■일본에 대해 「며칠군 재래」라고 느끼는 대만인
중국인 브로가 「모자적와(핸들 네임)」는 이번에, 스스로의 페이지에 「며칠군 재래-대만 친일정절적 근원(며칠군 재래-대만 친일 감정의 근원)」이라고 제목을 붙이는 문장을 발표했다(사진).대만에서는 대일 감정이 꽤 양호하다.한편, 중국 대륙에서는 대만의 친일 감정을 「미일」이라고 하는 비판이 강하다.「모자적와」씨는, 일본의 대만 통치는 중국에서 전하고 있도록(듯이) 「잔학한 억압」으로 가득 차 있던 것이 아니고, 주민을 위해서 다한 일본인이 있던 것이, 대만에 있는 친일감의 「역사적 이유」라고 주장했다.장대한 문장이므로, 여러 차례로 나누어 소개한다.
타이틀중에 있는 「며칠군 재래(언제의 날에, 너, 다시 온다)」는, 1937년에 샹하이에서 제작된 영화 「삼성반월」의 삽입노래.발표직후부터 대히트 해, 현재에도 노래해 이어지고 있다.중일 전쟁기, 일본 점령하의 키타히라(현·북경)에서, 민중이 장개석이 일본군을 쫓아버려, 다시 북경으로 돌아올 것을 바라는 「저항노래」로서 노래했다는 기록이 있다.
그러나 「모자적와」씨는,많은 대만인의 친일감을 겉(표)위해(때문에), 「며칠군 재래」의 말을 사용했다.
■주민에 힘쓴 대만 통치의 일본 경찰
일본은 청일 전쟁의 배상의 일부로서의 청조에서 대만의 할양을 받았다.당초는 항일운동이 번성했지만, 1902년즈음까지, 거의 다스려졌다.
「모자적와」씨는 전문을 통해서, 필자는 일본의 대만 통치에는 훌륭한 면이 많았다고 주장했다.우선, 대륙에서는 많은 사람이 일본 통치하의 대만은, 극단적인 「경찰 국가」체제였다고 생각하지만 「오해다」라고 지적.일본이 우선 파견한 것은 헌병 3400명과 경찰관 3000명이었다고 한다.
그 후의 인구증가로 합계 1만명 정도로 증원 되었지만, 「이렇게 적은 경찰력으로, 대만에서는 「흘린 물건을 착복하는 사람도 없고, 밤도 집에 시정의 필요가 없다」(정도)만큼 치안이 좋아져, 게다가 사회는 급속히 현대화했다」, 「이 사실에, 우리가 배우는 점은 실로 많다」라고 주장했다.
청조 시대의 중국에는 아역으로 불리는 현대의 경찰관에 상당하는 직무가 있었지만, 주민 보호등을 근본적인 목적으로 하는 현재의 경찰이란만큼 먼 존재였다.「치안 유지」나 「범죄 단속」도 지배층이기 때문에였으므로, 서민에게 있어서는 「억압의 도구」밖에 지나지 않았다.게다가, 사복을 비옥하게 하려고 주민에게 금품등을 요구하는 것이 일상다반사였다.
「모자적와」씨는 「일본의 경찰관은, 정반대였다.어려운 시험을 통해서 채용해, 산간부나 낙도에서 근무하는 경우에는, 주민의 의료 문제도 다루었다」라고 소개했다.
■페스트 환자를 지켜, 순직한 일본인 경관
대만에서, 일본의 통치에 끝까지 저항한 것은, 당시 , 「고사족(대만의 원주민)」이라고 불린 선주민이었다.1920년대가 되어도 「무샤 사건」등이 발생해, 산간부에서 근무하는 경찰관은 위험에 처해지고 있었다.언제 「목사냥」의 대상이 될지도 몰랐다.필자는, 그런데도 두메 산골에 부임해, 주민을 위해서 진력한 일본인 경찰관의 예를 들었다.
무부에이조가 타이얄족(대만 선주민의 하나)의 취락에 부임한 것은 1914년.현지에서는 페스트가 유행했다.무부는 사재를 투자해 격리·치료 시설을 만들었다.현지가 맹렬한 폭풍우에 폭풍우에 습격당했을 때, 불안하게 되어 귀가를 요구하는 수용자에게 「지금, 밖에 나오면, 오히려 위험하다.나는 배명 해 직무을 떠맡는 일본의 경찰관이다.주민 보호는 방폐하지 않는다.아무래도 돌아간다면, 나를 죽이고 나서 해라」 등과 설득을 계속하면서, 폭풍우속에서 파손한 지붕등을 수리했다.
폭풍우가 떠난 후도 무부는 수용자의 치료를 계속했지만,스스로도 페스트에 감염해 사망했다.
무부에이조는 현지에서 「신」이라고 여겨졌다.묘를 세울 수 있어 참배의 대상이 되었다.(계속 된다)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0715&f=national_0715_026.shtml
대만의 친일에는 역사적인 이유가 있는…대만
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台湾の親日には歴史的なワケがある…台湾
■日本に対し「何日君再来」と感じる台湾人
中国人ブロガー「耗子的窩(ハンドルネーム)」はこのほど、自らのページに「何日君再来―¥台湾親日情節的根源(何日君再来―¥台湾親日感情の根源)」と題する文章を発表¥した(写真)。台湾では対日感情がかなり良好だ。一方、中国大陸では台湾の親日感情を「媚日」とする批判が強い。「耗子的窩」さんは、日本の台湾統治は中国で伝えられているように「残虐な抑圧」に満ちていたものではなく、住民のために尽くした日本人がいたことが、台湾にある親日感の「歴史的理由」と主張した。長大な文章なので、複数回に分けて紹介する。
タイトル中にある「何日君再来(いつの日に、君、ふたたび来る)」は、1937年に上海で製作された映画『三星伴月』の挿入歌。発表¥直後から大ヒットし、現在でも歌い継がれている。日中戦争期、日本占領下の北平(現・北京)で、民衆が蒋介石が日本軍を追い払い、再び北京に戻ることを願う「抵抗歌」として歌ったとの記録がある。
しかし「耗子的窩」さんは、多くの台湾人の親日感を表¥わすために、「何日君再来」の言葉を使った。
■住民に尽くした台湾統治の日本警察
日本は日清戦争の賠償の一部としての清朝から台湾の割譲を受けた。当初は抗日運動が盛んだったが、1902年ごろまでに、ほぼ治まった。
「耗子的窩」さんは全文を通じて、筆者は日本の台湾統治には見事な面が多かったと主張した。まず、大陸では多くの人が日本統治下の台湾は、極端な「警察国家」体制だったと思っているが「誤解だ」と指摘。日本がまず派遣したのは憲兵3400人と警察官3000人だったという。
その後の人口増で計1万人程度に増員されたが、「こんなに少ない警察力で、台湾では『落し物を着服する人もなく、夜も家に施錠の必要がない』ほど治安がよくなり、しかも社会は急速に現代化した」、「この事実に、われわれが学ぶ点は実に多い」と主張した。
清朝時代の中国には衙役と呼ばれる現代の警察官に相当する役職があったが、住民保護などを根本的な目的とする現在の警察とはほど遠い存在だった。「治安維持」や「犯罪取り締まり」も支配層のためだったので、庶民にとっては「抑圧の道具」にしか過ぎなかった。しかも、私服を肥やそうと住民に金品などを要求することが日常茶飯事だった。
「耗子的窩」さんは「日本の警察官は、正反対だった。厳しい試験を通じて採用し、山間部や離島で勤務する場合には、住民の医療問題も手がけた」と紹介した。
■ペスト患者を守り、殉職した日本人警官
台湾で、日本の統治に最後まで抵抗したのは、当時、「高砂族」と呼ばれた先住民だった。1920年代になっても「霧社事件」などが発生し、山間部で勤務する警察官は危険にさらされていた。いつ「首狩り」の対象になるかも分からなかった。筆者は、それでも奥地に赴任し、住民のために尽力した日本人警察官の例を挙げた。
武冨栄蔵がタイヤル族(台湾先住民のひとつ)の集落に赴任したのは1914年。現地ではペストが流行した。武冨は私財を投じて隔離・治療施設を作った。現地が猛烈な嵐に嵐に襲われた時、不安になり帰宅を求める収容者に「今、外に出たら、かえって危ない。私は拝命して任に当たる日本の警察官だ。住民保護は放棄しない。どうしても帰るなら、私を殺してからにしろ」などと説得を続けながら、嵐の中で破損した屋根などを修理した。
嵐が去った後も武冨は収容者の手当てを続けたが、自らもペストに感染して死亡した。
武冨栄蔵は現地で「神」とされた。廟が立てられて参拝の対象になった。(続く)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0715&f=national_0715_026.shtml
中国人ブロガー「耗子的窩(ハンドルネーム)」はこのほど、自らのページに「何日君再来―¥台湾親日情節的根源(何日君再来―¥台湾親日感情の根源)」と題する文章を発表¥した(写真)。台湾では対日感情がかなり良好だ。一方、中国大陸では台湾の親日感情を「媚日」とする批判が強い。「耗子的窩」さんは、日本の台湾統治は中国で伝えられているように「残虐な抑圧」に満ちていたものではなく、住民のために尽くした日本人がいたことが、台湾にある親日感の「歴史的理由」と主張した。長大な文章なので、複数回に分けて紹介する。
タイトル中にある「何日君再来(いつの日に、君、ふたたび来る)」は、1937年に上海で製作された映画『三星伴月』の挿入歌。発表¥直後から大ヒットし、現在でも歌い継がれている。日中戦争期、日本占領下の北平(現・北京)で、民衆が蒋介石が日本軍を追い払い、再び北京に戻ることを願う「抵抗歌」として歌ったとの記録がある。
しかし「耗子的窩」さんは、多くの台湾人の親日感を表¥わすために、「何日君再来」の言葉を使った。
■住民に尽くした台湾統治の日本警察
日本は日清戦争の賠償の一部としての清朝から台湾の割譲を受けた。当初は抗日運動が盛んだったが、1902年ごろまでに、ほぼ治まった。
「耗子的窩」さんは全文を通じて、筆者は日本の台湾統治には見事な面が多かったと主張した。まず、大陸では多くの人が日本統治下の台湾は、極端な「警察国家」体制だったと思っているが「誤解だ」と指摘。日本がまず派遣したのは憲兵3400人と警察官3000人だったという。
その後の人口増で計1万人程度に増員されたが、「こんなに少ない警察力で、台湾では『落し物を着服する人もなく、夜も家に施錠の必要がない』ほど治安がよくなり、しかも社会は急速に現代化した」、「この事実に、われわれが学ぶ点は実に多い」と主張した。
清朝時代の中国には衙役と呼ばれる現代の警察官に相当する役職があったが、住民保護などを根本的な目的とする現在の警察とはほど遠い存在だった。「治安維持」や「犯罪取り締まり」も支配層のためだったので、庶民にとっては「抑圧の道具」にしか過ぎなかった。しかも、私服を肥やそうと住民に金品などを要求することが日常茶飯事だった。
「耗子的窩」さんは「日本の警察官は、正反対だった。厳しい試験を通じて採用し、山間部や離島で勤務する場合には、住民の医療問題も手がけた」と紹介した。
■ペスト患者を守り、殉職した日本人警官
台湾で、日本の統治に最後まで抵抗したのは、当時、「高砂族」と呼ばれた先住民だった。1920年代になっても「霧社事件」などが発生し、山間部で勤務する警察官は危険にさらされていた。いつ「首狩り」の対象になるかも分からなかった。筆者は、それでも奥地に赴任し、住民のために尽力した日本人警察官の例を挙げた。
武冨栄蔵がタイヤル族(台湾先住民のひとつ)の集落に赴任したのは1914年。現地ではペストが流行した。武冨は私財を投じて隔離・治療施設を作った。現地が猛烈な嵐に嵐に襲われた時、不安になり帰宅を求める収容者に「今、外に出たら、かえって危ない。私は拝命して任に当たる日本の警察官だ。住民保護は放棄しない。どうしても帰るなら、私を殺してからにしろ」などと説得を続けながら、嵐の中で破損した屋根などを修理した。
嵐が去った後も武冨は収容者の手当てを続けたが、自らもペストに感染して死亡した。
武冨栄蔵は現地で「神」とされた。廟が立てられて参拝の対象になった。(続く)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0715&f=national_0715_026.shtml
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