kjのバグ(不具合)により、IEで、投稿の写真が見られない現象が生ずる様です。IEで、写真が見られない場合は、Firefoxで、ご覧下さい。
以下5つの投稿。参考に、東京都心部の、静かで、落ち着いた住宅地の例として、私の街の紹介の投稿です。
私の街と周辺1→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/2446033?&sfl=membername&stx=jlemon
私の街と周辺2→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/2446032?&sfl=membername&stx=jlemon
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/2446031?&sfl=membername&stx=jlemon
私の街と周辺4→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/2446030?&sfl=membername&stx=jlemon
私の街と周辺5→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/2446029?&sfl=membername&stx=jlemon
東京の南部近郊に位置する、鎌倉(kamakura)は、中世(1185年から1333年まで)に、日本の政治の中心地であった中都市(中規模程度の人口の都市)であり、中世以来の歴史を有する、寺や神社(shrine)が、数多くあります(ただし、鎌倉(kamakura)の寺や神社(shrine)の、現在の建物については、(極一部の例外を除き)中世よりも後の時代に、火事等の焼失により、再建された物であったり、時代に合わせて、建て替えられている物です)。その為、鎌倉(kamakura)は、東京近郊の主要な観光地の一つとなっています。また、鎌倉(kamakura)は、海に面しており、東京近郊の海沿いのリゾート(resort)地の湘南(syonan)の一部であると言う側面も有しています。
鎌倉(kamakura)は、(中世には、日本の政治の中心地でしたが)、15世紀半ば以降、衰退し、一時期、基本的に衰退した状態に有りましたが、19世紀頃から、徐々に観光地として発展し始め、また、19世紀後期以降、東京に近い、近代別荘地・保養地として発展し、再興しました(wikiを参考にしました)。鎌倉(kamakura)は、19世紀後期以降、作家や詩人等、多くの文学者が、好んで、居住し、若しくは、別荘を構えて来ました。また、鎌倉(kamakura)は、1920年代、1930年代頃から、横浜(東京圏南部の中心都市。東京圏で、東京中心部(東京23区)に次いで、第二の人口を有する都市)や東京に通勤する、大学教授や高学歴(大学卒)会社員等の、インテリ(知識人)中流層・中上流(upper-middle)層が暮らす、郊外住宅地として発展して行きました。鎌倉(kamakura)は、現在も、小説家や、画家、文系の大学教授等、文化人達に好まれ、鎌倉(kamakura)及びその周辺には、こうした人々が、多く暮らしているイメージが有ります。
鎌倉(kamakura)は、中心部の繁華街や、自動車の通行量の多い幹線道路沿いを除けば、基本的には、静かで落ち着いた住宅地となっています。私は、通常、鎌倉(kamakura)散歩が主目的の場合、(鎌倉(kamakura)は、道が狭くて、自動車を運転するのが疲れる等の理由により)、自動車ではなく、電車を使って行きます。
鎌倉(kamakura)に関しては、この投稿も、参照して下さい→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_8/view/id/2451293?&sfl=membername&stx=jlemon
第2次世界大戦前に建てられた一戸建て住宅の建物は、日本では、第二次世界大戦時の空襲により、多く消滅した他、第二次世界大戦後、特に1970年代以降、建替え等により、急速に失われてしまいましたが、その様な中で、鎌倉(kamakura)(第二次世界大戦時に空襲の被害を受けなかった)は、東京近郊の都市の中では、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、古い趣の有る、一戸建て住宅の建物が、多く残っている方であったのですが、その様な鎌倉(kamakura)においても、ここ5年位の間に、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、古い趣の有る、一戸建て住宅の、新しい建物への建て替えが、急速に進んでいる感じがします(その様な鎌倉(kamakura)においても、ここ5年位の間に、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、古い趣の有る、一戸建て住宅が、急速に失われて行っている様な気がします)。
私は、(古い一戸建て住宅の建物を含む)古い建物を眺めるのが好きなのですが、日本では、(日本の建物は、歴史上、長らく、石造りでは無く、木造が基本で有ったと言う事が関係していると思いますが)、古い建物を長く使い続けると言う発想が、乏しく、文化財にでも指定されていない限り、寺や神社(shrine)の建物でさえ、老朽化したと言って、結構、あっさりと建て替えてしまいます(もっとも、現存している、江戸(edo)時代(19世紀半ば)以前に建てられた、寺や神社(shrine)の建物に関しては、普通は、文化財に指定されていると思いますが)。したがって、古い住宅の建物となると、尚更、安易に建て替えられてしまう傾向が有ります。文化財に指定されている様な、古い建物は、とりあえず安心なので、個人的に、差し迫って、写真を撮影する必要は有りませんが、私は、やがて消え行く運命に有る(それは、もしかして、すぐ明日にでも、訪れるかもしれない)、無名の古い住宅の建物を、せめて、(東京都心部の)私の街の分だけでも(出来たら、私の街以外の物も)、まだ存在している内に、出来るだけ多く、写真の中に収めて置こうと思っています。が、しかし、面倒臭さが勝って、中々作業が、進んでいません。。。
写真以下13枚。前に、kjで、アップ(upload)した写真の再利用。鎌倉(kamakura)の、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、古い趣の有る、一戸建て住宅の例。
写真以下3枚(写真以下3枚は、同じ一戸建て住宅です)。一部西洋式を取り入れた日本伝統式の一戸建て住宅です。基本的には、日本伝統式の一戸建て住宅で有るが、一部西洋式を取り入れた一戸建て住宅の建物は、(日本の)近代化以後、第2次世界大戦前(特に、1920年代から1930年代)の日本の中流階級・中上流階級(upper-middle class)の住宅の建物として流行し、多く建てられました。




日本伝統式と西洋式、両方の要素が取り入れられた一戸建て住宅。

日本伝統式の一戸建て住宅。

西洋式の一戸建て住宅(窓の部分なんかは、時代に合わせて改装している様ですが。。。)

西洋式の一戸建て住宅。

日本伝統式の、一戸建て住宅。
写真以下3枚。西洋式と日本の伝統式、両方の要素が入った、一戸建て住宅(これ位の規模ならば、邸宅と言っても、良いかもしれません)。




日本伝統式の一戸建て住宅。

西洋式の一戸建て住宅。
写真以下。前に、kjで、アップ(upload)した写真の再利用で、鎌倉(kamakura)の、静かで落ち着いた住宅地にある(ちなみに、前述の通り、鎌倉(kamakura)は、中心部の繁華街や、自動車の通行量の多い幹線道路沿いを除けば、基本的には、静かで落ち着いた住宅地となっています)、かつての、里見 とん(satomi ton)(下の補足説明参照)の住宅です。
里見 とん(satomi
ton):1888年、横浜(神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県)の中心都市)生まれ。1983年に亡くなる。1910年代半ば頃から活躍した、日本の作家(小説家)。里見
とん(satomi
ton)は、有名な作家(小説家)ではありますが、超有名な作家(小説家)と言う程ではなく、日本人ならば、誰でもが、常識として知っているべき作家(小説家)と言う程ではありません(日本人であっても、特に日本文学に興味がない人ならば、知らない人が多いと思います)。
写真以下。鎌倉(kamakura)の、静かで落ち着いた住宅地にある、かつての、里見 とん(satomi ton)の住宅。住宅の建物は、西洋式の建物(住宅のメイン(main)の建物)と、付属の日本伝統式の建物から成り、西洋式の建物と、日本伝統式の建物は、渡り廊下で繋がっています。西洋式の建物は、1926年に完成し、日本伝統式の建物は、西洋式の建物に増築される形で、1929年に完成しました。里見 とん(satomi ton)は、この住宅の建物を建てる際に、設計の段階から、大きく関わり、この住宅の建物を、こだわりを持って(自分の好みを、大きく反映させて)建てた様です。かつての、里見 とん(satomi ton)の住宅は、10年程前まで、現在の所有者(owner)が暮らしていた様ですが、現在は、この住宅の所有者(owner)は、同じ、鎌倉(kamakura)かどうか分かりませんが、別の場所に暮らしており、現在は(2007年より)、建築士が、この住宅を借り、自分の事務所(建築設計事務所)として使用しています。この様に、かつての、里見 とん(satomi ton)の住宅は、現在は、建築設計事務所として使われていますが、建築設計事務所になってから、一週間に一度だけ、見学を受け付けています(一般に公開しています)。かつての、里見 とん(satomi ton)の住宅は、所謂、観光場所ではなく、特定の興味を持つ人(日本文学に、深い興味がある人や、私の様に、古い住宅の建物に興味がある者等)以外にとっては、あまりに地味で、つまらない場所だと思います。

かつての、里見
とん(satomi
ton)の住宅(現在は、建築設計事務所として使われている)の、西洋式の建物(住宅のメイン(main)の建物)の1階と、日本伝統式の建物の、間取り図。パンフレット(leaflet)より。。。左上(緑色で塗られている部分)は、日本伝統式の建物の間取り。日本伝統式の建物と、西洋式の建物は、渡り廊下で繋がっています。西洋式の建物(住宅のメイン(main)の建物)の1階の間取りは、以下、左上から、時計回りに、説明して行きます。間取りの上の方、左から。。。里見 とん(satomi
ton)の住宅であった時に、書生(syosei。家賃を払わずに、他人の家の一角(一隅)に住まわせて貰う代わりに、簡単な家の手伝いを行いながら、勉強に励む学生。第二次世界大戦前においては、少なからぬ富裕層の家庭が、書生(syosei)を受け入れていました)の部屋であった部屋。トイレの部屋(WCと書いてある所)。里見
とん(satomi
ton)の住宅であった時に、女中(maid)の部屋であった部屋。物置(倉庫)として使われている部屋。バスルーム(bathroom)。間取りの下の方に行き、右から。。。台所(kitchen)。里見 とん(satomi
ton)の住宅であった時に、食堂(dining
room)であった部屋(現在は、建築設計事務所の、事務室(仕事部屋)として使われています)。応接間・居間(living
room)(水色(青色)で塗られている部分)とサンルーム(sunroom)。ロビー(玄関・家の入口の空間)(ピンク色で塗られている部分)。この住宅が建てられた当時の、日本の、上流階級の家や、比較的裕福な中上流(upper-middle)層の家では、女中(maid)用の部屋や、書生(syosei)用の部屋は、来客等に、その気配を感じさせない為に、なるべく、家の、隠れた見えない場所に配置されていたのですが、この住宅は、当時の、上流階級の家や、比較的裕福な中上流(upper-middle)層の家に比べれば、小さいので、女中(maid)用の部屋や、書生(syosei)用の部屋は、応接間・居間(living
room)や、食堂(dining
room)の、すぐ近くに配置されています。ちなみに、日本伝統式の建物と、西洋式の建物(住宅のメイン(main)の建物)の応接間・居間(living room)は、現在は、建築設計事務所において、顧客等の訪問者を、迎えたり・接待する場所(部屋)、建築設計事務所の代表(所長)の建築士と、建築事務所に勤務する建築士等が会議を行う場所(部屋)、建築設計事務所の代表(所長)の建築士と、建築事務所に勤務する建築士・従業員が、寛いだり、宴会(party)を行ったりする場所(部屋)等として使われている様ですが、パーティー(party)や会合等用に、一般に貸し出されてもいる様です。
写真以下17枚。かつての、里見 とん(satomi ton)の住宅の西洋式の建物(住宅のメイン(main)の建物)。1926年に建てられた物です。

絵葉書より。。。


写真以下3枚は、絵葉書より。。。

ロビー(玄関・家の入口の空間)。



ロビー(玄関・家の入口の空間)から見た、応接間・居間(living room)。奥の扉の向こう部屋は、里見 とん(satomi ton)の住宅であった時に、食堂(dining
room)であった部屋で、現在は、建築設計事務所の、事務室(仕事部屋)として使われています(この住宅が、一般公開が行われている時も、公開はされていません。まあ、私が見学した時は、その時、案内をして下さった、この建築設計事務所に勤務されている、比較的、若い(おそらく、私と、同年齢位、又は、私より、少し若い位の)、建築士?の方の、厚意により、特別に、少しだけ見せて貰いましたが。。。)。写真では閉まっていますが、奥の扉を開けると、食堂(dining
room)(現在は、前述の通り、建築設計事務所の、事務室(仕事部屋)として使われています)、応接間・居間(living room)(及び、応接間・居間(living
room)に付属した、サンルーム(sunroom))、ロビー(玄関・家の入口の空間)が、一つに繋がって、一つの、とても大きな部屋の様になり、多くの人を招待するパーティー(party)等に対応出来る設計となっています。


応接間・居間(living room)の暖炉(fireplace)(左上)と、応接間・居間(living room)から見た、応接間・居間(living room)に付属した、サンルーム(sunroom)。

応接間・居間(living room)から見た、応接間・居間(living room)に付属した、サンルーム(sunroom)。サンルーム(sunroom)は、大きな窓で、庭の景色を見たり、日の光を浴びながら、寛ぐ部屋です。
写真以下2枚。応接間・居間(living room)から眺めた、ロビー(玄関・家の入口の空間)。



ロビー(玄関・家の入口の空間)から見た、応接間・居間(living room)に付属した、サンルーム(sunroom)。サンルーム(sunroom)は、大きな窓で、日の光を浴びながら、寛ぐ部屋です。

(里見
とん(satomi
ton)の住宅であった時に)、女中(maid)の部屋であった部屋の正面の、一階の廊下部分に、設置された、女中(maid)用の、家の主人、及び、その家族が、女中(maid)に用事がある事を知らせる装置。女中(maid)に用事がある事を知らせるボタン(button)?(基本的に、住宅の全ての部屋に設置されている)を、家の主人、又は、その家族が押すと、この装置は、音が鳴ると共に、どの部屋で、家の主人、又は、その家族が、女中(maid)を呼んでいるのか、女中(maid)に知らせます(装置の、丸い部分が、それぞれの部屋を表し、家の主人、又は、その家族が、各部屋において、女中(maid)に用事がある事を知らせるボタン(button)を押すと、音が鳴ると共に、(家の主人、又は、その家族が、ボタン(button)を押した部屋に該当する)丸い部分に、標が付きます)。この住宅が建てられた当時(1920年代から1930年代頃)の、日本の、中上流(upper-middle)階級から上流階級の家では、この様な装置が、設置されているのが、一般的であった様です。ただし、当時の、日本の、上流階級の家や、比較的裕福な中上流(upper-middle)層の家では、この様な装置は、女中(maid)用の部屋と共に、家の、隠れた場所にあったのですが、この住宅は、当時の、日本の、上流階級の家や、比較的裕福な中上流(upper-middle)層の家に比べれば小さいので、(この住宅においては)、女中(maid)用の部屋と共に、応接間・居間(living room)の、すぐ近くに配置されています(この装置は、応接間・居間(living
room)と女中(maid)用の部屋の間の廊下(1階の廊下)に、女中(maid)用の部屋は、1階の廊下を挟んで、応接間・居間(living
room)の向かいに配置されている)。

1階の廊下。
写真以下2枚。2階へと上がる階段。2階は、寝室(bedroom)となっています(2階は、この住宅が、一般公開が行われている時も、公開はされていません)。

写真右下の、階段の手摺りの柱の上の部分は、角が削られています。こうする事によって、女性や、子供に、恐怖感を感じさせない効果があるそうです

写真以下13枚。かつての、里見
とん(satomi
ton)の住宅の、日本伝統式の建物。日本伝統式の建物は、(1926年に建てられた)西洋式の建物に増築される形で、1929年に完成しました。西洋式の建物(住宅のメイン(main)の建物)と、日本伝統式の建物は、渡り廊下で繋がっています。

これは、絵葉書より。。。 里見 とん(satomi ton)は、設計段階において、(日本伝統式の建物の部屋から見える景色を考慮しながら)、日本伝統式の建物の床の高さを決めるだけに、半年も、時間をかけたそうです。

外観。前述の通り、里見 とん(satomi ton)は、設計段階において、(日本伝統式の建物の部屋から見える景色を考慮しながら)、日本伝統式の建物の床の高さを決めるだけに、半年も、時間をかけたそうです。













かつての、里見 とん(satomi ton)の住宅の、西洋式の建物の、ロビー(玄関・家の入口の空間)から眺めた、応接間・居間(living room)の一部。