京城日報1934年3月8日の社説「乱暴な話 内地農会の狂態」

朝鮮米の主要な輸出先は日本だったが、日本は安価な朝鮮米の流入に、日本国内の農家が圧迫された。当時は、米価管理制度などはなく、投機的な取引も盛んだったので、日本国内の農家を困窮させた。日本の農家は朝鮮米の輸入増加に怒り反発した。このため、日本は朝鮮米の輸入制限をかけようとした。これに、今度は朝鮮人農家が大反発してデモを行い、総督府を巻き込んだ大騒動になり、日本国内の農家と朝鮮の農家の対立になった。
また、英国人学者Alleyne Irelandの著書「The New Korea」「第10章 医療・公衆衛生・社会福祉事業」(1926年米国で出版)によると、日本の統治時代の1919年に発生した前例のない程の旱魃が発生。このとき総督府の迅速な対応のおかげで、1人の餓死者も出さずに終わった。総督府が飢餓の救済支援に400万円(現在価値で約800億円)を投じて日本から食料を購入し全国の国民に配布した。
1939年にも、朝鮮は未曾有の大旱魃に襲われて、朝鮮全土の米の収穫量が1938年の2414万石から1427万石へと半分近くに減少したが、日本からの大量の米の輸入など総督府の適切な対応で、朝鮮半島で餓死者を1人も発生させなかった。
農家戸数は1923年に270万2838戸が1938年302万3133戸(1.12倍)に急増した。生産量も米:1923年に1517万石が1938年2414万石(1.59倍)に増加。麦:1923年 771万石が1938年1314万石(1.70倍)
それ以外の農産物でも朝鮮で作られてなかった大豆(1938年 403万石)、小豆(1938年 42万石)、粟(1939年 503万石)、林檎(1939年 2214万5295貫)、梨(1939年 547万7120貫)、葡萄(1939年 59万8889貫)ともの凄い量の農産物が作られるようになり、特に林檎、梨、葡萄は日本だけでなく世界に輸出される国際品種となった。
お米の収奪などやっていたら農家が増えていくなど有り得ないし、農産物が2倍に増えるなど有り得ない。農家が豊かになろうとする意欲が湧いてくるからこそ起きる現象です。