
これらのことが通信使を派遣した動機の重要部分であると考えられるが、同時に朝鮮の中枢が日本の中央の文化をどう捉えていたかを窺い知ることができる。
尚書とは書経のことで、信ぴょう性があると言われる今文尚書は28編であるが、もともとは約100篇という古い伝承があった。日本は歴史の古い国だから、太古の文物が残っていても不思議ではないという感覚があったものであろう。
また世宗は日本の紙製品を実際に手に取ってみていることがわかる。それはどのような紙製品であったのかということになるが、ひとつの可能性は和紙を貼ってある扇子であろう。しかし後述するように書籍(冊子)用の薄い紙であったことも考えられる。
そして一年後の1429年、日本から戻った第一回通信使・朴瑞生は世宗への報告を行った3日後
(12月6日)群臣を前に、
「又具啓日本深中青鍍銀造紙朱紅軽粉之法皆留之」(資料5 〈1429_12_6〉、世宗実録 巻46)
「また一同に対して、日本で調べてきた紺青石、鍍銀の技術、製紙の技術、朱紅軽粉の技術を具体的に説明した。一同のものは皆これらを書き留
めた」。

“深中青”という言葉は酸化銅の化合物の一種である紺青(こんじょう)のことで、顔料であると同時に古代においては銅の鉱石として利用された。(世宗は日本から取り寄せた紺青と緑青(ろくしょう)を各地に見本として送り、銅鉱石の探査にあたらせている)
12月3日、世宗に対しては、これ以外に、有名な水車の技術、湯屋のサービス、橋の修築・維持、銅貨(銭)の利用などのシステムに関する報告をしている。(資料6 〈1429_12_3〉
この他、高速船(へさきが尖っていて鉄釘を用いる船)の技術、木炭による還元製錬、日本刀の制作などを世宗の政府は日本から伝習し半島に根づかせようと試みている。
日本からの礼物にあった、漆器に関しても、朝鮮側は日本の漆器工芸技術に注目している。後の記録であるが、(1502年10月3日)「漆工ヲ三浦倭及ビ対馬島に求メシム。司饔院ノ漆器ヲ作ランガ為メナリ」(朝鮮史第四編第六巻、燕山君日記巻46)とある。

