李奉昌は、朝鮮鉄道局 龍山駅操車課に勤務していたのですが、女好きで麻雀にはまって借金を作り、1924年4月、退職金欲しさに辞職しています。
退職金も底を尽きて生活に困った1925年11月、李は大阪に渡り、木下昌一を名乗ってガス工事の作業員になりました。その後は、1930年3月に上京し、松井和夫という日本名を名乗って漬物屋に就職した後、はやくも7月には本郷のかばん店に転職。しかし、このカバン店から11月末に売上金240円を盗み、年末のどさくさに紛れて上海へ高飛びしてしまいました。
上海での李は、持ち逃げした金がなくなると、蓄音器のセールスマンになるのですが、薄給の新米セールスマンが東洋一の歓楽街・上海で飲む・打つ・買うの三拍子揃った生活を送っていれば経済的に破綻するのは誰の眼にも明らかで、またもや、彼は生活に窮します。
金に困っていた李は、1931年に韓人愛国党(独立運動の地下組織)の事務所を訪れ、昭和天皇の暗殺を申¥し出て武器と資金を受け取り、同年12月に氷川丸で神戸に渡りました。
日本に上陸した後は、韓人愛国党から受け取った金で大阪市内の木賃宿に泊まりながら、カフェーや遊郭を遊び歩く日々を過し、12月22日に上京。その後は浅草の尾張屋旅館に宿泊し、またもや、遊蕩三昧の生活をしていました。
この間、新聞で昭和天皇の車列が1月8日の正午前に桜田門外を通ることを知った李は、犯行の前々日、たまたま知り合った憲兵・浅山昌一からもらった名刺を悪用して、警備を突破し、昭和天皇の車列に手榴弾を投げつけたというわけです。
もっとも、李は昭和天皇の車と宮内大臣の車を勘違いし、宮内大臣の車に手榴弾を投げつけ、近衛騎兵の馬も軽症を負っただけで、天皇は無事でした。
当然のことながら、李はその場で現行犯逮捕され、大逆罪で9月30日に死刑判決を受けて10月10日に東京の市谷刑務所で処刑されています。
生活破綻者の転落の人生ですね。