参考に、1920年代から1930年代の(今から97年前から78年前程の)、日本の都市文化について、この投稿を、参照して下さい(投稿が重たいので、投稿文が出て来るまで、しばらく、時間がかかる場合もあるかもしれません)→
http://www.kjclub.com/kr/exchange/photo/read.php?uid=9329&fid=9329&thread=1000000&idx=1&page=1&tname=exc_board_14&number=6&f=a.name&word=jlemon
写真は、借り物(写真の作者:Sailko)。Hollywood Walk of Fameにある、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の、star。
所々に、説明が、間違っている部分がありますが、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)について紹介する動画(you tubeから借りて来た物)。ちなみに、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、ハンサムでしたが、身長は、低かったです(小柄でした)。
以下、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)に関しては、wiki等を参考にしました。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、今から、約100年前の、1910年代から1920年代の、silent filmの時代に、Hollywood映画(アメリカ映画)の、最も、人気が高いスター(star)の、一人として活躍していた、日本の、俳優です(当時、アメリカで、最も、収入が高かった俳優の一人でした)。今から、およそ100年前の当時、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、ハンサムな外貌で、当時の、白人系の、若い、アメリカ人の女性達に、熱狂的な、人気がありました。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、世界的に見ても(白人系の俳優を含めて)、Hollywood映画(アメリカ映画)で、最初の、男性sex symbolとなった俳優の一人と言われています。ちなみに、個人的には、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、非常に、ハンサムと言う程の外貌ではないと思いますw
写真以下2枚(写真は、借り物)。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)と、Rudolph Valentino。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、Hollywood映画(アメリカ映画)の、exoticな、男性sex symbolとして、多くの面において、Rudolph Valentinoの、precursor(先輩・先駆者・先任者)と呼ばれています。

早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)。写真は、おそらく、1910年代中期頃から1910年代後期頃。1910年代中期から1920年代初め当時、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)が主演する、Hollywood映画(アメリカ映画)は、白人系の、若い、アメリカ人の女性に、非常に人気が高く、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)が主演する、Hollywood映画(アメリカ映画)を、映画館に見に訪れる、白人系の、アメリカ人の女性の、ほとんどが、映画の中から、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)に見つめられたら、化粧をしない訳にはいかないと言う理由で、入念に、化粧をして、映画館に、映画を見に行きました。

Rudolph Valentino(1895年生まれ。1926年に亡くなる)。写真は、1919年頃。1920年代に、ハンサムさと、exoticな、美貌・sexyさにより、Hollywood映画(アメリカ映画)の、男性sex symbolとして、活躍していた、イタリア出身の(父親が、イタリア人、母親がフランス人)の、イタリア系アメリカ人の、アメリカの俳優です(ちなみに、ヨーロッパでは、伝統的に、同じ、白人系でも、アングロ・サクソン(Anglo-Saxon)系・ゲルマン系(
Germanic)の、白人の女性達にとって、比較的、黒髪で、褐色の肌の男性が多い、イタリアやスペイン等の、南ヨーロッパの、ラテン(Latin)系の男性は、exoticで、魅力的とされている様です)。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の場合と同様、男性sex symbolとして、白人系の、若い、アメリカ人の女性に、非常に高い人気を得ました。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の場合と同様に、Rudolph Valentinoが主演する、Hollywood映画(アメリカ映画)を映画館に見に訪れる、白人系の、アメリカ人の女性の、ほとんどが、映画の中から、Rudolph Valentinoに見つめられると言う理由で、化粧をして、映画館に、映画を見に行きました。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)(早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、芸名(stage name)。本名は、早川 金太郎(hayakawa kintarou))は、1886年に、千葉(chiba)県(下の補足説明参照)の南端部の、裕福な、漁師(fisherman)の家の、6人兄弟姉妹の末っ子(一番、最後の子供)として生まれました。
千葉(chiba)県:千葉(chiba)県は、東京圏の東部を占める県です。千葉(chiba)県は、北部及び中部の西側(東京中心部側)は、主として、東京都心部に通勤する人々が多く暮らす、東京の東部郊外・近郊の、住宅地となっ ていますが、その一方で、近郊農業(都市に新鮮な農畜産物を供給する事を目的とした、大都市の周辺で行われる農業。説明は、wikiを参考にしました)が盛んな県でもあり、出荷金額(農業産出額)で見れば、日本有数の農業県でもあります。千葉(chiba)県の海岸部は、西海岸(東京湾側)は、工業地帯等、南海岸と東海岸(太平洋側)は、主として、東京圏に暮らす人々が、週末や休日に多く保養に訪れる、海沿いの保養地となっており(九十九里浜 (kujyukurihama)(全長約66kmに渡るビーチ(beach)。日本有数の海水浴場地帯。サーフィン(surfing)場所としても有名 で、人気が高い)等が、有名)、漁業も、盛んとなっています。また、千葉(chiba)県は、東京圏に暮らす、多くの人々が、週末に、ゴルフ(golf) を楽しむ場所となっており、千葉(chiba)県には、非常に多くの、ゴルフ場(golf course)があります。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、少年の頃から、日本の海軍の軍人を目指しており、1904年に海軍兵学校(Imperial Japanese Naval Academy)(下の補足説明参照)を受験しましたが、失敗しました。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、故郷の、千葉(chiba)県の実家に戻りましたが、失意のあまり、精神に不調を来たし、自殺をしようとする等した為、困った、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の父親は、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)を、近くの、仏教の寺に預けました。
海軍兵学校(Imperial Japanese Naval Academy):1876年から1945年にかけて、日本の海軍が運営していた、日本の海軍の、将校を養成する為の学校(前身の学校は、1869年に設立)。広島(hiroshima)県(日本の西部に位置する県の一つ)の、江田島(etajima)と言う場所にあった。第二次世界大戦以前において、規模においては、イギリスの、王立海軍兵学校(Britannia Royal Naval College)、アメリカの、合衆国海軍兵学校(United States Naval Academy)と共に、世界、三大、海軍、士官学校の一つとも言われ、全78期から、総計1万2,433名の卒業生を出している(wikiより。。。)。
生きる道を見失っていた、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)ですが、その後、1907年に、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、新たな生きる目標と希望を探しに、アメリカに渡りました。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)のアメリカでの暮らしは、決して、裕福ではなく、当時、アメリカに出稼ぎに来ていた、又は、移民していた、他の日本人(又は、日本系アメリカ人)と同様に、賃金の低い、単純労働に従事し、様々な職種で、働きながら、先の見えない、苦しい日々を過ごしていました(当初は、Seattleで暮らしていましたが、後に、Los Angelesに移りました)。
その様な中、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、地元の、Los Angelesに暮らす、アメリカに出稼ぎに来ていた、又は、移民していた、日本人(又は、日本系アメリカ人)の、演劇が好きな人々と共に、劇団を発足し、その劇団の中心人物の一人として、主役を演じるようになりました。
その、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の劇団の公演を、Thomas Harper Ince(1880年生まれ。1924年に亡くなる。アメリカの有名な、映画監督・映画producer)が観た事が、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の、Hollywood映画(アメリカ映画)の、デビュー(debut)に繋がりました。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1914年に、青木 鶴子(aoki tsuruko)(下の補足説明参照)と結婚しました。
青木 鶴子(aoki tsuruko):1889年、福岡(fukuoka)県(九州(kyusyu)(日本の南部に位置する県の一つ)生まれ。1961年に亡くなる。Hollywood映画の(アメリカ映画の)の創世記の、silent filmの時代に、Hollywood映画(アメリカ映画)で活躍した、日本の、女優。以下、青木 鶴子(aoki tsuruko)に関する説明は、wiki等を参考にしました。1910年代に出演した、約40本の、Hollywood映画(アメリカ映画)では、何れも、主役級であり、アジア人としては最初の、Hollywood映画(アメリカ映画)スター(star)女優であった。1918年に、夫の、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)と共に、ハリウッド(Hollywood)で、映画会社を設立し、しばしば、二人で共演した。二人は、ハリウッド(Hollywood)の、目立つ、豪邸(大きな邸宅)に暮らし、二人の優雅な生活は、現地の、アメリカの映画雑誌等で、よく報じられた。

「The Dragon Painter」と言う、1919年の、Hollywood映画(アメリカ映画)で共演する、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)(左)と、青木 鶴子(aoki tsuruko)(右)。
1914年頃から、(早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)が、妻の、青木 鶴子(aoki tsuruko)と共演した映画を含む)、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)が主演のHollywood映画(アメリカ映画)が、hitし始め、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の人気が上昇して行きました。1915年に主演した、「The Cheat」と言う、Hollywood映画(アメリカ映画)では、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、日本人美術商人の役を演じ、アメリカの、白人系の女優、Fannie Wardが演じる、アメリカ人の、白人系の女性を、白人系のアメリカ人に貸した、借金のかたにとり、自らの所有物である証として、その肌に焼きごてを押し付け(brandingを行い)、最後には、白人系のアメリカ人の制裁を受ける役柄を演じましたが、この映画により、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、ハンサムさと、exoticな、怪しい魅力と、美貌・sexyさにより、当時の、白人系の、アメリカ人の、若い女性達に、熱狂的な、人気を得て、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、アジア人で、最初の、Hollywood映画の(アメリカ映画の)、スター(star)となりました。詳しい事は分かりませんが、当時、妖艶な、怪しい魅力で、白人系の、アメリカ人の、若い女性達を惹きつけていた、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の魅力は、もしかしたら、現代の日本の、Visual系の、rockにも、通じる物があるかもしれません。
現代の日本の、Visual系の、rockに関しては、この投稿を参照して下さい(投稿が重たいので、投稿文が出て来るまで、しばらく、時間がかかる場合もあるかもしれません)→
http://www.kjclub.com/kr/exchange/exchange/read.php?uid=41871&fid=41871&thread=1000000&idx=1&page=1&tname=exc_board_26&number=157&f=a.name&word=jlemon
写真以下3枚(写真は、借り物)。「The Cheat」(1915年の、アメリカの映画)で、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)と共演した、Fannie Ward(1872年生まれ。1952年に亡くなる)。1890年代から、舞台女優として活躍し、1910年代中期から1920年代にかけて、映画女優として活躍した、アメリカの、白人系の女優です。Fannie Wardが、映画女優として活躍するきっかけとなったのが、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)と共演した映画、「The Cheat」(1915年の、アメリカ映画)です。Fannie Wardは、年齢を超越した、少女的な、外貌を特徴とした女優であり、その事により、人気を得ていた女優であった様です。
写真は、1884年から1890年頃。

写真は、1907年頃。

写真は、1917年頃。
「The Cheat」(1915年の、アメリカの映画)で、白人系の、アメリカ人の、若い女性達に、熱狂的な、人気を得た、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、以後、多くの、Hollywood映画(アメリカ映画)に主演し、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1910年代から1920年代の、silent filmの時代に、Hollywood映画(アメリカ映画)の、最も、人気が高いスター(star)の、一人として活躍しました。前述の通り、ハンサムな外貌で、当時の、白人系の、若い、アメリカ人の女性達に、熱狂的な、人気があった、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、世界的に見ても(白人系の俳優を含めて)、Hollywood映画(アメリカ映画)で、最初の、男性sex symbolとなった俳優の一人と言われています。

写真は、借り物。Marin Sais。写真は、1915年頃から1918年頃。1910年代の中期から1920年代の初め頃にかけて活躍していた、アメリカの、白人系の、女優で、1918年から1919年にかけて、Hollywood映画(アメリカ映画)において、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の相手役として、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)と、よく共演していた女優です。
創世記の、Hollywood映画(アメリカ映画)の、スター(star)として、当時、アメリカで、「悲劇(tragedy)の、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)、喜劇(comedy)の、Charlie Chaplin、西部劇(Western)の、William S. Hart」と並び称させる程の人気となった、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、金メッキが施された(gold plated)Pierce-Arrowに乗り、ハリウッド(Hollywood)のFranklin Avenueに、4階建て、32室、partyで600人を収容出来る広間(大きな部屋)を備えた、城(castle)のような、邸宅を構え(この邸宅は、1956年に、取り壊されるまで、地域の、landmarkとなっていた様です)、その、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の邸宅には、Charlie Chaplinや、Rudolph Valentino等の、当時の、他の、Hollywood映画(アメリカ映画)の、大スター(big star)が、気軽に立ち寄っていました(当時、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の、ハリウッド(Hollywood)の邸宅で、よく開催されていたpartyは、当時、ハリウッド(Hollywood)で、有数の、派手な、partyでした)。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1918年に、ハリウッド(Hollywood)で、自分の映画会社を設立し、企画から出演までを行い、4年間で、22の作品を制作し、成功を収めました。
しかしながら、当時の、アメリカにおいては、人種差別が、公然と行われていた事に加えて、当時、 Californiaを中心に、黄禍論(Yellow Peril。人種差別的・偏見的な、propagandaを含む、黄色人種、脅威論)が広がっていた、アメリカにおいて、有色人種である、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の成功が、面白くない、白人系のアメリカ人も、少なからずいました。
ちなみに、第一次世界大戦に、連合国として参戦し、戦勝国となり、1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議(Paris Peace Conference)に参加した日本は、人種的差別撤廃提案(人種あるいは国籍によって、法律上、事実上、いかなる差別も、してはいけないと言った内容)を行っています(この時、日本が、提案した、人種的差別撤廃提案(国際会議において、人種差別撤廃を明確に主張した国は、日本が、世界で最初。理想主義的な一面もあったと思いますが、主目的は、海外移民も含めた、日本人の利益の為だったと思われます。なお、西洋列強の圧力に苦しんでいたアイルランド人、Liberia人等は、この提案に感謝し、支持した様です)は、人種差別主義的な、イギリスやオーストラリア等が反対する中、出席者16名中11名の賛成多数(賛成は、日本、フランス、イタリア、それぞれ2票ずつ。ブラジル、ギリシャ、Serbia、Czechoslovakia、中華民国、それぞれ、1票ずつの、合計11票)を得たが、議長を務めたアメリカは突如として全会一致を主張、多数決を無視して、本提案を退けました)。ちなみに、日本は、第一次世界大戦(1914年から1918年)が終る頃には、名実供に、工業国且つ世界の大国(列強)の一つとなりましたが(日本は、第一次世界大戦後は、戦勝国且つ資本主義工業国且つ大国として、イギリス、フランス、イタリアと供に、国際連盟(League of nations)の発足時の常任理事国となりました)、その一方で、日本と、(日本よりも遥かに前から、強力に工業化やインフラ(infrastructure)整備を推し進めていた)イギリス、ドイツ、アメリカ等との差は、ずっと大きく、また、日本は、途中、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被った事等もあって、(日本は)、1960年代初め頃まで(特に1950年代頃まで)は、南欧諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル(Portugal)、ギリシア(Greece))等と供に、資本主義工業国(若しくは、資本主義的な工業国。第二次世界大戦後は、西側先進工業国)の中では、最も貧しく後進的なグループ(group)に属していました。
1920年頃から目立つようになった、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)を貶めるような、現地の、マスコミの報道等に、嫌気がさした(うんざりした)、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1922年に、自分の映画会社を整理して(終わらせ)、ハリウッド(Hollywood)を去りました。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1922年には、自分が主役を演じた、Broadwayの劇、「Tiger Lily」を成功させました。
その後、1923年に、フランスの映画、「La Bataille 」(1924年)に、出演する為に、フランスに渡り、パリ(Paris)に入った際には、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)と、青木 鶴子(aoki tsuruko)の、夫妻は、現地の、群衆に、熱狂的に迎え入れられました。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)が、主演した、日露戦争(1904年から1905年にかけて、日本とロシア(Russia)の間で行われた戦争。日本の実質的な勝利に終わる)を舞台とした、1924年の、フランス映画、「La Bataille 」は、フランスが、最も初期の頃に、国際市場を意図して国家的に作った映画であり、フランスの海軍の協力により、本物の、軍艦まで、撮影に使用した映画で、現地のフランスを中心とした、ヨーロッパで、大hitしました(とても、大きな興行収入を得ました)。
また、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1923年に、イギリスにおいて、自ら主役を演じた、劇の公演で、大きな成功を収めています。
これ等の、ヨーロッパでの成功を機会として、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1923年に、活動の拠点を、ハリウッド(Hollywood)から、ヨーロッパとの行き来に便利な、ニューヨークに移しました。
1924年に、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)と、青木 鶴子(aoki tsuruko)の、夫妻は、ヨーロッパに渡り、フランスやイギリスで映画を撮影しましたが、元々、賭け事(gambling)が好きであった、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、Monacoの、カジノ(casino)で、非常に、大きな勝負に出たが、負けて、巨額の金を失いました(この時、カジノ(casino)で、大敗した(大きく負けた)、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)が、投身自殺をしたと言う、マスコミの誤報まで流れました)。
その後(1925年に)、アメリカに戻った、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、以前程の人気はなかったものの、ニューヨークを拠点に、舞台(劇)の分野を中心に活躍していましたが、1929年に、当時、愛人関係にあった、アメリカで活動していた、イギリス出身の、白人系の、若手、女優に、自分との間の、子供を産ませた事が、現地の、アメリカのマスコミに、スキャンダラス(scandalous)に報道されると、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の、アメリカでの、人気は、急落しました。
1930年に、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、日本での活動の可能性を探る為に、帰国し、1930年から1933年にかけて、日本国内において、舞台(劇)の分野で、成功を収めました。また、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1932年には、「太陽は東より」(1932年の、日本の映画)で、初めて、日本の映画に出演し、その後、しばらく、日本の映画界で活躍していました。
早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1937年に、フランスに渡り、主演した、2つの、フランス映画が、現地の、フランスで、続けて、大hitし(とても、大きな興行収入を得て)、フランスでの、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の、人気の健在ぶりを印象付けました。
その後、第二次世界大戦中、1940年に、(当時、日本と友好国であった)ドイツが、フランス全土を占領した後も、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、パリ(Paris)に住み続けました。1944年に、連合国軍により、パリ(Paris)が解放されましたが、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、ドイツが、フランスを占領中、ドイツへの協力が積極的でなかった事から、自由フランス(Free France)や連合国軍による、逮捕や追放を逃れました。パリ(Paris)解放後は、(同じく、ドイツが、フランスを占領中、ドイツへの協力が積極的でなかった事から、自由フランス(Free France)や連合国軍による、逮捕や追放を逃れた、パリ(Paris)在住の、日本人の資産家等と共に)、パリ(Paris)在住の、日本人の保護を行いました。
1945年に、日本が第二次世界大戦に敗れた後も、パリ(Paris)に暮らし、映画に出演したり、絵を描いたりしながら、細々と生活していた、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)ですが、若い頃から憧れた、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)に、自分の主演映画、「Tokyo Joe」(1949年の、アメリカ映画)に出演して欲しいと願っていた、Humphrey Bogartの依頼を受けて、アメリカに戻りました。ハリウッド(Hollywood)は、久しぶりに、アメリカに戻って来た、かつての、大スター(big star)、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)を、熱狂的に、迎えました。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、(もちろん、既に、スター(star)でも、主役俳優でもなくなっていましたが)、「Tokyo Joe」(1949年の、アメリカ映画)、Three Came Home(1950年の、アメリカ映画)に出演する等して、アメリカで活躍した後、日本に帰国し、1950年代初めから1950年代終わりにかけて、日本国内において、映画や、当時、日本で、普及し始めたテレビにおいて、堅実に活躍をしました。
1957年には、出演した、アメリカ・イギリス合作の映画、「The Bridge on the River Kwai」が、アカデミー賞(Academy Awards)で、作品賞を含む、多くの賞を受賞すると共に、世界的に、大hitしました(とても、大きな興行収入を得ました)。
その後、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、日本とアメリカを往復しながら、1960年代初めまで、多くの、映画やテレビの作品に出演しましたが、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の、多くの愛人に関係する問題等にる(早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、女好きであった(女が好きであった))、長年に渡る苦労が、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)の妻、青木 鶴子(aoki tsuruko)の体を蝕んでおり、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、1961年に、妻の、青木 鶴子(aoki tsuruko)を亡くしました(青木 鶴子(aoki tsuruko)は、1961年に、71歳で亡くなりました)。
妻の、青木 鶴子(aoki tsuruko)を失った、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)は、大きな喪失感に襲われますが、何とか、俳優を続け(以前よりも、仕事の量を、大幅に減らしながらも、俳優を続け)、1964年、78歳?の時に、38歳年下の(当時40歳?の)、日本の、(芸能人・有名人等ではない)、一般人の女性(たぶん。。。間違っていたら、済みません)と、再婚(結婚し)、(以前よりも、仕事の量を、大幅に減らしながらも)、日本国内において、映画に出演する等して、80歳を過ぎても、俳優としての仕事を続けていましたが、1968年に俳優を引退し、1973年、87歳の時に、病気により亡くなりました。
写真以下6枚(写真は、借り物)。早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)。
写真以下4枚は、おそらく、1910年代中期頃から1910年代後期頃。





おそらく、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)が主演した、Hollywood映画(アメリカ映画)、「Daughter of the dragon」(1931年)より。。。おそらく、共演しているのは(写真の女性は)、Anna May Wong。以下、Anna May Wongについての説明は、wikiを参考にしました。Anna May Wong(1905年、Los Angeles生まれ。1961年に亡くなる)は、1920年代から1930年代の初めに、Hollywood映画(アメリカ映画)で活躍していた、中国系アメリカ人の、女優です。Anna May Wongは、最初の、中国系アメリカ人の、映画starであると共に、最初に、国際的な知名度を得た、アジア系の、アメリカ人の女優とされています。1920年代後期から1930年代前半にかけては、アメリカで、舞台(劇)の分野でも、活躍し、また、(1920年代後期から1930年代前半にかけては)、ヨーロッパで、舞台(劇)・映画・社交界で活躍しました。

早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)が主演した、おそらく、1942年の、フランス映画より。。。
以下、おまけ。。。
以下、おまけで、前に、「映画俳優/タレント」掲示板で紹介した事がある、原 節子(hara setsuko)について紹介します。
原 節子(hara setsuko)の出世作品となったのは、1937年の、日本とドイツの合作の映画、「新しき土」と言う映画ですが、この映画で、原 節子(hara setsuko)が演じた、ヒロイン(女、主人公)の父親の役を演じたのが、早川 雪洲(hayakawa sesyuu/Sessue Hayakawa)です。
原 節子(hara setsuko)(1920年生まれ)は、1930年代中期から1960年代初め頃にかけて活躍していた、日本の女優です(原 節子(hara setsuko)は、特に、1940年代後期から1950年代にかけて、日本を、代表する女優の一人として活躍し、日本映画の、黄金期を代表する女優の一人となっています)。原 節子(hara setsuko)は、(それ以降、年老いて行く姿を、見せたくなかったのか)、理由は、よく分かりませが、1963年(40代の前半で)、女優を引退し、それ以降、表舞台(芸能界)からは、完全に姿を消しました。ちなみに、小津 安二郎(ozu yasujiro)(後で説明します)が亡くなったのは、1963年ですが、小津 安二郎(ozu yasujiro)の死と、原 節子(hara setsuko)の引退は、何等かの関係があるのか、無いのかは、謎となっています。原 節子(hara setsuko)は、引退以降、一昨年(2015年に)、95歳で亡くなるまでの、多くの時期を、鎌倉(kamakura)(下の補足説明参照)の、静かで、落ち着いた住宅地にある家で、ひっそりと暮らしていた様です(ちなみに、原 節子(hara setsuko)は、維持費もかかるし、もう不要と考えたのか、1994年に、狛江(komae)市(東京都心部に近い、東京の西部郊外)の、かつての、主な自宅(主な自分の家)(敷地面積、約2,900平方m(約900坪))を、売却しています。もう一つ、ちなみに、原 節子(hara setsuko)は、生涯、独身でした)。
鎌倉(kamakura):鎌倉(kamakura)(東京の南部近郊に位置する)は、中世(1185年から1333年まで)に、日本の政治の中心地であった中都市であり、中世以来の歴史を有する、寺や神社(shrine)が、数多くあります(ただし、鎌倉(kamakura)の寺や神社(shrine)の、現在の建物については、(極一部の例外を除き)中世よりも後の時代に、火事等の焼失により、再建された物であったり、時代に合わせて、建て替えられている物です)。その為、鎌倉(kamakura)は、東京近郊の主要な観光地の一つとなっています。鎌倉(kamakura)は、(中世には、日本の政治の中心地でしたが)、15世紀半ば以降、衰退し、一時期、基本的に衰退した状態に有りましたが、19世紀頃から、徐々に観光地として発展し始め、また、19世紀後期以降、東京に近い、近代別荘地・保養地として発展し、再興しました(wikiを参考にしました)。鎌倉(kamakura)は、19世紀後期以降、作家や詩人等、多くの文学者が、好んで、居住し、若しくは、別荘を構えて来ました。また、鎌倉(kamakura)は、1920年代、1930年代頃から、横浜や東京に通勤する、大学教授や高学歴(大学卒)会社員等の、インテリ(知識人)中流層・中上流層が暮らす、郊外住宅地として発展して行きました。鎌倉(kamakura)は、現在も、小説家や、画家、文系の大学教授等、文化人達に好まれ、鎌倉(kamakura)及び、その周辺には、こうした人々が、多く暮らしているイメージが有ります。
私は、原 節子(hara setsuko)は、特に、ファン(fan)と言う訳でもなんでもないのですが(べつに、ファン(fan)と言う訳ではないのですが)、私は、個人的に、小津 安二郎(ozu yasujiro)(下の補足説明参照)の映画が好きで、原 節子(hara setsuko)は、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画に、比較的、多く出演している事から、原 節子(hara setsuko)は、映像を通じてw、比較的、馴染みのある女優です。
小津 安二郎(ozu yasujiro):1903年生まれ。1963年に亡くなる。1920年代後半から、1960年代初めに活躍。日本の世界的に有名な映画監督の一人。

小津 安二郎(ozu yasujiro)(日本の世界的に有名な映画監督の一人)。1933年。写真は、借り物。原 節子(hara setsuko)は、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画に、比較的、多く出演しています。
写真以下7枚。原 節子(hara setsuko)。写真は、借り物。原 節子(hara setsuko)は、とても美人ですが、(10代の頃は除いて)、女優としては、顔は、大きいと思いますw(一般的に、舞台(演劇)、俳優・女優は、顔が大きい方が良いと考えられていると思いますが、映画・TVドラマ、俳優・女優は、顔が小さい方が良いと考えられていると思います。ちなみに、原 節子(hara setsuko)は、(主に)映画女優です)。原 節子(hara setsuko)は、身長は、165cmであった様ですが、現在の、身長165cmの、日本の女優は、もっと、顔が小さいと思います。
写真以下2枚は、1935年頃。原 節子(hara setsuko)は、当時、14歳から15歳位。






