興宣大院君(大院王)(こうせんたいいんくん(たいいんおう)、1820年 - 1898年
大院君はそれまで朝鮮王朝で続いていた外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした改革を断行する。
具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。
反面、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。
更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。
このような内政政策および景福宮の大規模重建工事を打ち出すとともに、外交面や宗教面では排斥政策を展開した。
やがてアメリカや日本などが朝鮮に通商を求めてきたが、大院君は鎖国堅持のためにまたも拒絶、
各地に砲台砲兵を配備し、1871年にはジェネラル・シャーマン号事件の賠償を求めて江華島に侵攻してきたアメリカ艦隊を撤退させ(辛未洋擾)、「斥和碑」を朝鮮全土に建設した。
このような砲台砲兵の新規増設増員(2万余)、景福宮の重建工事には、多額の経済的な負担が伴い、当百銭の高額通貨の多量鋳造、各種の増税、新税奎章閣韓国学研究院 Ref.奎16612,奎16623,奎19537 の施行でまかなったために経済は疲弊した。
高宗が成人し、やがて国民の間でも大院君の強引で強行的すぎる対外政策や内政に対する不満、さらに両班(朝鮮の貴族階級)の特権を奪おうとしたことから両班からの反発も受けるようになり、大院君は1873年、高宗の王妃・閔氏一族の反撃を受けて失脚してしまった。
その後、閔氏から実権を奪い返すため、壬午事変など何度も政権転覆を図ったが失敗。
1895年、日本の三浦梧楼と手を結んで閔氏を殺害したものの(乙未事変)、二度と政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。
大院君と閔氏の対立は、日本の朝鮮進出や朝鮮王朝末期の政治的混乱を招き、
それはやがて朝鮮王朝そのものの滅亡、
その後の日本統治(日帝)時代をもたらす結果となった。
大院君(大院王)自身は無能ではなかったが、古い時代に縛られた人物と言えよう。
・・・なるほどミンピにやられたんですね。やり返して明成皇后を殺害・・・