
“生まれ変わりたくないの.
そんな考えがない.
とても苦労されて.
なんか面白い世の中をサルアッウヤだ.
引かれて行っても釈放されてもすべてまったく同じなの.
少し違う.
それだけ相手しなかっただけであってすべてまったく同じなの.
分からなくて今は, 忘れて.
願い?
若さを返さなくてはならない, 私の若さを
.
金華船本当にきれいだ・・・.”
(2011年 8月9日京畿道光州 ‘分け蟻集’で交わした対話中)
金華船お婆さんは今年 85歳だ. 糖尿と 関節炎, 老患で歩行器なしに一足も踏み出す事ができない位衰えた. それでも日本軍の話が出れば鳥のように小さな金お婆さんの身に手に余って行った. その力は怒りで抵抗だった.
日本軍 ‘慰安婦’ 被害者である金お婆さんは 2008年から 絵を描いた. 苦しく通り過ぎた汲む 60点ぐらいの画幅に盛った. お婆さんの絵は小学生が描いたようだった. 絵の中お婆さんは笑ったし, 泣いたし, 絶望したし, 諦めた. 火印当たったように消されない痛い記憶, 一生不面の夜を抱かれてくれた恥部さえ絵で引き出した.
お婆さん故郷は平壌牡丹峰. 紅韓服スカートがよく似合ったし, 長く結った真っ黒い髪の毛が特につやめいて輝いてきれい受けた三番目娘だった. 幸せだった幼年時代は写真でも残っていない. もう記憶さえ思い浮かぶ気力がない. 金お婆さんの人生を思い出すのは絵たちだけだ.
金先賢(44) チァウィグァデハックギョ 教授(車病院臨床美術治療)は金お婆さんを含めた光州分けの家お婆さんたちと美術治療授業を 2008年から毎週木曜日進行している. 絵は意識と無意識皆を引き出す力がある. 自分がまだ分からなかった世の中までも引っ張り出す絵. 金お婆さんの絵もそうだった.
お婆さん, 絵で言う
お婆さんは梅を描いた. 2008年 11月分けの家に入所したお婆さんが初美術治療時間にグリーンのだった. やつれている梅に落ちるようにぶら下げられている花びらは哀れだったし, その色は特に血の色だった. お婆さんがその間手におえなければならなかった苦痛, お婆さんが抱いて山傷を見せてくれるようだった.
通り過ぎた生を思い浮かぶお婆さんの筆づかいは時には激情的に, 時には細く震えた. 慰安所で 軍人野にあった時の記憶を描く時は荒くでたらめにぶん殴ったし幼い時代自分の姿と故郷 大同川端を描く時は力が強く, 明らかな線でスケッチした.
日本軍人の姿は一様に険しかった. 破れた目, 厚い唇. 描いてお婆さんの姿より二つ三つの倍大きく描かれた. お婆さんは生まれ変わったら日本軍人になって, 日本人を殺したいと, 日本軍人の姿を画用紙いっぱい描いたりした.
しかしお婆さんは特にただ一人の日本軍人に対しては 寛大した. 絵の中で ‘高地馬上’という日本軍人は幼い ‘慰安婦’ 少女に 乾パンを渡している. チョゴリとスカートを取り揃えて口は少女は慰安所寝床に座っていて, 高地馬上は軍靴を脱がないままお互いを眺めている. 高地馬上はお婆さんが好きだった軍人で, 毎日尋ねて来た. 尋ねて来ても対話だけ交わして行くとかお婆さんに食べ物だけ酒庫動く日が多かった. 彼は人の死ぬ戦争が嫌いだと言ったし, 故郷へ行って耕作して暮したいという話をよくした. お婆さんもそんな彼が嫌いではなかったが, そのやっぱり日本軍人であるだけだった.
お婆さんの絵で一番多く現われた色相は日本軍服の色, 黄土色だ. うんざりする軍服色は絵の中でもうんざりするようにお婆さんを付きまとった. 恐ろしかった瞬間, 悲しかった瞬間の記憶の浮ぶ時はお婆さんはもっと黄土色を濃く塗った.
検定, 灰色も多かった. 暗くて心細い感情を現わす色だ.
お婆さんが一番好きな色は幼い時代を盛った絵に現われるピンク, 赤だ. ゴムのはき物とスカートにきれいに着せた色たちだ. 結婚式場面を想像しながらグリーン純白のウェディングドレスにもお婆さんは 胸 真ん中赤い花を描いて入れた. モッダ咲いた花, お婆さんの青春だ. 日本軍に引かれて行った日, おいしいのを与えるという話にだまされて付いて行ったその日にもお婆さんはピンクチョゴリを着た. 日本軍人はお婆さん手に桃色キャンディー二つを渡した. 甘口にうっかりだまされた, お婆さん人生で一番悔しくて悔しくて心が痛い瞬間の記憶だ.
みどり, なが葱とは主に幼年時代故郷の記憶を思い浮かんだ絵に多い. イエローは自分を引き立つようにする時, チョゴリとか背景色で使った.
お婆さんの姿は時代ごとに違った. ‘慰安婦’に引かれて行く前にはきれいに結った髪の毛を腰まで長く下った, きれいな韓服を着た少女だった. 慰安所では頭をはだけて下着だけ着た姿で描かれた. 解放後にはズボン身なりに髪を短く刈った男装女に扮した. たぶんお婆さんは ‘慰安婦’になった瞬間から女になるように自らあきらめたのか分からない. しかし分けることの家に入って来てから初めて安定をドエチァッアがはお婆さん. 韓服を着て座っている絵の中お婆さんは楽に見える.
2009年 7月末の絵一枚. 解放された日の記憶だ. お婆さんと違う ‘慰安婦’ 五人は山奥空所に立っていて, 日本軍である二人が自分の背程長い銃刀を持って歩いて行く場面だ. 太極旗はなかった. お婆さんは絵を描きながら心臓がときめくと中途に止めたりした. その日日本軍は監禁された ‘慰安婦’聞く強制に連れて行って銃殺するとか地に埋めたと言った. 日本圧制から解放された日お婆さんは一番恐ろしくて恐ろしい時間を過ごした.
諦めは筆終りにもとけている. 分けの家を尋ねた去る 9日にもお婆さんは筆を持って花びらを描いた. 真心も感情も盛らないで, 赤い色を繰り返してあちこち散らかしてばかりした. すべて去る事. 希望があったら春をまた見ることだが, どうせ惜しくてきらめき輝いて美しい, また来る事ができない歳月だ.
金お婆さんは
お婆さんはチョコレート, 牛乳, そしてお金をくれるという話にだまされて十七肉だった 1942年日本軍に引かれて行った. シンガポール, 満洲, 中国などで移して日本軍人を相対したし, 疾病と殺害脅威で何回死ぬ峠を越した. あの時かえって死ななければならなかったというお婆さんには生きていること自体が苦痛だった.
お婆さんは解放後にも旅費がなくて単身で中国 各地を転転する 1947年軍艦を得て乗ってやっと帰国した. しかし 故郷である 平壌に帰ることができなかった. 朝鮮戦争筒に家族まで忘れてしまった. お婆さんは故国に帰って来ても男に踏み付けられた.
2000年韓国従軍慰安婦問題対策協議会性奴隷戦犯女性国際法廷韓国委員会証言チームに提出された記録によれば, お婆さんは長年の期間性売買女性であちこち売れて通った. 山里に逃げだして溶くかじて暮すまでしたが, またつかまって仁川売春町に引かれて行った. “苦労をおびただしくして, 数千人が, いや幾億人(の男たち)を相対したことだ. 私が税横領できなくて数字は.” 故郷が鳥致院である一お爺さんの助けでこんにちはタイ洗剤商売を始めながら初めて自分の生を暮し始めたというお婆さん. 商売と言う(のは)商売はすべてやって見たし, 食堂仕事, お手伝いさんしない事がなかった. お婆さんは独身生活をした. のように生きようは人が現われたりしたが, お婆さんは自分が姙娠することができない身だと, これ以上女性で生きて行くことができないと振り撤いた.
さびしくて貧しかったが, その渦中にも苦学生, 孤児を見れば通り過ぎることができなかったお婆さん. 公納金も代わりに渡して, 小遣いも握ってくれ大学まで行かせた子供達だけ 7人だ.
しかしいざお婆さんは誰にも保護受けることができなかった. 大田で 600万ウォンの借家に暮したお婆さんは貸し間の入った建物が 競売に移ったが, 一人だけ競売代金弁済対象から除かれて路頭で追い出されるなどあらゆる苦楚を経験した. お婆さんが分けの家に入って来たのは 2008年 11月. こちらがお婆さんの最後の居所になるでしょう.
生き残ったお婆さんたち
分けることの家には現在 8人の慰安婦被害お婆さんたちが住んでいる. 1992年民間募金に設立された以来いらっしゃったとかとどまる ‘慰安婦’ お婆さんが総 30人. なかでも故人になったお婆さんがガングドックギョング, 金純徳, 金屋株, 文明金, 文筆期, 迫頭里, ジドルがお婆さんなど 15人だ.
日本が日中戦争と太平洋戦争を経験する間我が国で強制動員した ‘慰安婦’は 2万名余に推算される. 慰安所で死んだとか, 故国に帰って来ることができなかったとか, 身分を隠して暮したとか 2011年現在まで申告された慰安婦被害自首は 234人だ. この中で生存したお婆さんは 70人だけ. 皆 80・90台高令のうえ病患で生の最後の瞬間だけ待つ状況だ.
“日本政府の謝りと被害補償が成り立っていないのにお婆さんたちがすべて帰ればどうかたい気がします. 日本との関係は変わったのがないです. ハンスロウン仕事です.” ユンゾングモ(65) 作家の嘆きだ. ユン作家は ‘母名前はゾセンピだった’, ‘鳳仙花が咲く頃’ など慰安婦小説を発行した.
雁信圏(50) 分けの家所長も胸を打った. 中所長はお婆さんたちが帰れば他の日帝時代被害者遺族たちに家所を渡すつもりまでする中だ. お婆さんたちの 健康状態は日増しに悪くなっている.
アメリカ・オランダ・カナダ・ヨーロッパ連合議会などで日本の謝りと法的賠償を要求する決議案を採択したが日本政府は黙黙無答だ. 日本の民主党は野党時代の 2000年すぎ去った事問題解決のために ‘展示成績強制被害者解決促進法案’を提出した. しかしこの法案は 11年目上程されないまま眠っている.
絵, 生きている最後の歴史
分けることの家では 1993年 2月から当時弘益大未対生だった李更新ボランティアの助けを借りて絵授業が毎週 3年間進行された. 純粋趣味活動の一つだった. それでもお婆さんたちは驚くべきな変化を経験した.
‘私たちは絵を描いてあまりにも幸せだった.’
とガングドックギョング, 金純徳お婆さんは画家の境地まで上がって ‘奪われた純情’, ‘モッダ咲いた花’のような作品を残した. 展示会も開かれた. お婆さんたちは慰安を得ようと絵を描いたりしたが, 何より自分たちの経験した事が世の中に正しく残されるのを希望した.
‘私は私の絵が誰の手に売れて行くことを願わなかった. 私がお金を儲けるために絵を描いたのではなく絵を通じて私たちの仕事が世に知られて. 歴史に正しく残されて. 二度とこの地にそんな悲しい事が起こらないように願う心で描いたから.’(イギュフィの ‘二人のお婆さんの秘密’ 中高金純徳お婆さんの懐古)
乾いた花びらがこなごなに碎けるように一瞬にして散り失せるかも知れないお婆さんたち. もう記憶もぼんやりして証言さえ大変なお婆さんたちができることは横になっても筆を持って何かを描く事だけかも知れない.
今日も金お婆さんは絵を描く. 震える手で, 筆でクレパスで鉛筆で….
一世紀を暮して来た方々は 1909‾1945年までを 倭政時代だと言う. そしてその方々は言う. 倭人らは人でもない.