1274年 文永の役
1281年 弘安の役
規模は弘安の役が大。対馬がこうむった被害は、文久の役のほうが大きかった。
新たに1246年より支配者となった宗氏は、九州にも所領を持つ大宰府の地頭である。
宗氏は、迫り来る元冠(モンゴル軍と高麗軍の連合軍)に、敢然と立ち向かった。
侵攻軍は北対馬制圧など目にもくれず直接、南対馬に上陸してきた。
侵攻軍は元軍2万、高麗軍1万、総勢3万の軍団。900艘の大船団をもって対馬の西海岸一帯を侵略した。
宗家初代当主・宗資国は、南対馬700騎でこれを迎え撃ち、戦ったが小茂田浜で全員奮死した。
侵攻軍は多くの島民を虐殺し、女子を捕らえ、手に穴をあけ数珠繋ぎで船のワキに並べ、日本軍の矢を防ぐ防護壁とし、次の攻略地の壱岐に向かった。
この文久そして弘安の役における、南対馬・壱岐・平戸・五島列島の戦火の惨状とその被害は凄まじく、
この地域の漁民による、元と高麗に対する怨念復讐の感情は倭冠に発展した。
後期倭寇(倭人なりすまし)と百済を滅ぼした蛮族、新羅