러스크 서간으로 표명 된 견해를 받아 들여지지 않으면 중재 재판국제사법재판소에의 부탁을 향한 조치를 취해야 한다고 시사한다.

1954년(쇼와니9) 연 2월 10일 - 외무성의 각서 「1954년 2월 10 일자아 2 제 15호」

1954(쇼와니9) 년 8월 - 타케시마 주변을 항행중의 해상보안청 순시선이 동섬으로부터 총격되어 이것에 의해 한국의 경비대가 타케시마에 주둔하고 있는 것이 확인되었다.한국측에 의해 타케시마에 등대가 건설되고 있는 것을 확인했다.

1954(쇼와니9) 년 8월 15일 - 밴·후리트 특명 보고서
대통령 특명 대사 밴·후리트가 사절단을 인솔해 극동 각국을 역방해 작성.비공식에 타케시마 문제는 국제사법재판소를 통해서 해결되는 것이 바람직한다고 하는 미국의 의향을 한국에 전달한 등의 일을 대통령에 보고.
·일방적인 영해 선언(이승만 리인)은 위법이다
·미국 정부는 샌프란시스코 강화 조약에 대해 타케시마는 일본 영토이다고 결론 하고 있다
·이 영토 문제는 국제사법재판소를 통해서 해결되는 것이 바람직한다

1950년대 - 타케시마를 둘러싼 논쟁에 있어서의 일한 각각의 주장

1954(쇼와니9) 년 - 한국”독도 우표”발행에 대한 공식 항의

1954(쇼와니9) 년 9월 25일 - 한국 정부에 의한 「독도영유에 관한 1954년 2월 10 일자, 아 2 제 15호, 일본 외무성의 각서로서 일본 정부가 취한 견해에 반박 하는 대한민국 정부의 견해」

1954(쇼와니9) 년 9월 25일 - 국제사법재판소 제소에 대한 외교 문서
일본 정부는, 타케시마 분쟁에 대해서, 국제사법재판소에 부탁 하고, 공평한 제삼자의 재판에 의한 해결을 한국에 제안.

1954(쇼와니9) 년 10월 - 한국측은 국제사법재판소에의 부탁의 제안을 거부.

1954(쇼와니9) 년 11월 16일 - 주미 일본 대사관 타나카 일등 서기관과의 회담 각서 - 주제 「리안크르 분쟁을 안전 보장 이사회에 부탁 한다라는 일본의 제안」

1954(쇼와니9) 년 11월 17일 - 주미 일본 대사관시마 공사와의 회담 각서 - 주제 「리안크르바위」

1954(쇼와니9) 년 11월 30일 - 한국 수비대가 타케시마에 가까워진 일본 경비정에 포격 하는 사건이 발생.

1955(쇼와 30) 년 2월 14일 - 어선 제 6 여명환이 한국군함에 추돌되어 침몰·선원 21명이 사망.

1955(쇼와 30) 년 11월 17일 - 한국 통합 참모본부가, 「이 라인 침범선은 격침」이라고 발표
전일본 선원 조합이 다음 18일에 「한국의 발표는 부당」이라고 중앙집행위원회 성명을 발표.

1958(쇼와33) 년 5월 18일 - 「이 라인 침범」으로 한국에 억류되고 있던 일본의 어선 선원이 전원 석방되었다.그러나, 이 후도 나포가 발생했다.

1959(쇼와34) 년 1월 22일 - 한국 경비정이 일본 어선 2척을 나포.2월 4일에 한 척이다 포.

1961(쇼와36) 년 12월 26일 - 일본 정부 「한국 관헌에 의한 타케시마의 불법 점거에 관한 한국 정부에의 항의에 대해」

1962(쇼와37) 년 3월 - 일한 외상 회담
일본 정부가 재차 타케시마 문제의 국제사법재판소에의 부탁을 한국에 제안했지만, 한국측에서는 적극적인 반응을 얻지 못하고.

1964(쇼와39) 년 1월 29일 - 어선 제 22 사요환이 한국 연안에서 한주경비정에 나포 되었다.
덧붙여52년부터 64년까지의 사이에, 한국에 의해서 나포된 어선은 232척, 2784명.나포때의 공격으로 5명이 사망한 것 외 억류중에 수용소에서 상당수가 사망해 있다.

1965(쇼와 40) 년 5월 - 한국이 미의 일한 공동 관리 제안 거부
박정희 대통령이 워싱턴을 방문했을 때, 러스크 미국무장관이 일한 공동으로 등대를 건설해 관리해, 영유권 싸움을 하지 않게 재촉했지만, 한국측이 거부

1965(쇼와 40) 년 6월 22일 - 한일 기본 조약 조인
「이승만 리인」이 폐지되지만 타케시마 문제는 분쟁 처리 사항으로 여겨진다

1965-1976(쇼와104-51) 해 - 시마네현 지사, 현의회 의장 연명으로 나라에 대해서 타케시마의 영토권 확보를 요망

1977(쇼와52) 년 3월 19일 - 시마네현 의회, 타케시마의 영토권 확립 및 안전 조업의 확보에 대해 결의     

1977(쇼와52) 년 4월 27일 - 시마네현 타케시마 문제 해결 촉진 협의회(촉진협) 설립

1977-1985(쇼와52-헤세이7) 해 - 촉진협, 나라에 대해서 타케시마의 영토권의 확립 및 안전 조업의 확보를 요망

1987(쇼와62) 년 - 타케시마·키타카타 영토 반환 요구 운동 시마네현 민회의 설립

1977-현재(쇼와52-현재) 연 - 국에의 중점 요망으로서 타케시마의 영토권 및 안전 조업의 확보를 요망

헤세이 시대(1989 - 현재)

2004(헤세이106) 년 1월 16일 - "독도"우표에의 공식 항의
한국 우정청이 발행한 독도(타케시마) 우표에 대해서 카와구치 요리코
외상은 같은 날, 조세위주일 한국 대사에 유감의 의지를 전한다.또 타카노 기원주한대사가 외교 통상성의 금 재섭차관에게 「우리 나라의 영토인 타케시마를 주제로 한 우표의 발행은 용인할 수 없다」라고 항의해, 만국우편연합의 「양호한 국제 협력 관계를 요구해」헌장의 정신에 반한다고 하여, 가맹국에 통지하면 고한다.

2004(헤세이106) 년 3월 15일 - 시마네현 의회, 나라에 있어서의 「타케시마의 날」제정에 대해 의견서를 채택

2004(헤세이106) 년 6월 17일 - 한국 해양 경찰 당국의 「뱃놀이 사업 면허증」발급에 대해 일본 대사관이 정식 항의
한국의 해양 경찰 당국이 타케시마(한국명·독도)의 관광선 투어를 주최하는 한국의 해운회사 「독도 관광 해운」에 운항 허가에 해당하는 「뱃놀이 사업 면허증」을 발급했다.이것을 받아 주한 일본 대사관은 같은 날, 한국 정부에 「일본의 영토에 대한 관할권 행사이며, 용인할 수 없다」로서 항의해, 허가 철회를 요구했다.     

2004(헤세이106) 년 10월 25일-26 - 시마네현, 「타케시마의 날」제정을 나라에 요망

2005(헤세이107) 년 3월 16일 - 시마네현 의회, 본회의에서「타케시마의 날을 정하는 조례안」을 찬성 다수로 가결

2005(헤세이107) 년 3월 16일 - 코이즈미 수상이 「이전부터 일본은(타케시마는) 일본의 영토」
시마네현 의회로의 「타케시마의 날」조례의 가결, 성립에 대해 코이즈미 수상은, 「이전부터 일본은 일본의 영토, 한국은 한국의 영토와(주장해) 대립해 왔다.그것을 전제로 대처해 온 것을 밟아 일한 우호를 기조로 해 대응할 필요가 있다」라고 말했다.동시에 「지금은 감정적인 대립이 있지만, 거기에는 별로 좌우되지 않고 대처할 필요가 있다」라고 강조했다.

2005(헤세이107) 년 3월 25일 - 시마네현 지사, 조례를 공포·시행

2006(헤세이108) 년 2월 22일 - 제1회 「타케시마의 날」기념식전개최

2006(헤세이108) 년 2월 23일 - 타카노 기원·주한일본대사가 타케시마는 명백한 일본 영토라고 주장
타카노 대사가, 외신 기자 클럽 초청의 기자 간담회에서, 「타케시마 문제는 한일간에 분명한 관점의 차이가 있다」라고 해, 「그러나, 역사적으로, 또 법률적으로 타케시마는 일본 영토다」 「 동문제를 해결하기 위해서는, 감정적으로 되지 않고, 평화적 방안을 찾아 갈등을 해결해야 한다」라고 말했다.

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