

https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_9/view/id/3867078
黄色人宗中日本人だけ名誉白人の地位が与えられたことと間違えた猿が
白人によって名誉白人の地位が与えられたのがとても恐縮で誇らしかったが
名誉白人というのは実はただ外交的ジェスチャーで使う手段だっただけだKKKK
https://namu.wiki/w/韓国-南ア共和国関係
南ア共和国の電信である南ア連邦は 1950年韓国戦争の時 UN軍で真実電荷だった. 当時派兵された男児連邦空軍代代は 826人の中 36人が戦死して 8人が虜になるほどに[2][3] 国軍とともに血が流れて熱心に争った. おかげさまで南ア共和国は国際社会で大韓民国の立場を支持する方だった.
男児連邦/南ア共和国が韓国戦争当時 UN連合軍の中で一つに参戦してまず修交対象国ではあったが, 南ア共和国がアパルトヘイト政策を広げたせいに公式的な修交はすぐ成り立つことができなかった. 当時南ア共和国は外交的に孤立して行っていたから南ア共和国が韓国側に名誉百である国家で待偶してくれると求愛するスタンスだった.[4] 韓国側では修交交渉のための水底接触はしたが修交して見ると多方面に困難な状況に置かれる可能性があって膠着状態にとどまった. 当時南ア共和国に対するイメージがすごく悪い状態でおろそかに修交したら外交的に深刻な損害につながる可能性がとても高かったからだ.
水底交渉の事例で, イギリス駐在せりふであるキム・ヨンシクは本国の指針に従い駐英南ア共和国大使館を訪問して修交問題を打診したが, 南ア共和国側では "もし韓国が南ア共和国と国交を結べば大韓民国に対しては白人国家だね(郡)の名誉会員国で白人国家のような大宇をする." という提案をした. 以後キム・ヨンシク大使はこの問題に対してイギリス外交部と接触したが, イギリス側では "南ア共和国と修交すれば世界の多くの国から反発を買うようになること"と警告した. 結局キム・ヨンシクは本国に修交が不可能さを報告したし, 交渉はそのまま決裂された.(出処:キム・ヨンシク, "夜明けの約束", ギムヨンサ, 1993, p.406-407.)
そうする間 1976年南ア共和国政府がソウェト抗争を強硬押えたしアパルトヘイト政策に対する国際的批判が激しくなると, 結局大韓民国も人種差別に抗議する意味で南ア共和国との関係を全面的に断絶するのに至った. 黒白人種差別問題によって 1964 東京オリンピックから参加及び出場が止められて 1988 ソウルオリンピックにも参加することができなかった.[5] それでも国家の間の外交を断絶したこととは別に民間経済交流は以前からどの位成り立った. ただ, これまたもアパルトヘイトの影響をちょっと受けることはしたが, 一例で 1990年代以前まではビザなどの問題で必ずナミビア[6]を経って南ア共和国に入ることができたと言う.
1992年人種差別政策を廃止してから修交が成り立ったし, 1995年にはネルソンマンデラ大統領が訪韓した.
1995年 5月 27日に政府と業界代表 30人余りで構成された大規模民官貿易投資調査団が南ア共和国とエジプトに派遣された