遊郭・公娼取り入れたIto … ‘色界’で韓国を堕落させる
[中央線デー] 入力 2011.10.09 02:14 / 修正 2011.10.09 23:37イドックイルの 事思史 近代を言う
中央線デー, オピニオンリーダーの新聞日製は私たち夜文化も大きく置き変えた. 日帝侵略社を研究したイム・ジョングク先生が夜の日帝侵略社で ‘日製は一手に大砲と一手に芸者を従えて朝鮮に渡って来た’と 言ったように日本は朝鮮の夜文化を娼妓(娼妓)文化で堕落させた. うちの社会がお酒と女に抜けるほど独立運動に出ないことと言う(のは)計算も一役した.
(5)公娼(公娼)
大韓帝国は 1895年甲午改革の時官妓(官妓) 制度を廃止した. こういうわけで官妓は国家の隷属で解放されて自由身分になった. しかし限って前の 1894年の日清戦争の時の日本軍が進駐しながら官妓廃止は無意味になった.
1894年 6月海軍中将利刀(伊東祐亭)が先発隊を導いてソウルへ来たことを筆頭で日本軍が続々と進駐すると日本居留民回は墨井洞につけるの 70坪を購入して遊郭(遊廓)を作った. 軍隊真珠といっしょに遊郭を作る日本軍のこんな伝統が日本軍慰安婦問題の根であるわけだ. 露日戦争で日本軍が大挙増派されながらこの遊郭は 8300余坪で大きく拡がる. この遊郭地帯が一種の公娼(公娼)地帯だった. 公娼が拡散するのに大きい貢献を一つ二人の人物が招待痛感伊藤博文(伊藤博文)と一進会の宋ビョンジュン(宋秉〓)だった.
天道教で発行した総合月刊誌 開闢(開闢) 48号(1924年 6月号)は 京城の花柳界と言う(のは)おもしろい記事を載せている. 筆者である日記者(一記者)は宋ビョンジュンをセックザック(色爵), Itoをセックグィ(色鬼)と表現している. 宋ビョンジュンが亡国後自作(子爵) 作為を受けてから 1920年に伯爵(伯爵)に昇進したことを彼の漁色(獵色) 行為に当て付けてセックザックだと皮肉ったのだ. 宋ビョンジュンは 1900年 10月日本人包みがスオ(勝女)をさせてちゃやチォングファゾング(清華亭)を開いてから 1906年にゲジンゾング(開進亭)で拡大した. 忠武路 2街の開進丁銀様式まで提供したちゃやとして親日派たちの行き付け会食場所だった.
Itoは 1906年 3月招待朝鮮痛感で赴任する時陸軍所長村田(村田淳)と海軍所長ミヤオカ(宮岡直記), 統監府外務総長ナベシマ(鍋島桂次郎) みたいな公式随行員だけではなく 4人の花柳界女性たちも連れて来た. 東京日本橋(日本橋) 出身のオカだね(お柳), 表むきをもってはItoの専用看護婦だが実際では政府だった間違い優, 琵琶(琵琶)の名人Yoshidaダケコ(吉田竹子), 東京新橋(新橋) 出身のゲイシャサダコ(條子)だった. Itoはサダコを 4500ウォンの 1年出張花代を与えて連れて来たが, 当時米一お御輿価格は 5ウォン位だった. それで在韓日本人たちもItoを ‘風流痛感’と呼んだ.
Itoが痛感に赴任すると下関時代Itoの隣りだったニッダ(新田又兵衛)が韓国に渡って来て南山洞に天真塁(天真樓)を開いた. 天真塁宴会でニッダは駐車だね司令官Hasegawa(長谷川好道) 大将と村田(村田淳) 所長の間に座って ‘ニッダ(新田) 中将’と呼ばれたりしたが, Itoは “酔って美人の膝を枕にして横になって, 覚めて天下の権力を取る(酔臥美人膝,醒掌天下権)”は一時(漢詩)を作るほどに女・お酒と政治を同一視した人物だ.
イム・ジョングク先生が 夜の日帝侵略社で ‘日製は一手に大砲と一手に芸者を従えて朝鮮に渡って来た’と言ったことには理由があった. 日帝殖民統治に批判的な歴史学者山部ゲンタで(山辺健太郎)は 日本統治の下の朝鮮(日本 統治下の朝鮮:1971, 翻訳では 日本の植民地朝鮮統治解剖)で “併合はその経過で見ても日本軍の強大な無力を背景で韓国上層の一部を買収して成り立ったのが明白だ”と書いているのに, ‘韓国上層一部’を買収する方法がお酒と女だったことだ. Itoは大韓帝国の高位官僚たちを招待して宴会する時ゲイシャ一人をそれぞれ座らしてもてなすようにした. 日製が京義線敷設権を得るために内部代わり異才とは(李載完:亡国後自作授与)に巨金 5万ウォンをくれたこともこんな酒席で成り立った事だった.
日本が事実上公娼(公娼)を許容しながら朝鮮の芸者たちは一敗(一牌), イペ(二牌), サムペ(三牌)で分けられるようになる. その来由は明らかではないが甲午改革の時官妓制度が廃止されると管で解けた芸者たちが自分たちを身を売る芸者たちと区分するために分けたことで見当がつく. 一敗は過去の官妓たちとして身は絶対売らないで歌舞をお目見えした芸能人(芸人)らだ. これらの中に生活苦に苦しんで隠密に売春もする芸者たちがイペだった. イペを ‘隠れている君子’という意味の隠君子(隠君子), または ‘ウングンチァ(慇懃-)’と呼んだがあれほど身を売ることを恥ずかしがったという意味だ. サムペはお金さえあれば誰でも抱くことができる娼婦(娼婦)としていわゆる歌舞できない ‘唖芸者’だった.
日本から渡って来た芸者は大部分 3敗に属する低質たちだった. こんな日本の低質夜文化が広がると 1908年官妓(官妓) 出身たちが漢城(漢城) 芸者組合を作った. 漢城芸者組合は人妻芸者たちの集まりとして伎芸は売っても身は売らない芸能人たちの組合だった. すると宋ビョンジュンが平壌出身のご主人いない芸者たちを主軸で作るのが茶洞(茶洞) 芸者組合だった. 芸者組合の名称が券番(券番)に変わりながら茶洞芸者組合は五寸釘券番(大正券番)になる.
1929年度 朝鮮銀行会社組合要録(朝鮮銀行会社組合要録)には 1923年創立した京城券番が資本金 2200ウォンの合資会社に堂堂と登載されているのに事業目的は ‘予期(芸妓)の養成, 遊興業’で少ない. 日製が公娼制度を堂堂と運営したという意味なのに, 京城券番の代表洪病は(洪炳殷)は宋ビョンジュンの五寸釘券番で事務を見ている人物だった. 嶺南・湖南出身芸者たちが主軸である漢南(漢南)券番があったし硬化(京和)券番もあった. 硬化券番は朝鮮券番で名称が変わるのにその代表河圭一(河〓一)も宋ビョンジュンの五寸釘券番で監督にあった人物だった. 宋ビョンジュンをセックザック(色爵)と呼んだことはこんなわけがあった.
河圭一が宋ビョンジュンの腹心アンスンファン(安淳煥)と衝突した後独立して調えた券番が硬化券番なのに, アンスンファンの履歴も特異だ. 軽視痛感(警視総監) ワカバヤシ(若林賚蔵)が 2代痛感ソネ(曽<79B0>荒助)に送った秘密報告書によるとアンスンファンは宮廷の食べ物を担当する電線社(典膳司) 商船(尚膳)であるのに利用区・宋ビョンジュンの一進会に加入した者だった. こんなアンスンファンが宮の中で出て 1908年 12月今の光化門逸民美術館席に調えたちゃやが閑歳月を風味した明月官(明月館)だった.
日製進出以後ソウルの夜文化はItoみたいなセックグィ痛感と宋ビョンジュンみたいな親日セックザックなどが主導しながら過去の伎芸(技芸) 中心の品格は消えてサムペ中心の浅薄な売春で転落した. 一敗芸者たちの中には愛国者も少なくなかった.
梅泉野録 1906ニョンゾは美貌に書道もお上手だった真珠(晋州) 芸者サンホング(山紅)の話を積んでいる. 載せます(李址鎔:亡国後伯爵授与)が包みにしようとするとサンホングは “世の中人々が大鑑を 5時の親分と言うのに, たとえ天旱芸者でもどうして逆賊の妾になりますか?”と叱って殴ぐられたというのだ. 理知用は 1904年露日戦争の時外務大臣臨時霜で大韓帝国の領土を日本軍がわがまま使うことができるように許容する韓日議定書を締結してくれた対価でHayashiゴンスケ(林権助)に 1万ウォンをもらったが, この時サンホングに与えようと思ったお金が 1万ウォンだったという後日話もある.
主な(朱耀翰)が発行した 銅鉱(東光) 28号(1931年 12月号)にはハンチォングサン(韓青山)が書いた 芸者撤廃論が積まれている. “昔は官妓(官妓)として軍需使道ではなければ連れて遊ぶことができなかった芸者が一瞬に両班政治が崩れて島向こう両班政治になった後でとても徹底的に民衆化になってこれからはゲサングノムの息子でも黄金だけ持ったら一流名妓(名妓)をひと晩にすべて連れて遊ぶことができるようになった”と責めている. 両班・サングノムなどの認識には問題があるが予期中心の高級文化が売春主として浅薄になったという問題意識は正しい言葉だった.
前に引用した 京城の花柳界は “多くの券番を日本人または準(準)日本人が経営する. 彼の勢力が花柳界でまで偉いことは本当に注目する事だ”と言っている. 日本人たちが朝鮮に進出して展開した事業は掛けがね金貸業と売春業が主類だった. イム・ジョングク先生は 1930年頃韓国人は 4万3700余人に一名ずつで芸者があったが, 日本人は 1400余人に一名ずつで三十倍以上多かったと分析している. 芸者撤廃ではは “芸者が消えても内外居酒屋があってカフェーがあって隠君子(隠君子)があって遊郭(遊廊)があって何はオブウリャ. だが大っぴらに社会が承諾するいわゆる料理官付き合いだけ無くしてもうちの社会の能率がいくら増進されようか”と芸者撤廃論を主張した.
酒席に女を同席させる現在の誤った夜文化も分かってみればその根は日帝時代にある. 1919年芸者たちが 3・1運動に大挙同参したことは夜文化まで蠶食した日帝に対する抗拒でもあった.