誰から謝罪されれば満足出来たのだろう。
日本政府からの個人賠償の提案を拒絶して国家賠償として受け取り、債務者であるのにその事実を隠蔽して日本に賠償責任があるかの様に振る舞ってきた韓国政府だろうか。
足首に怪我を負わせた東南海地震だろうか。
挺身隊を売春婦と誤解して彼女を裏道人生に追い込んだ韓国社会だろうか。
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謝罪を受けることができず、またおばあさんが去った…キム・ソンジュ「強制動員被害者」死去
2024.10.06|10:10
14歳の時、日帝三菱重工業に連行され強制労働
2018年、最高裁で勝訴…「第3者弁済」苦心の末に受け入れる

2018年11月29日、最高裁宣告を控えていたキム・ソンジュおばあさんが取材記者たちの質問に答えている。日帝強制動員市民の会を提供。
日帝強占期に強制動員された被害者がまた一人亡くなった。「生涯胸を張って大通りを一度も歩けなかった」というおばあさんの生前の願いは「日本の謝罪」だった。
日帝強制動員市民の会は「日帝強占期に朝鮮女子勤労挺身隊として強制動員されたキム・ソンジュおばあさんが5日、老衰で亡くなった」と6日明らかにした。享年95歳。
全羅南道順天市が故郷のキム氏は順天南初等学校を卒業した後の1944年5月「日本に行けばお金も稼いで勉強して中学校にも行ける」という言葉に騙されて日本に向かった。わずか14歳だった。
おばあさんが到着したのは飛行機を作る三菱重工業名古屋航空機製作所。飢えの中で賃金を一銭も受け取れずにつらい労働を強要された。鉄板を切る仕事をしていて、左人差し指が切れる傷も負った。
1944年12月7日に発生した日本の東南海地震の時には辛うじて命は助かったものの、倒壊した建物の下敷きになり、足首に重傷を負った。おばあさんは生前「地震で負傷して以降、足首を簡単にくじくようになり、かかとが少しでもある靴はまったく履けなかった」と話した。
解放後、九死に一生を得て故郷に帰ったが、他の苦痛が待っていた。当時は「挺身隊」と言えば皆「日本軍慰安婦」被害者と勘違いしていた時だった。おばあさんは「私の人生で胸を張って大通りに一度も行くことができず、裏道だけを歩いて生きてきた」と話した。

キム・ソンジュ氏は、順天南小学校を卒業した直後の1944年5月末、日本人担任の口車に乗せられ、日本に強制動員された。1944年6月頃に名古屋に到着し、本格的な労働に入る前に順天で動員された同僚たちと一緒に名古屋城の前で撮った記念写真。日帝強制動員市民の会を提供。
一歩遅れて勇気を出したおばあさんは、2012年10月三菱重工業を相手に光州地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起し、2018年11月29日最高裁で最終勝訴判決を受けた。確定判決後も三菱側が賠償を拒否すると、キム氏の法律代理人たちは三菱重工業の国内特許権2件を差し押さえた。
だが、政府は2023年3月企業らの寄付金としてキムおばあさんなどの賠償金を代わりに支給する「第3者弁済方案」を発表した。キム氏は最初、「日本人が私たちを連れて行ったが、どこに謝罪を受け、どこに(謝罪を)要求するのか」と反対した。
しかし、おばさんは昨年5月、日本企業の代わりに行政安全部傘下の日帝強制動員被害者支援財団が代わりに支給する「判決金」を結局受け入れた。
遺族には2男2女がおり、葬儀場は京畿道安養市の安養葬儀場に設けられた。出棺は7日午後1時だ。
一方、おばあさんの弟であるキム・ジョンジュおばあさんも1945年2月、日本の富山にある不二越工場に強制動員された。キム・ジョンジュさんは不二越を相手に訴訟を提起し、今年1月に最高裁で最終勝訴し、賠償履行を待っている。