「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24426&servcode=400§code=400
中央日報 2002.02.26
「柳寛順(ユ・クァンスン)烈士について誤って理解されている点を正してみたかったのです」。この4年間、柳寛順研究に没頭してきた郷土史家の任明淳(イム・ミョンスン、55、忠清南道天安市社稷洞)さん。
天安(チョ ンアン)大にある柳寛順研究所の客員研究員でもある任さんは「柳寛順に関連した内容が、1945年8月15日の解放以後、植民地時代に日本が行った蛮行を糾弾するという意味合いから、誇張され過ぎてしまった感がある」と主張する。
「三一運動=柳寛順」というイメージを持つ柳寛順だが、出生・死亡年月日は記録によってまちまちだ。名前の漢字表記や兄弟の数、梨花(イファ)学堂に入学した年度も、やはりそれぞれ異なっている。
天安一帯で起った「己未年万歳示威」では、20人余りが殉国した。だが、死亡して80年が経てば、戸籍が整理され、記録から完全に抹消される。
これを知った任さんは、99年から柳寛順ら殉国した先烈の除籍謄本をすべて集め、研究を行ってきた。
謄本によって任さんは、柳寛順の出生年が1904年ではなく1902年で、1人娘ではなく姉が1人いたという事実を確認した。任さんは昨年10月、天安大が主催した「柳寛順烈士追慕学術大会」で、我々が知る柳寛順の殉国月日と生年月日が事実とは異なる、と指摘した。
任
さんは、柳寛順の最終刑量は、懲役7年でなく3年だったと主張した。京城(キョンソン)復審裁判所(控訴審)の判決文と受刑者記録表によると、柳寛順は小
学校の教科書にあるように「検事に椅子を投げつけたため法廷冒とく罪が追加され、7年の刑を宣告された」のではなく、3年の刑を受けたという。その後、柳
寛順は高等裁判所(現在の最高裁)に上告せず、これが最終刑量になったという。
「梨花学堂時代、柳寛順の級友だったポガック(99、僧侶)さんの証言によると、死亡して20日余り過ぎた後、柳寛順の死体を受け取ったそうです。その時、死体は腐っていましたが、四肢は切断されてはいなかったという話です」。
任さんは「柳寛順への盲目的な思い込みから、こうしたいい加減な事実が広まり、子供向けの伝記にまで掲載された」とし、「今は、冷静になって史実を確認すべきだ」と話した。
大学で農学を専攻した任さんは、農村振興庁で勤めた経験があり、20年余り自営業(農薬販売)を営んできた。だが現在は、天安地域の郷土史研究に没頭している。
趙漢弼(チョ・ハンピル)記者
韓国国定中学校国史教科書
ついに1919年3月1日、挙族的な独立運動が起こった。まず、33人の民族指導者たちは独立宣言書を発表し、これとともにソウル鐘路のタプコル公園には学生と市民が集まり、独立宣言書を朗読した後、太極旗をもち、独立万歳を叫んで示威行為を展開した。
しかし日帝の警察と軍隊は平和的な方法で独立万歳を唱え示威をする人々に対して銃剣できびしい弾圧を行った。柳寛順の殉国、華城郡堤岩里住民に対する無差別虐殺など各地で弾圧による死傷者が2万名となり、監獄に入れられた人だけでも5万名にもなった。としている。
韓国側の数の根拠となっているのは、朴ウンシクが書いた『韓国独立運動之血史』で、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るとしている。しかし、彼は当時、上海に亡命しており伝聞の情報で、正確な数などが判る筈が無いのである。お決まりの通り、この数は日を追うごとに数が膨らんで、2万名となっているようだ。
しかし、総督府が当時まとめた資料では
死者553人、
負傷者1409人。
憲兵・警察官の死者8人、
負傷者158人である。
これらは、アジア歴史資料センターにも資料が残っているので
裏付ける事が出来る。
アジア歴史資料センター(レファレンスコード:A04017275800)
「単行書・八年陸乙七一・朝鮮騒擾経過概要」
もし、205万人が本当に暴徒化したデモで、たったこれだけの死傷者だとすれば、日本側はとても統制がとれた、冷静な鎮圧を行ったのかが伺い知れます。