「 나는 김·젼쟈(가명)입니다. 금년에 64세입니다.
나는 미군 전용의 위안부였습니다. 기지마을에 인신매매되고, 일생을 미군에 나누어주어지고 무념에 살아 왔습니다만,아무도 나나 나의 동료들의 이야기를 들으려고는 하지 않았습니다.
우리가 미군으로부터 번 달러로, 한국을 다시 이와 같이 세웠는데 , 그 때는 우리에게애국자라고 말했습니다만,지금 국가는 우리를 보고 보지 않는 후리를 하고 있습니다. 나의 선배 언니(기지마을의 동료)가점점 죽어 구의 것을 더 이상 입다물고 보고는 있을 수 없습니다. 그래서 용기를 내기로 했습니다.
우리는 국가를 상대에게 손해배상 청구 소송을 시작했습니다.
우리가 왜 국가에 이러한 싸움을 거는지, 나의 인생을 통해서 설명하고 싶습니다.」
「 나는 1950년 1월에 태어났습니다.
진짜의 아버지는 군인이었지만, 전쟁의 와중에 나를 봐에 돌아와 탈주병이 되고 헌병에 잡혔습니다.
그것 뿐 맞아 죽었다고 하는 이야기만을 (들)물었습니다. 어머니는 후에 재혼했습니다.
내가 12세 정도때문인지, 나의 의부는 어머니의 없을 때를 노려 나를 강탈했습니다. 의형들도 나에게 손을 대었습니다.
그것을 어머니에게 이야기할 수도 하지 못하고 , 가만히 참고 있었습니다만, 16세 때(1965년경) 가를 나와 버렸습니다.
나의 초등학교때의 친구가 있었습니다. 돈을 벌 수 있는 곳이 있다고 했습니다.
방직 공장이라고 말했습니다. 그 아이에 대해 서울역까지 기차를 타고 왔습니다.
있는 집에 들어가면, 매호에남바가 붙어 있었습니다.1호실, 2호실, 3호실, 이런 식으로.
나는 여관이라고 생각해 잤습니다. 나의 친구는, 다음날 조금 갔다 온다고 해 나와 간 채 돌아오지 않았습니다.
(50대만한) 아줌마가 나타났습니다. 나를 대해 오라고 했습니다. 공장에 데리고 가는지 생각하고, 따라서 갔습니다.
그런데 나에게너의 친구가 빚을 갚지 않고 도망쳤으므로, 대신에 너가 돌려주어라라고 말했습니다.
얼마인가는 말하지 않았습니다.친구 대신에 돈을 갚으면 내가 나갈 수 있다고 했습니다.
어떻게 돈을 벌면 좋은 것인지 물었습니다. 밤이 되고 언니를 대해 가면 안다고 했습니다.
나중에 알았습니다만, 내가 간 곳은 파주(파쥬) 욘즌콜이라고 하는 곳이었습니다.
미군 기지의 주변에서 여자들이 몸을 파는 곳이었습니다. 나의 친구가 빚을 갚지 못하고 , 나를 매도했다고 하는 것이었습니다.」
「아줌마(고용주)는 나에게, 클럽에 나와 가서 손님(미국 병사)을 데려 오도록(듯이) 말했습니다.
나는 3일 정도 하고, 그 고용주의 집에서 도망갔습니다.그런데 골목에서 잡아 버렸습니다.
죽는 만큼맞았습니다. 다시 한번 도망치면 시마에 데려서 가서 죽여 버린다고 했습니다.
(고용주가) 패스를 붙여 줘세코나르(진정제)를 주었습니다. 기분 좋게로부터라고 말해 주었습니다.
1회 마시면(중독에 걸려) 2회마시게 되어, 3회마시면 4회마시게 됩니다.
손님을 동반하고 와와 배웅해지면, 나는 무서워 아무것도 말할 수 없었습니다. 제정신에서는 부끄러워서 손님을 끌어들이는 것등에서 오지 않습니다.
나는 그 약이 무엇인지도 알지 못하고, 계속 마셨습니다.」
김씨는 나중이 되어 이것이 마약인 것을 알게 되지만, 벌써 뒤늦음이었다. 약을 마셔야만 힙파리(손님 끌기 행위)에 나갈 수 있었다.
김·젼쟈씨의 인생은 지옥같았다. 보통, 기지마을 여성들은 하룻밤에 미군병을 3, 네 명씩 받아 들이지 않으면 안 되는 케이스가 보통이었다.
「그러면, 거기(음부)가 얼마나 아플까 모릅니다. 롱·쇼트(성 매매 시간의 단위) 아무리 해도 키리가 없습니다.
롱은 자신의 방에서 밤을 지새워 아침 일찍에 나가는 것으로 10 달러 받습니다.
쇼트는 자신의 방에서 30분부터 1시간에 나갑니다. 돈은 전부 아줌마가 가지고 가 버립니다. 나는 직접 받아 들일 수 없습니다.
아줌마는 1개월마다 계산한다고 말해 두어 모두 강탈했습니다. 1~2개월에 빚을 모두 돌려줄 수 있다고 생각했습니다만 그렇게는 가지 않습니다.」
「산에 가서 미국 병사를 받아 들이지 않으면 안 될 때가 제일 무서웠습니다. 밤 어두워지면, 모포 한 장 가지고,아줌마를 대해 갑니다. 아줌마가 보초에게 서는 미국 병사와 고치고쵸 이야기합니다. 그렇다면 훈련장소에 들어올 수 있었습니다.
총을 가지고 서있던 남자들이 막사에 가서, 여자들과 자고 싶은 사람은 나오라고 합니다.
E-6, E-7(E-6은 하사, E-7은 중사) 등도 모두 했습니다. 장교는 특별히 막사 중(안)에서 합니다.
일반 병사들은 훈련장내의 나무가 있는데 모포를 깔고 하거나 구멍을 파 두어 거기서 합니다. 」
기지마을 여성들은 그런 식으로 훈련장에까지 불려서 가서하늘을 지붕으로서 바닥을 모포로서
미국 병사를 받아 들였다. 제대로 씻는 시간같은 건 없었다. 돈을 벌어 내려서 가면 안아 주로 화가 나지 않는다.
있는 미국 병사는 돈 대신에 스스로가 먹는 달라붙은 밥을 내던져 여성들의 기분을 초조하게 할 수 있었다.
「있는 미국 병사는 이번-를 붙이지 않고로 합니다. 우리에게는 거절할 수 없습니다.
그래서 낙태도 정말로 많이 했습니다. 타한 아이만으로 17명입니다.」
「왜 우리가 그렇게까지 해 미국 병사와 결혼하려고 했는지 압니까?
그래도 하지 않으면 여기로부터 탈출할 방법이 없었기 때문입니다. 빚을 갚는 방법이 없습니다.
도망치려고 해도 경찰도 아무도 살리고는 주지 않습니다. 우리에게는 국가는 없었습니다.」
아니, 국가는 있었다.자매회의 회의가 한달에 1회씩 열리면, 여성들은 참가하고 교육을 받지 않으면 안 되었다.
그렇게 하지 않으면 영업을 할 수 없었다. 회의하러 가면, 헌병, C.I.D.(미군 부대 범죄 수사과),
보건소 직원, 경찰서장, 군청 공무원들이 모두 와있었다.
「나올 때마다 말하는 말은 이러했습니다. 아가씨들이 서비스를 더 많이 해 주세요.
미국 병사에게 절대로 욕을 하지 말아 주세요. Buy me drink. (술을 사치하고)(이)라고 말하세요.
그러면 동두천(톤두톨)에 미국 병사들이 더 많이 옵니다.
한국이나 부자가 되며 살아 가지 않으면 안 될 것입니다.
군 수는 우리에게 달러를 버는 애국자와 칭찬해 칭했습니다. 그런 말을 들으면 , 우리는 그렇게 하지 않으면 안 되는 듯한 신경이 쓰입니다.」
경찰은 인신매매로 팔려 온 아이들을 구출하는 것에는 관심이 없었다.
성병에 걸렸다고 의심되는 사람들을 잡아서 가는 것인 만큼 관심을 가지고 있었다. 잡아서 갈 때도 사람축에 들지 못한 사람 사이적이었다.
「성병에 걸린 미국 병사가 찾아 와 contact(미군 성병 환자에게 성병을 감염시켰다고 의심되는 여성을 지명하는 것)
하면, 그 자리에서 연행됩니다. 지명해 되면 갑니다. 그 미국 병사가 어디서 성병에 감염했는가는 중요하지는 않습니다.
우리는 그것을 토벌 된다고 불렀습니다.」
「흰 가(동두천시 소요산(소요산) 하의낙검자 수용소를 기지마을 여성들은언덕 위의 흰 집이라고 부르고 있었다.)
거기에 가면 넓은 운동장이 있지만, 토벌 된 여자들이 데려 올 수 있으면(건물의 문에는) 시정 되어
마치 형무소같았습니다. 우리가 죄인입니까?환자를 왜 죄인 취급했는지 이해를 할 수 없습니다.」
김·젼쟈씨는(1965년경) 파주(파쥬) 욘즌콜에 팔려서 간 후, 동두 카와, 용산(욘산),
군산, 히라사와와 여기저기를 전전하고, 40대 반(1990년대 중반)에 기지마을로부터 빠져 나갈 수 있었다.
「너희를 좋아하고(기지마을 생활을) 했는데 무엇이 불만인가, 그러한 질문을 정말로 많이 (듣)묻습니다.
한국 정부가 미군을 끌어 들이지 않았으면, 우리가 이와 같이 되었는지요? 나중에 알았습니다만,
그 시기에도 성 매매 행위는 법률로 금지되고 있었습니다. 미군 기지마을에서만 성 매매가 합법이었습니다.
박정희정부가 왜 그러한 법을 만들었는지요. 나에게는 잘 모릅니다만,
미군을 쭉 있게 하기 위해서 그처럼 한 것은 아닐까요? 우리에게 달러를 벌게 하려고.」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17752.html
위안부인가.........심한 금년 선반
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JA
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台杉
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慰安婦か.........酷いことしたな
「私はキム・ジョンジャ(仮名)です。 今年で64歳です。
私は米軍向けの慰安婦でした。 基地村に人身売買されて、一生を米軍にあてがわれて無念に生きてきましたが、誰も私や私の同僚たちの話を聞こうとはしませんでした。
私たちが米軍から稼いだドルで、韓国をこのように立てなおしたのに、その時は私たちに‘愛国者’だと言っていましたが、今国家は私たちを見て見ぬフリをしています。 私の先輩姉さん(基地村の同僚)がだんだん亡くなってくのをこれ以上黙って見てはいられません。 それで勇気を出すことにしました。
私たちは国家を相手に損害賠償請求訴訟を始めました。
私たちがなぜ国家にこのような戦いを挑むのか、私の人生を通じて説明したいと思います。」
「私は1950年1月に生まれました。
実の父は軍人でしたが、戦争の渦中に私を見に帰って来て脱走兵になって憲兵に捕まりました。
それっきり殴られてしんだという話だけを聞きました。 母は後に再婚しました。
私が12才ぐらいからか、私の義父は母の居ない時を狙って私を強奪しました。 義理の兄たちも私に手を出しました。
それを母に話すこともできずに、じっと我慢していましたが、16歳の時(1965年頃)家を出てしまいました。
私の小学校の時の友人がいました。 金を稼げる所があると言いました。
紡織工場だと言いました。 その子についてソウル駅まで汽車に乗って来ました。
ある家に入ると、家毎に‘ナムバー’が付いていました。 1号室、2号室、3号室、こんなふうに。
私は旅館だと思って眠りました。 私の友達は、翌日ちょっと行って来ると言って出て行ったきり帰って来ませんでした。
(50代くらいの)おばさんが現れました。 私について来いと言いました。 工場に連れて行くのかと思って、ついて行きました。
ところが私に‘お前の友達が借金を返さずに逃げたので、代わりにお前が返せ’と言いました。
いくらなのかは言いませんでした。友達の代わりにお金を返せば私が出て行くことができると言いました。
どのように金を稼げばいいのか尋ねました。 夜になって姉さんについて行けば分かると言いました。
後で知ったのですが、私が行ったところは坡州(パジュ)ヨンジュッコルという所でした。
米軍基地の周辺で女たちが身を売る所でした。 私の友達が借金を返せずに、私を売り払ったということでした。」
「おばさん(抱え主)は私に、クラブに出て行ってお客さん(米兵)を連れて来るように言いました。
私は3日くらいして、その抱え主の家から逃げ出しました。 ところが路地で捕ってしまいました。
‘しぬほど’殴られました。 もう一回逃げたら島に連れて行ってころしてしまうと言いました。
(抱え主が)パスを貼ってくれセコナール(鎮静剤)をくれました。 気持ち良くからと言ってくれました。
一回飲めば(中毒になり)二回飲むことになり、三回飲めば四回飲むことになります。
客を連れてこいと送り出されると、私は恐くて何も言えませんでした。 正気では恥ずかしくて客を引っ張ることなどできません。
私はその薬が何なのかも知らず、飲み続けました。」
キム氏は後になってこれが麻薬であることを知るようになるが、すでに手遅れだった。 薬を飲んでこそヒッパリ(客引き行為)に出かけられた。
キム・ジョンジャさんの人生は地獄のようだった。 普通、基地村女性たちは一晩に米軍兵を三,四人ずつ受け入れなければならないケースが普通だった。
「そうすれば、そこ(陰部)がどれほど痛むかわかりません。 ロング・ショート(性売買時間の単位)いくらしてもキリがありません。
ロングは自分の部屋で夜を明かして朝早くに出て行くもので10ドル受け取ります。
ショートは自分の部屋で30分から1時間で出て行きます。 お金は全部おばさんが持って行ってしまいます。 私は直接受け取れません。
おばさんは一ヶ月毎に計算すると言っておいて全て奪い取りました。 1~2ヶ月で借金を全て返せると思っていましたがそうは行きません。」
「山に行って米兵を受け入れなければならない時が一番恐かったです。 夜暗くなれば、毛布一枚持って、おばさんについて行きます。 おばさんが歩哨に立つ米兵とゴチゴチョ話します。 そうすると訓練場所に入ることができました。
銃を持って立っていた男たちが幕舎に行って、女たちと寝たい者は出てこいと言います。
E-6、E-7(E-6は下士、E-7は中士)らも皆しました。 将校は特別に幕舎の中でします。
一般兵士たちは訓練場内の木のあるところに毛布を敷いてしたり、穴を掘っておいてそこでします。 」
基地村女性たちはそんな風に訓練場にまで呼ばれて行って‘空を屋根として、地べたを毛布として’
米兵を受け入れた。 きちんと洗う時間などなかった。 金を稼いで降りて行けば抱え主に怒られない。
ある米兵はお金の代わりに自分たちが食べるこびりついたご飯を投げつけて女性たちの気を焦らせた。
「ある米兵はこんどーむをつけずにします。 私たちには拒絶できません。
それで堕胎も本当にたくさんしました。 堕ろした子だけで17人です。」
「なぜ私たちがそんなにまでして米兵と結婚しようとしたか分かりますか?
そうでもしなければここから脱出する方法がなかったからです。 借金を返す方法がありません。
逃げようとしても警察も誰も助けてはくれません。 私たちには国家はありませんでした。」
いや、国家はあった。 姉妹会の会議が月に一回ずつ開かれれば、女性たちは参加して教育を受けなければならなかった。
そうしなければ営業ができなかった。 会議に行けば、憲兵、C.I.D.(米軍部隊犯罪捜査課),
保健所職員、警察署長、郡庁公務員たちが皆来ていた。
「出て来る度に言う言葉はこうでした。 ‘お嬢さんたちがサービスをもっとたくさんしてください。
米兵に絶対に悪口を言わないでください。 Buy me drink. (お酒を奢って)と言いなさい。
そうすれば東豆川(トンドゥチョン)に米兵たちがもっとたくさん来ます。
韓国も金持ちになって暮らしていかないといけないでしょう。
’郡守は私たちにドルを稼ぐ愛国者と褒め称えました。 そう言われると、私たちはそうしなければいけないような気になります。」
警察は人身売買で売られてきた子供たちを救出することには関心がなかった。
性病にかかったと疑われる人々を捕まえて行くことだけに関心を持っていた。 捕まえて行く時も非 人間的だった。
「性病に罹った米兵が訪ねてきてcontact(米軍性病患者に性病を感染させたと疑われる女性を名指しすること)
すれば、その場で連行されます。 名指しされれば行くんです。 その米兵がどこで性病に感染したかは重要ではありません。
私たちはそれを討伐されると呼びました。」
「白い家(東豆川市 逍遥山(ソヨサン)下の洛検者収容所を基地村女性たちは‘丘の上の白い家’と呼んでいた。)
そこに行けば広い運動場があるが、討伐された女たちが連れてこられれば(建物の門には)施錠され、
まるで刑務所のようでした。 私たちが罪人ですか? 患者をなぜ罪人扱いしたのか理解ができません。」
キム・ジョンジャさんは(1965年頃)坡州(パジュ)ヨンジュッコルに売られて行った後、東豆川、龍山(ヨンサン)、
群山、平沢とあちこちを転々として、40代半ば(1990年代中盤)に基地村から抜け出すことができた。
「お前たちが好きで(基地村生活を)したのに何が不満か、そのような質問を本当に多く聞きます。
韓国政府が米軍を引き込まなかったら、私たちがこのようになったでしょうか? 後で知ったのですが、
その時期にも性売買行為は法律で禁止されていました。 米軍基地村だけで性売買が合法でした。
朴正熙政府がなぜそのような法を作ったのでしょうか。 私にはよく分かりませんが、
米軍をずっと居させるためにそのようにしたのではないでしょうか? 私たちにドルを稼がせようとして。」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17752.html
私は米軍向けの慰安婦でした。 基地村に人身売買されて、一生を米軍にあてがわれて無念に生きてきましたが、誰も私や私の同僚たちの話を聞こうとはしませんでした。
私たちが米軍から稼いだドルで、韓国をこのように立てなおしたのに、その時は私たちに‘愛国者’だと言っていましたが、今国家は私たちを見て見ぬフリをしています。 私の先輩姉さん(基地村の同僚)がだんだん亡くなってくのをこれ以上黙って見てはいられません。 それで勇気を出すことにしました。
私たちは国家を相手に損害賠償請求訴訟を始めました。
私たちがなぜ国家にこのような戦いを挑むのか、私の人生を通じて説明したいと思います。」
「私は1950年1月に生まれました。
実の父は軍人でしたが、戦争の渦中に私を見に帰って来て脱走兵になって憲兵に捕まりました。
それっきり殴られてしんだという話だけを聞きました。 母は後に再婚しました。
私が12才ぐらいからか、私の義父は母の居ない時を狙って私を強奪しました。 義理の兄たちも私に手を出しました。
それを母に話すこともできずに、じっと我慢していましたが、16歳の時(1965年頃)家を出てしまいました。
私の小学校の時の友人がいました。 金を稼げる所があると言いました。
紡織工場だと言いました。 その子についてソウル駅まで汽車に乗って来ました。
ある家に入ると、家毎に‘ナムバー’が付いていました。 1号室、2号室、3号室、こんなふうに。
私は旅館だと思って眠りました。 私の友達は、翌日ちょっと行って来ると言って出て行ったきり帰って来ませんでした。
(50代くらいの)おばさんが現れました。 私について来いと言いました。 工場に連れて行くのかと思って、ついて行きました。
ところが私に‘お前の友達が借金を返さずに逃げたので、代わりにお前が返せ’と言いました。
いくらなのかは言いませんでした。友達の代わりにお金を返せば私が出て行くことができると言いました。
どのように金を稼げばいいのか尋ねました。 夜になって姉さんについて行けば分かると言いました。
後で知ったのですが、私が行ったところは坡州(パジュ)ヨンジュッコルという所でした。
米軍基地の周辺で女たちが身を売る所でした。 私の友達が借金を返せずに、私を売り払ったということでした。」
「おばさん(抱え主)は私に、クラブに出て行ってお客さん(米兵)を連れて来るように言いました。
私は3日くらいして、その抱え主の家から逃げ出しました。 ところが路地で捕ってしまいました。
‘しぬほど’殴られました。 もう一回逃げたら島に連れて行ってころしてしまうと言いました。
(抱え主が)パスを貼ってくれセコナール(鎮静剤)をくれました。 気持ち良くからと言ってくれました。
一回飲めば(中毒になり)二回飲むことになり、三回飲めば四回飲むことになります。
客を連れてこいと送り出されると、私は恐くて何も言えませんでした。 正気では恥ずかしくて客を引っ張ることなどできません。
私はその薬が何なのかも知らず、飲み続けました。」
キム氏は後になってこれが麻薬であることを知るようになるが、すでに手遅れだった。 薬を飲んでこそヒッパリ(客引き行為)に出かけられた。
キム・ジョンジャさんの人生は地獄のようだった。 普通、基地村女性たちは一晩に米軍兵を三,四人ずつ受け入れなければならないケースが普通だった。
「そうすれば、そこ(陰部)がどれほど痛むかわかりません。 ロング・ショート(性売買時間の単位)いくらしてもキリがありません。
ロングは自分の部屋で夜を明かして朝早くに出て行くもので10ドル受け取ります。
ショートは自分の部屋で30分から1時間で出て行きます。 お金は全部おばさんが持って行ってしまいます。 私は直接受け取れません。
おばさんは一ヶ月毎に計算すると言っておいて全て奪い取りました。 1~2ヶ月で借金を全て返せると思っていましたがそうは行きません。」
「山に行って米兵を受け入れなければならない時が一番恐かったです。 夜暗くなれば、毛布一枚持って、おばさんについて行きます。 おばさんが歩哨に立つ米兵とゴチゴチョ話します。 そうすると訓練場所に入ることができました。
銃を持って立っていた男たちが幕舎に行って、女たちと寝たい者は出てこいと言います。
E-6、E-7(E-6は下士、E-7は中士)らも皆しました。 将校は特別に幕舎の中でします。
一般兵士たちは訓練場内の木のあるところに毛布を敷いてしたり、穴を掘っておいてそこでします。 」
基地村女性たちはそんな風に訓練場にまで呼ばれて行って‘空を屋根として、地べたを毛布として’
米兵を受け入れた。 きちんと洗う時間などなかった。 金を稼いで降りて行けば抱え主に怒られない。
ある米兵はお金の代わりに自分たちが食べるこびりついたご飯を投げつけて女性たちの気を焦らせた。
「ある米兵はこんどーむをつけずにします。 私たちには拒絶できません。
それで堕胎も本当にたくさんしました。 堕ろした子だけで17人です。」
「なぜ私たちがそんなにまでして米兵と結婚しようとしたか分かりますか?
そうでもしなければここから脱出する方法がなかったからです。 借金を返す方法がありません。
逃げようとしても警察も誰も助けてはくれません。 私たちには国家はありませんでした。」
いや、国家はあった。 姉妹会の会議が月に一回ずつ開かれれば、女性たちは参加して教育を受けなければならなかった。
そうしなければ営業ができなかった。 会議に行けば、憲兵、C.I.D.(米軍部隊犯罪捜査課),
保健所職員、警察署長、郡庁公務員たちが皆来ていた。
「出て来る度に言う言葉はこうでした。 ‘お嬢さんたちがサービスをもっとたくさんしてください。
米兵に絶対に悪口を言わないでください。 Buy me drink. (お酒を奢って)と言いなさい。
そうすれば東豆川(トンドゥチョン)に米兵たちがもっとたくさん来ます。
韓国も金持ちになって暮らしていかないといけないでしょう。
’郡守は私たちにドルを稼ぐ愛国者と褒め称えました。 そう言われると、私たちはそうしなければいけないような気になります。」
警察は人身売買で売られてきた子供たちを救出することには関心がなかった。
性病にかかったと疑われる人々を捕まえて行くことだけに関心を持っていた。 捕まえて行く時も非 人間的だった。
「性病に罹った米兵が訪ねてきてcontact(米軍性病患者に性病を感染させたと疑われる女性を名指しすること)
すれば、その場で連行されます。 名指しされれば行くんです。 その米兵がどこで性病に感染したかは重要ではありません。
私たちはそれを討伐されると呼びました。」
「白い家(東豆川市 逍遥山(ソヨサン)下の洛検者収容所を基地村女性たちは‘丘の上の白い家’と呼んでいた。)
そこに行けば広い運動場があるが、討伐された女たちが連れてこられれば(建物の門には)施錠され、
まるで刑務所のようでした。 私たちが罪人ですか? 患者をなぜ罪人扱いしたのか理解ができません。」
キム・ジョンジャさんは(1965年頃)坡州(パジュ)ヨンジュッコルに売られて行った後、東豆川、龍山(ヨンサン)、
群山、平沢とあちこちを転々として、40代半ば(1990年代中盤)に基地村から抜け出すことができた。
「お前たちが好きで(基地村生活を)したのに何が不満か、そのような質問を本当に多く聞きます。
韓国政府が米軍を引き込まなかったら、私たちがこのようになったでしょうか? 後で知ったのですが、
その時期にも性売買行為は法律で禁止されていました。 米軍基地村だけで性売買が合法でした。
朴正熙政府がなぜそのような法を作ったのでしょうか。 私にはよく分かりませんが、
米軍をずっと居させるためにそのようにしたのではないでしょうか? 私たちにドルを稼がせようとして。」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17752.html
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