kjのバグ(不具合)により、IEで、投稿の写真が見られない現象が生ずる様です。IEで、写真が見られない場合は、Firefoxで、ご覧下さい。
以下5つで、一つの投稿です。以下5つの投稿を、纏めて、ご覧下さい。
温泉旅館1(当該投稿)→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_14/view/id/2551893?&sfl=membername&stx=jlemon
温泉旅館2→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_14/view/id/2551892?&sfl=membername&stx=jlemon
温泉旅館3→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_14/view/id/2551891?&sfl=membername&stx=jlemon
温泉旅館4→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_14/view/id/2551890?&sfl=membername&stx=jlemon
温泉旅館5→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_14/view/id/2551889?&sfl=membername&stx=jlemon
かなり前の事になりますが(kjに投稿する事を前提に写真を撮って来たが投稿する機会を失っていた物)、2年弱程前(2016年の2月の下旬)に、箱根(hakone)にある、環翠楼(kansuirou)と言う、歴史の古い温泉旅館に、彼女と宿泊して来た時の物です。
箱根(hakone)(東京圏の、南西端部に位置する)は、日光(nikko)と並ぶ、東京近郊を代表するリゾート(resort)地・保養地・観光地・避暑地です(箱根(hakone)は、日本有数の温泉地となっています)。今まで、箱根(hakone)には、何度も訪れています。
箱根(hakone)に関しては、以下の投稿を、参照して下さい。
箱根(hakone)→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_1/view/id/2477616?&sfl=membername&stx=jlemon
環翠楼(kansuirou)は、箱根(hakone)を代表する、歴史のある高級温泉旅館の一つとなっています。客室数は、22部屋と、比較的、客室数の少ない温泉旅館で、建物の規模の割には、客室数が少ない温泉旅館です。
環翠楼(kansuirou)は、個人的に、いつかは、一度、宿泊してみたいと思っていた温泉旅館で、この時、初めて、宿泊しました。
この時は、ゆっくり長い時間、温泉旅館(環翠楼(kansuirou))を味わう事を目的として、箱根(hakone)を訪れました。前述の通り、今まで、箱根(hakone)には、何度も訪れている為、箱根(hakone)を訪れたからと言って、必ず、いつも、箱根(hakone)を、色々と回ると言う訳ではなく、この様な(温泉旅館等に宿泊し、温泉旅館等の滞在を、ゆっくりと楽しむ事を主目的とした)、箱根(hakone)の訪れ方をする場合もあります。
箱根(hakone)areaには、多くの、温泉保養地がありますが、環翠楼(kansuirou)は、塔之沢(tounosawa)と言う温泉保養地にあります。
写真以下3枚。環翠楼(kansuirou)の、すぐ近くにある(塔之沢(tounosawa)areaにある)、一の湯(ichinoyu)と言う、1630年創業の、温泉旅館の建物です。現在の建物は、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)から1930年代頃に整備された物で、主に、明治(meiji)時代(19世紀後期から1910年代初め)に建てられた物である様です。一の湯(ichinoyu)は、現在、若者向け・庶民向けの、チープな(安い)温泉旅館として営業を行っている様です。また、一の湯(ichinoyu)は、現在、箱根(hakone)areaに、若者向け・庶民向け・大衆向けの、チープな(安い)温泉宿泊施設のチェーン(chain)を展開している様です。一の湯(ichinoyu)は、宿泊した事がありませんが、気が向いたら、宿泊してみても良いかなと思っている温泉旅館です。
写真以下。環翠楼(kansuirou)。
環翠楼(kansuirou)は、1614年に創業した、箱根(hakone)の塔之沢(tounosawa)areaにある温泉旅館で、箱根(hakone)を代表する、歴史のある高級温泉旅館の一つとなっています(ちなみに、現代においては、箱根(hakone)には、環翠楼(kansuirou)よりも、高級な、新しい、温泉旅館・温泉リゾート(resort)ホテルは、少なくありません(かなりあります))。
環翠楼(kansuirou)は、今まで、数多くの、政治家や、有名な文化人・小説家、宮家(miyake)(天皇の親族)等が、お気に入りの温泉旅館として、よく、宿泊して来た温泉旅館です。
以下、今まで、環翠楼(kansuirou)に宿泊した、有名人の例です。
徳川
光圀(tokugawa mitsukuni):1628年生まれ。1701年に亡くなる。17世紀の、日本有数の、有力な地方領主。水戸
黄門(mito
koumon)(1954年から放映されている、日本の、大衆、歴史、テレビ、ドラマ(drama)seriesで、日本で、歴史的に、最も有名で人気が高い、大衆、テレビ、ドラマ(drama)seriesの一つ(歴史的に、50代位から高齢者の、男女に人気が高い)。おそらく、現在まで、続いている、日本の、テレビ、ドラマ(drama)seriesとしては、最古の物の一つ)の、主人公の、モデル(model)となった人物。17世紀に、中国からの使者と共に、環翠楼(kansuirou)に宿泊。
和宮
親子内親王(kazunomiya
chikako
naishinno):1846年、京都(kyoto)(794年から19世紀半ばまで、日本の首都であった都市。日本の伝統文化の中心都市)で、皇女(天皇家の娘)の一人として生まる。1862年に、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家(江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)に、江戸(edo)(現在の東京)を拠点に、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治していた家)の当主と結婚。1877年に、病気の療養の為に、環翠楼(kansuirou)に、長期、宿泊。同年(1877年)、病気により、31歳の若さで、環翠楼(kansuirou)にて亡くなる。環翠楼(kansuirou)に、宿泊中は、地域の村の子供達を、環翠楼(kansuirou)に、招いて、お菓子を振舞う等、地域住民との親交を深められたと伝えられている。
天璋院(tensyouin):1836年生まれ。1883年に亡くなる。島津(shimazu)家(下の補足説明参照)の家系の家に生まれる。1856年に、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家の当主と結婚。和宮
親子内親王(kazunomiya chikako naishinno)の義理の母。和宮 親子内親王(kazunomiya chikako
naishinno)が亡くなった、環翠楼(kansuirou)に、行きたいと希望し、1880年頃に、環翠楼(kansuirou)に宿泊。環翠楼(kansuirou)に宿泊中は、亡くなった、和宮
親子内親王(kazunomiya chikako naishinno)の事を想い、号泣したと伝えられている。
島津(shimazu)家:封建制時代(19世紀半ば以前)に、現在の、鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)地方(日本の南部)の南部に位置する県。沖縄(okinawa)県を除けば、九州(kyusyu)最南端に位置する県)に当る地域を統治していた、地方領主の家。日本有数の、富と力を有する、地方領主の家であった。近代以降は、貴族階級に組み入れられ、公爵家(貴族階級の中で、最高の階級に属する家)となり、日本の上流階級としての、地位と富を維持した。
孫文(Sun Yat-sen):1895年から、1900年代前半にかけて、日本に亡命していた際に、環翠楼(kansuirou)を、お気に入りの温泉旅館として、環翠楼(kansuirou)に、よく宿泊していた。

これは、参考に。。。写真は、借り物。大月
薰(ootsuki
kaoru)。日本の、一般人の女性。1888年生まれ。1970年に亡くなる。1898年に、横浜の中華街(chinatown)(下の補足説明参照)で、孫文(Sun
Yat-sen)と知り合う。1901年に、孫文(Sun Yat-sen)は、大月 薰(ootsuki
kaoru)の父に、求婚の申し込みに行ったが、孫文(Sun Yat-sen)と大月 薰(ootsuki kaoru)の結婚について、大月
薰(ootsuki kaoru)の父に反対される。1902年(孫文(Sun Yat-sen)が36歳、大月 薰(ootsuki
kaoru)が、14歳の時)に、孫文(Sun Yat-sen)が、大月 薰(ootsuki
kaoru)に直接、プロポーズ(求婚)して、二人は、(大月 薰(ootsuki kaoru)の父の反対を押し切り)、結婚。1906年(大月
薰(ootsuki kaoru)が18歳の時)に二人の間に、子供(女の子)が生まれるが、子供が生まれた時、孫文(Sun
Yat-sen)は、既に、日本を離れており、二人は離婚。孫文(Sun Yat-sen)と大月 薰(ootsuki
kaoru)の間の娘は、横浜市内の、日本の別の家族に、養子(adopted child)に出される。その後、大月 薰(ootsuki
kaoru)は、2度、結婚をし、1970年に、82歳で亡くなる。
横浜の中華街(chinatown):横浜(yokohma)(東京圏で、東京中心部(東京23区)に次いで、2番目の、人口を有する都市)にある、600以上の店舗を有する、世界最大級の、中華街(chinatown)。
伊藤 博文(itou hirobumi)は、環翠楼(kansuirou)を、お気に入りの温泉旅館として、環翠楼(kansuirou)に、よく宿泊していました。
以下、伊藤 博文(itou hirobumi)、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)、柳原 白蓮(yanagihara byakuren)に関しては、wiki等を参考にしました。

写真は、借り物。伊藤
博文(itou
hirobumi)。1841年生まれ。1909年に亡くなる。日本の、有名な、政治家。貴族(公爵)(山口(yamaguchi)県(日本の西部に位置する県)の、侍(samurai)系の貴族)。以下、伊藤
博文(itou hiribumi)に関する説明は、wiki等を、参考にしました。伊藤 博文(itou
hirobumi)は、韓国の方は、ご存じの通り、歴史的な経緯等から、韓国では、悪名が高い人物です(悪い意味で、有名な人物です)。以下、おそらく、韓国では、あまり知られていない、日本国内における、伊藤 博文(itou
hirobumi)について、少し、紹介したいと思います。伊藤 博文(itou
hirobumi)は、私生活においては、非常に、女好き(女が、好き)として有名で、非常に、たくさんの愛人(妻以外に、交際している女性)がいた様です(愛人(妻以外に、交際している女性)は、数え切れない程いた様です)。40度の熱が出て、うなされていた時(意識が薄らいでいた時)も、両側に、二人の、芸者(geisha)を、付き添わせていた様です。伊藤
博文(itou
hirobumi)は、女性の、教育に、とても熱心で、「女子教育奨励会創立委員会」を創設し、日本の、女性の教育の、推進に、熱心に取り組みました。東京女学館(1888年に開校。東京にある、私立の、女子小学校・女子中学校・女子高校(生徒が、女性だけの、小学校・中学校・高校)・女子大学(生徒が、女性だけの大学)。学生数の、減少により、大学は、2016年に閉鎖)を、自ら、創立すると共に、他の、日本の、私立の、女子大学(生徒が、女性だけの大学)を、創立しようとする人々も、熱心に支援しました。伊藤 博文(itou
hirobumi)は、最高位の、貴族(公爵)で、とても、お金持ちでしたが(おそらく。。。)、衣食住(着る物(衣服)と、食べる物(食事)と、住まい(住居・家))には、頓着しない性格であった(質素・粗末であっても、全く、構わない性格であった)様です。伊藤 博文(itou
hirobumi)と親しく交流していた、貴族・政治家は、伊藤 博文(itou
hirobumi)の家に、食事に招かれても、質素・粗末な食事ばかりで、当惑・苦労した様です。また、物にも執着せず、他人から、非常に高価な、希少な(珍しい)品物を、貰っても、惜しげもなく、他人に譲ってしまうような性格であった様です。

写真は、借り物。柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)。1850年生まれ。1894年に亡くなる。日本の貴族(侯爵)。大正(taisho)天皇(日本の、第123代の天皇。1879年生まれ。1926年に亡くなる)の、伯父。伊藤 博文(itou hirobumi)と、愛人(妻以外に交際する女性)として、当時、16歳であった、芸者(geisha)を奪い合い、結局、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)が勝ち、その、芸者(geisha)と交際する事になった。

写真は、借り物。柳原 白蓮(yanagihara byakuren)。1885年生まれ。1967年に亡くなる。東洋英和(toyoeiwa)女学院(1884年創立の、日本の、私立の、女子小学校・女子中学校・女子高校(生徒が、女性だけの、小学校・中学校・高校)・女子大学(生徒が、女性だけの大学))を、卒業。日本の、女性、歌人(日本の、伝統的な詩(poetry)の、詩人)。前述の通り、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)と、伊藤 博文(itou hirobumi)は、愛人(妻以外に交際する女性)として、当時、16歳であった、芸者(geisha)を奪い合い、結局、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)が勝ち、その、芸者(geisha)と交際する事になったのですが、その芸者(geisha)と、柳原 前光(yanagiwara sakimitsu)の間に生まれた娘が、柳原 白蓮(yanagihara byakuren)です。
伊藤
博文(itou hirobumi)の、女好き(女性が好きな事)は、当時から非常に有名であり、伊藤 博文(itou
hirobumi)は、女性と、よく遊ぶことから「箒(ほうき)」(女が掃いて捨てる程いたため)と言う、あだ名がつけられました。伊藤 博文(itou
hirobumi)は、地方に行った際には、それぞれの地方の、一流の芸者(geisha)ではなく、二流・三流の、芸者(geisha)を、よく指名していたと言われます。これは、伊藤
博文(itou
hirobumi)の、「その土地々々(それぞれの土地・それぞれの地方・地域)の一流の芸者(geisha)は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者(geisha)を指名する必要がある」と言う論理による物です。
芸者(geisha)に関しては、以下の投稿を、参照して下さい。
芸者(geisha)と遊女(yuujyo)(日本語)→
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_8/view/id/2523686/page/2?&sfl=membername&stx=jlemon
芸者(geisha)と遊女(yuujyo)(韓国語)→
http://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_8/view/id/2523686/page/2?&sfl=membername&stx=jlemon
環翠楼(kansuirou)には、第二次世界大戦前(1900年代から1930年代頃)には、東郷 平八郎(togo heihachiro)等、日本の海軍(下の補足説明参照)の幹部が、多く、宿泊していました。
日本の海軍:日本は、日露戦争(1904年から1905年にかけて、日本とロシア(Russia)の間で行われた戦争。日本の実質的な勝利に終わる)後から、第二次世界大戦まで、世界有数の海軍力を持つ国でした。日本は、第二次世界大戦前において、海軍は(日本海軍は)、アメリカ海軍、イギリス海軍と共に、世界三大海軍と言われる程の、規模と力を有していました。
写真以下2枚(写真は、借り物)。東郷
平八郎(togo
heihachiro)。日露戦争(1904年から1905年にかけて行われた、日本と、ロシア(Russia)との間の戦争)において、日本海軍の連合艦隊を率いて、(当時、世界最強の艦隊の一つと言われた)ロシア(Russia)のバルチック艦隊(Baltic
Fleet)と戦い、勝利を収めた、日本の軍人(海軍大将)。この戦いの勝利は、この戦争の、日本の、実質的な勝利を決定づける、重要な要因の一つとなった。

1907年頃の写真。

環翠楼(kansuirou)には、夏目 漱石(natsume souseki)(1867年生まれ、1916年に亡くなる。日本の有名な小説家)、島崎 藤村(shimazaki touson)(1872年生まれ。1943年に亡くなる。日本の有名な、詩人・作家)等、日本の、歴史的に、有名な、小説家・作家も、宿泊しています。
環翠楼(kansuirou)に飾ってある、伊藤 博文(itou hirobumi)が、墨で描いた、「環翠楼(kansuirou)」の文字。
写真以下2枚。環翠楼(kansuirou)の館内には、環翠楼(kansuirou)を、お気に入りの温泉旅館として、よく宿泊していた、又は、環翠楼(kansuirou)に宿泊した、様々な、日本の、歴史的に有名な政治家・文化人等の、墨で描いた字等が、飾られています。
館内に飾られている、大砲
万右エ門(oozutsu manemon)(下の補足説明参照)の、手形。大砲 万右エ門(oozutsu
manemon)は、環翠楼(kansuirou)を、お気に入りの温泉旅館として、環翠楼(kansuirou)に、よく宿泊していました。
大砲 万右エ門(oozutsu manemon):1869年生まれ。1918年に亡くなる。1890年代から1900年代にかけて活躍していた、日本の、大柄の、相撲(sumo)(下の補足説明参照)の力士(選手)。身長197cm。体重 134kg
相撲(sumo):古代からの歴史を有する、神道に基づく、日本の儀式・格闘競技。ちなみに、現代に繋がる、組織化された、プロの相撲(professional sumo)の歴史は、17世紀まで、遡ります。
写真以下2枚。環翠楼(kansuirou)の建物の外観。現在の環翠楼(kansuirou)の建物は、基本的に、1884年に建てられた建物で、1919年に、増築された物です。
旅館の、パンフレット(leaflet)より。。。
旅館に飾られている写真より。。。写真の説明は、現在の建物と言った内容の説明ですが、写真自体は、おそらく、1930年代以前に撮影された、古い物です。
環翠楼(kansuirou)の古い写真。館内に展示されている物。
写真以下13枚。環翠楼(kansuirou)の建物の外観。
写真以下2枚。箱根(hakone)の、塔之沢(tounosawa)areaは、湯量の豊富な温泉保養地です。川も、温泉の成分で?、濁った感じ。。。
写真以下。環翠楼(kansuirou)の建物の内装例。前述の通り、現在の環翠楼(kansuirou)の建物は、基本的に、1884年に建てられた建物で、1919年に、増築された物です。
写真以下2枚は、旅館の、パンフレット(leaflet)より。。。
温泉旅館2へ続く。。。