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定期掲示

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  • 独裁者、李承晩の対日政策

  • 李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、
  • 日本を激しく嫌った。
  • 李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月〜1956年1月、1959年6月〜1960年4月に日本と断交している。
    また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予¥定されていた日韓会談の中止を指示した。
  • 李承晩政権は、おおむね旧植民地官僚であったエリート(現在では親日派とされる)により構¥成されていて、政治と癒着していた企業も、現在では親日派とされることが多い。今日の韓国教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十¥分であった」といった趣旨の記述があり(金大中も自著の中で同じ内容の批判を述べている)、親日派の糾明は現代の韓国で主要な政治議題となっている。(→日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法)
  • 代表¥的な対日政策の一つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる
  • 「李承晩ラインの設定」がある。
    日本が敗戦の混乱期にある無防備な時期に豊富な水産資源の漁場の確保とともに、
    日本の竹島が韓国が主権を主張する『獨島』として国際法違反を分かっていながら武装占拠し実効支配下におかれた。これにより日本船がたびたび拿¥捕・狙撃され、
  • 多くの罪の無い日本人が韓国側に多数殺害された。
    このような韓国の卑劣な手段で武力により強制的に支配された竹島の処遇は当然現在に至るまで日韓の懸案問題になっているが、韓国政府は再三に渡る日本側からの話し合いによる解決を求めているが現在まで一方的に話し合う事を拒否し続けている。また話し合いが出来ない為、第三国にて裁判による解決も求めているが、これも一切拒否を続け、武力による威嚇で竹島を占拠し続けている状況である。
  • 領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」
  • 「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、
    朝鮮戦争の際にも
  • 「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」
    などと主張して、幾度となく米国より非難を受けていたほど、
  • 日本を占領したいと度々発言している。
  • また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表¥現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。著作権の概念が一般に浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなった事もあって絶対数は減ったが、現在でもたびたび日本などの先進国から問題視され、不法な著作権侵害は未だ減る気配はなく、二大市場には今でもまがい物が多数売られており減る様子は一向にない。
  • ※李承晩ライン(りしょうばんライン、/李承晩 )は 1952年(昭和27年)1月18日 大韓民国(韓国)大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき韓国側が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線」と宣言された。
    その狙いは韓国で獨島(日本の漢字では「独島」)と呼ばれている竹島と対馬の領有を主張するためである。
    また日本の漁民が所有していた船は、拿¥捕強奪すると直ぐに塗り替えられ、韓国の警察の警備艇などに勝手に使用された。
  • 竹島付近に近づいた漁船(日本国籍の船)は韓国側による臨検・拿¥捕の対象となり、銃撃され殺害される事件が起こった(第一大邦丸事件など)。このようなテロ行為にて李承晩は竹島(独島)を軍事力で不法に占拠したのである。
  • 国際法上の慣例を無視した措置として日米側や中国は強く抗議したが、このラインの廃止は1965年(昭和40年)の日韓漁業協定の成立まで待たなくてはならなかった。協定が成立するまでの13年間に、
  • 韓国による日本人抑留者は3,929人、
  • 拿¥捕された船舶数は328隻、
  • 死傷者は44人を数えた。
  • 李承晩は拿¥捕された漁民を解放する条件として、日本国内の韓国人犯罪者の解放と日本への在留継続を要求し、日本政府は漁民の生命を守るためにやむなく韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、
  • 常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として
  • 収監されていた在日韓国・朝鮮-人
  • 472人を収容所より放免して
  • 在留特別許可を与えた。
  • 竹島は李承晩ライン宣言により軍事力で占拠されました。それまで韓国は竹島の場所も知らないほど歴史的証拠を持っていませんが、その後、それを正当化する為に于山島(現在の鬱陵島)が竹島と捏造したり賎民である安龍福鳥取藩の取り調べの内容※PDF)を将軍と偽ったり、無関係の歴史や妄言を無理矢理に関連づけて嘘の歴史を捏造してます。理由はテロ国家の烙印を押され、国際的信用を失う事を恐れている為です。是非、韓国は竹島問題についての日本への恐怖外交やテロ行為を止めて、国際司法裁判所に委託するか、せめて日本との解決するための話し合いを拒否し続けるのは止めましょう。
  • 1949(昭和ニ四)年1月8日 - 李大統領が対馬返還要求 李承晩大統領は政府樹立直後の1949年1月、新年記者会見で日本に対馬島返還を要求した
  • 1949年(昭和ニ四)年1月23日 - 漁船第12万栄丸が韓国船から銃撃うけ、船員1人死亡。
  • 1949年(昭和ニ四)年2月1日 - 韓国船から銃撃うけ、第6・第8ゆたか丸でも1人死亡。
  • 1949年(昭和ニ四)年5月 4日 - 韓国船から銃撃うけ、大繁丸でも1人死亡。
  • 1949年09月19日 - SCAPIN 2046
    SCAPIN-1033を廃止する旨の指令書
  • 1949年11月14日 - 駐日政治顧間代理(シーボルド)からバタワース国務次官補へ電報
    日本側の要請を受けたシーボルト駐日政治顧問がアメリカ国務省に対して、「竹島はもともと日本領だった」と提言した。正規の意見書(1949年11月19日付)でも、リアンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることと提案した
  • 1950年 - オーストラリア政府の質問に対する米国の回答
    米国極東アジア事務局のロバート・A・フィアリー氏のメモ(日付なし)より。(『オーストラリア政府からの質問状に対する回答』より) 「内海の島々、隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻、対馬、竹島、五島列島、琉球北部、伊豆諸島、などの永く日本領と認識されていた島々は日本が保持することになるであろうと考えられている。」
  • 1951(昭和二六)年3月〜4月 - 韓国軍艦による同国近海での日本漁船だ捕が多発。 2カ月間で30隻がだ捕された。
  • 1951(昭和ニ六)年4月27日 - 韓国が対馬の領有権を主張 韓国は米国務省に送った文書の中で、サンフランシスコ条約草案の「領土」部分に対して言及しながら、「韓国は正義が永久的平和の唯一の基盤という堅固な信頼で対馬島の領土的地位に対する完全な検討をすることを要請する」とし、「歴史的にこの島は韓国領土だったが日本によって 強制的、不法的に占領された」と言った。しかし、米国側は「対馬は日本が長期間にわたり完全に統治しており、平和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさない」と答え、韓国の要求を拒否した。
  • 1951年7月12日 - 韓国はアメリカに対して、日本が対馬に対する権利を放棄することなどを含めた10項目の覚書を送る
  • 1951年7月18日 - 韓国は再度、アメリカに対して5項目の要求を行い、「独島・対馬島・波浪島」を韓国領に含めるように求めた。
  • 1951(昭和ニ六)年7月19日 - 梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソ¥ン米国務長官宛の書簡 米英両国によるサンフランシスコ平和条約草案内容を承知した韓国は、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソ¥ン米国務長官宛の書簡を提出した。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及び波浪島(パラン島:存在しない架空の島)を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものであった。
  • 1951年7月26日 - 韓国政府は三度目の修正要求を提出する。 新たな日韓漁業協定が締結されるまで「マッカーサー・ライン」が存続するように要請した。
  • 1951(昭和ニ六)年8月10日 - 「ラスク書簡」 ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡は次の通り、明らかに竹島は日本の領土であるということが肯定されているものであった。 「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構¥成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
  • 1951年8月16日 - 講和条約の最終案が発表¥される。
    韓国案の第二条A項の領土規定の修正は受けいれられなかった
  • 1951(昭和ニ六)年9月8日 - サンフランシスコ平和条約条約に調印。 日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定した。(韓国領土に竹島は含まれず)
  • 1952(昭和ニ七)年1月18日 - 李承晩大統領の海洋主権宣言(李承晩ライン宣言) 韓国大統領李承晩、海洋主権宣言により竹島の領有を主張。以後、日本漁船の拿¥捕や銃撃するなど竹島を武装占拠し、非武装であった日本政府に対して脅迫外交を開始。 1965年(昭和40年)の日韓漁業協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿¥捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。船はすべて没収され、漁民は長期間の抑留の後、処罰されて帰還した。李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国人・朝鮮-人472人を収容所より放免し、韓国人密入国者の日本滞在の合法化として在留特別許可を与えた。完全に不法な要求であったが、防衛力を持たない当時の日本は韓国の要求を受け入れざるを得ず、以後これらの処遇は在日韓国・朝鮮-人の既得権となったまま、今日に至っている。
  • 1952年01月28日 - 日本による抗議 政府は、直ちに韓国側へ抗議を行い、海上保安庁では、銃撃をも伴う韓国側の激しい取締りから我が国漁船を保護するため、政府方針に基づき、巡視船を派遣し、漁船と韓国警備艇との間に割って入り煙幕を使用したり、巡視船が漁船を横抱き又はえい航して脱出する、あるいはだ捕寸前の漁船に接舷して、最悪でも乗組員だけは救出する等の困難な作業により、懸命にだ捕防止に努めた。以降、竹島周辺海域に常時巡視船を配備して監視を続けるとともに、我が国漁業者の安全確保の見地から被だ捕の防止指導等を行う。
  • 1952年04月28日 - サンフランシスコ講和条約発効。
  • 1952年(昭和二七)年2月11日 - 漁船第3石宝丸が韓国船に銃撃され、船員1人死亡。
  • 1952(昭和ニ七)年4月 - 「マッカーサー・ライン」は、1952(昭和27)年4月に廃止が指令され、またその3日後の4月28日には平和条約の発効により、行政権停止の指令等も必然的に効力を失う。
  • 1953(昭和ニ八)年1月12日 - 韓国政府、「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿¥捕を指示する。
  • 1953(昭和ニ八)年2月4日 - 漁船第1大邦丸、第2大邦丸が済州島付近で韓国軍の銃撃をうけ、瀬戸重四郎(一説には重次郎)漁労長が射殺される。
  • 1953(昭和ニ八)年3月 - 日米合同委員会で竹島の演習区域からの解除が決定
  • 1953年04月20日 - 独島義勇兵を結成した韓国の青年が竹島に上陸
  • 1953年06月19日 - 島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す
  • 1953(昭和ニ八)年7月12日 - 竹島に上陸していた韓国の守備隊により、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した日本の海上保安庁巡視船に向け、発砲・銃撃される。以後、日本政府の抗議にも関らず竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近は不可能¥となり、事実上の占領を実施する。
  • 1953 (昭和ニ八)年7月22日 - アメリカ国務省がラスク書簡の竹島日本所属を追認
    国務省北東アジア課バーマスター(L.Burmaster)による覚書 "日韓間リアンクール岩紛争のあり得べき解決策"
    「ディーン・ラスク国務次官補の1951年8月10日づけ通牒において述べられています。」
    これは竹島を爆撃して抗議をしてきた韓国へ対し、米国政府の公式見解として、ラスク書簡の見解はサンフランシスコ条約締結以降も有効であり、韓国はこの見解、すなわち竹島は日本領で有ると言う事を受け入れるべきだと述べている。
  • 1953(昭和二八)年9月3日 - 韓国海軍が「李ライン侵犯船は撃沈する」と発表¥。
  • 1953年07月27日 - 朝鮮戦争終結
  • 1953年9月 - 韓国軍、竹島を軍事占領
  • 1953年11月30日 - 駐日米国大使館公使参事官ウイリアム・T・ターナー(William T.Turner)による調書 "リアンクール岩(竹島)論争に関する覚書" 韓国に対し、我々の以前の見解表¥明(ラスク書簡)を想起させる。日本との間で解決に至るべき
    強い希望を表¥明する。合衆国はこの問題にどのような形にせよ介入することを避けるよう努めるが 衝突が続けばラスク書簡を公表¥しそこで表¥明された見解を反復せざるを得なくなるかもしれないと述べる。もし韓国がラスク書簡で表¥明された見解を受け入れられないなら仲裁裁判か国際司法裁判所への付託に向けた措置を取るべきだと示唆する。
  • 1954(昭和ニ九)年8月 - 竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認された。韓国側により竹島に灯台が建設されていることを確認した。
  • 1954(昭和ニ九)年8月15日 - ヴァン・フリート特命報告書
    大統領特命大使ヴァン・フリートが使節団を率いて極東各国を歴訪して作成。非公式に竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を韓国に伝達した等の事を大統領に報告。 ・一方的な領海宣言(李承晩ライン)は違法である ・米国政府はサンフランシスコ講和条約において竹島は日本領土であると結論している ・この領土問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれる
  • 1954(昭和ニ九)年9月25日 - 国際司法裁判所提訴についての口上書 日本政府は、竹島紛争について、国際司法裁判所に付託して、公平な第三者の裁判による解決を韓国に提案。
  • 1954(昭和ニ九)年10月 - 韓国側は国際司法裁判所への付託の提案を拒否。
  • 1954(昭和ニ九)年11月30日 - 韓国守備隊が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃する事件が発生。
  • 1955(昭和三十¥)年2月14日 - 漁船第6あけぼの丸が韓国軍艦に追突され沈没・船員21人が死亡。
  • 1955(昭和三十¥)年11月17日 - 韓国統合参謀本部が、「李ライン侵犯船は撃沈」と発表¥
  • 1958(昭和三三)年5月18日 - 「李ライン侵犯」で韓国に抑留されていた日本の漁船船員が全員釈放された。しかし、この後もだ捕が発生した。
  • 1959(昭和三四)年1月22日 - 韓国警備艇が日本漁船2隻をだ捕。2月4日にも一隻だ捕。
  • 1961(昭和三六)年12月26日 - 日本政府「韓国官憲による竹島の不法占拠に関する韓国政府への抗議について」
  • 1964(昭和三九)年1月29日 - 漁船第22佐代丸が韓国沿岸で韓周警備艇に拿¥捕された。
  • 1965(昭和四十¥)年5月 - 韓国が米の日韓共同管理提案拒否
    朴正煕大統領がワシントンを訪問した際、ラスク米国務長官が日韓共同で灯台を建設して管理し、領有権争いをしないよう促したものの、韓国側が拒否
  • 1965(昭和四十¥)年6月22日 - 日韓基本条約調印
    「李承晩ライン」が廃止されるが竹島問題は紛争処理事項とされる
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