以下、基本的に前に行った投稿から抜粋して来た物です。
横浜を散歩して来た時の物です。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町です。この日は、横浜の、関内(kannai)areaにある日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。
この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。
以下、以下の投稿の続きです。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3524268?&sfl=membername&stx=nnemon2
後述する、橿原丸(kashiharamaru)に関しては、前回の投稿(すぐ上でリンクを付けた投稿)も参照して下さい。
日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、日本と北米を結ぶ航路、日本とヨーロッパを結ぶ航路において、競合他社に対して、優位に立つべく(特に、日本と北米を結ぶ航路においては、完全に優位に立つべく。。。日本とヨーロッパを結ぶ航路には、ドイツの会社等、とても強力な競争相手があった為、仮に、第二次世界大戦が勃発していなくて、新型の豪華客船を投入したとしても、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、優位に立つ事は、出来たとしても、絶対的な優位に立つ事は、出来なかったと思います)、日本と北米を結ぶ航路、日本とヨーロッパを結ぶ航路に、次々と、新しい豪華客船を加える事を計画し、1930年代半ば以降、次々と起工させましたが、第2次世界大戦により、これ等、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の新たな豪華客船は、いずれも、建造途中に軍事用の船に変更されたか、又は、純粋な客船として活躍したのは、極僅かな期間であり、すぐに、軍事用の船へと改造される等しました。これ等の日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、日本と北米を結ぶ太平洋航路用の、新たな豪華客船の中に、幻の豪華客船、橿原丸(kashiharamaru)(27,700トン(GT))が有ります。橿原丸(kashiharamaru)は、豪華さにおいて、浅間丸(asamamaru)を、さらに、遥かに上回る予定であり、日本の客船史上、最も豪華な客船となる予定でありましたが、第2次世界大戦により、建造途中で、空母に変更されました(空母、隼鷹(jyunyou)。ちなみに、日本郵船(Nippon Yusen)の、日本と北米を結ぶ太平洋航路用の、新たな豪華客船の内の一つであり、橿原丸(kashiharamaru)と同級の豪華客船として就航する予定であった出雲丸(izumomaru)(27,700トン(GT))も、やはり、建造途中で、空母に変更されました(空母、飛鷹(hiyou))。
以下、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。
松田 軍平(matsuda gunpei。日本の建築家。1894年生まれ。1981年に亡くなる)は、三井(mitsui)銀行の本店・支店の設計等、三井(mitsui)財閥(近代の日本で最大級の財閥(近代日本の、三大財閥又は四大財閥)の一つ。現在の三井(mitsui)グループ)の仕事が中心であった事から、三菱(mitsubishi)の造船所の仕事を受けた事は、不思議に思われるかもしれません。しかし、これは、久米 権九郎(kume gonkuro)と同じく、中村 順平(nakamura jyunpei)の紹介による物でした(松田 軍平(matsuda gunpei)は、現在の名古屋(nagoya)工業大学の前身の高等教育機関の、中村 順平(nakamura jyunpei)の後輩です)。ところで、松田 軍平(matsuda gunpei)が設計する、「現代日本様式」は、中村 順平(nakamura jyunpei)の、それとは、少し異なっています。松田 軍平(matsuda gunpei)が設計する、客船のインテリア(内装)は、当時の建築界の、最新流行を取り入れた物で、全体的に軽やかで明るく、いくぶん、すっきりと、現代的な印象を受けます。中でも、間接照明は、装飾的と言うよりも、単純化された大胆な物が多く、空間に、強い印象を与えているのが、特徴的です。松田(matsuda)建築事務所(松田 軍平(matsuda gunpei)の建築設計事務所)が設計した、客船のインテリア(内装)で判明しているのは、ぶらじる丸(BRASIL maru。日本の客船。1939年完成。12,752トン(GT))の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)、新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT)。日本の客船)の1等(first class)喫煙室(smoking room)と1等(first class)読書室、八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成。17,150総トン(GT))の1等(first class)社交室と1等(first class)カフェ(cafe)ダンシングスペース(danceをする場所)、橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)と2等(second class)社交室等です。第二次世界大戦以前の、日本の客船のインテリア(内装)の設計図面が、ほとんど現存しない中、当時の、多くの設計図面が、現在も、松田平田設計事務所(元、松田(matsuda)建築事務所)に保管されている事は、大変貴重であると言えるでしょう。
写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真上。八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成)の1等(first class)社交室。松田 軍平(matsuda gunpei)設計。八幡丸(yawatamaru)の姉妹船である、新田丸(nittamaru)の、1等(first class)社交室の設計を、中村 順平(nakamura jyunpei)が設計を担当し、「現代日本様式」の真骨頂とも言える様な空間を設計していた事を強く意識したのでしょうか。八幡丸(yawatamaru)の1等(first class)社交室は、松田 軍平(matsuda gunpei)の設計の中でも、とりわけ、日本的な要素が強く出ており、「現代日本様式」と呼ぶのに、ふさわしい物となっています。
写真下。新田丸(nittamaru。日本の客船。1940年完成)の1等(first class)読書室。松田 軍平(matsuda gunpei)設計。明るく軽快なイメージで設計されている。一つの豪華客船の内装を、「現代日本様式」で、総合的にデザイン(design)する一方で、あえて、部屋・空間毎に雰囲気を変え、退屈させない様な工夫もありました。

写真右上。八幡丸(yawatamaru。1940年完成)の1等(first class)社交室の、小壁薄肉彫彫刻模様。松田 軍平(matsuda gunpei)設計。

新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。
日本の建築会における、モダニズム(modernism)の象徴である、前川 國男(maekawa kunio。日本の建築家。1905年生まれ。1986年に亡くなる)と、丹下 健三(tange kenzo。日本の建築家。1913年生まれ。2005年に亡くなる)が、かつて、その対極にある、豪華客船のインテリア(内装)の設計に関わった事は、大変興味深いと言えるでしょう。東京大学建築学科教授の、岸田 日出刀(kishida hideto)は、その権威ある立場ゆえ、日本を代表する豪華客船になるであろう橿原丸(kashiharamaru。1942年完成予定。途中で、空母へと改造)の設計委員長に任命されていました。橿原丸(kashiharamaru)は、国から60%の補助を受けて、有事の際には、政府に提供する事も約束した上で建造する、大型客船であった為、日本郵船(Nippon Yusen)は、しかるべき立場にあった、岸田 日出刀(kishida hideto)に、設計委員長を依頼したと思われます。岸田 日出刀(kishida hideto)は、船主(日本郵船(Nippon Yusen))の意向として、橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)プール(swimming pool)の設計に、(東京大学における教え子(教えた生徒)であった)前川 國男(maekawa kunio)の建築設計事務所である、前川 國男(maekawa kunio)建築事務所を推薦しました(同じく、岸田 日出刀(kishida hideto)の、東京大学における、教え子(教えた生徒)であった、丹下 健三(tange kenzo)は、当時、前川 國男(maekawa kunio)建築事務所に勤務していました)。幻と終わった、橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)プール(swimming pool)の設計でしたが、「現代日本様式」を要求された客船のインテリア(内装)の設計は、前川 國男(maekawa kunio)と丹下 健三(tange kenzo)にとって、現代建築の中に、いかに、日本の伝統を取り込んで行くかと言うヒント(手掛かり)を得る、機会であったかもしれません。

写真上。橿原丸(kashiharamaru)の一等(first class)プール(swimming pool)(前川 國男(maekawa kunio)建築務所設計。丹下 健三(tange kenzo)担当)のカラースキーム(1940年制作)。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)の一等(first class)プール(swimming pool)(前川 國男(maekawa kunio)建築務所設計。丹下 健三(tange kenzo)担当)の初期案(1940年制作)。

写真上。橿原丸(kashiharamaru)(1939年に建造開始され、1942年完成予定であった、 27,700トン(GT)の、幻の、日本の豪華客船。時局の悪化により、完成する事なく、日本軍に買い上げられ、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造された)の1等(first class)喫煙室(smoking room)(村野 藤吾(murano togo)設計)のカラースキーム(1940年制作)。黒地のソファ(sofa)に赤色の座面と言う、斬新さが見られるデザイン(design)。大阪商船(Osaka Shosen)の客船のインテリア(内装)設計を多く手がけた村野 藤吾(murano togo)は、橿原丸(kashiharamaru)で、初めて、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社(日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ。前々回の投稿参照)の豪華客船の設計を手がけた。

橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)の、松田 軍平(matsuda gunpei)案(1940年制作)。橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)には、村野 藤吾(murano togo)案と、松田 軍平(matsuda gunpei)案の、二つの案が、存在している。

あるぜんちな丸(Argentina maru。日本の客船。1939年完成。12,755トン(GT)))の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)。村野 藤吾(murano togo)設計。壁は、総桐柾張り、窓には欄間彫刻が施され、柱には、大理石が張られた。手前の照明シェードには、蒔絵(makie)が、施され、「現代日本様式」を代表する意匠(design・装飾)である。
現在の京都工芸繊維大学の前身の高等教育機関を卒業した、吉武 東里(yoshitake tori。日本の建築家。1886年生まれ。1945年に亡くなる)は、1910年に、宮内省(kunaisho。天皇および皇族(天皇の一族(親族))の日常生活、教育、財産管理等、あらゆる側面を支える官庁)の内匠寮(天皇や皇族(天皇の親族)関係の宮殿・邸宅の建物や庭園等の設計等を、司っていた組織。当時の日本国内の一流の建築家や技師達が集まったエリート(elite)集団。1947年廃止)の技師となりました。その後は、大蔵(okura)省(現在の財務省。日本の財務を扱う中央官庁(ministry))の臨時議院建築局の技師として、国会議事堂の建設にも、大きく貢献しました(現在の日本の国会議事堂の建物(1936年完成。着工から完成まで、約17年かかった)の設計は、当時の、大蔵(okura)省の臨時議院建築局)。吉武 東里(yoshitake tori)が、どの様な経緯で、客船のインテリア(内装)の設計に携わったのかは、定かではありません。しかし、橿原丸(kashiharamaru)の建造は、皇紀2600年(1940年(日本の初代の天皇が即位してから、2600年))の記念事業の一環と言う要素もあった事から、その設計にあたっては、官庁関係からの、積極的な働きかけがありました。そのような事情から、国会議事堂等、権威の象徴とも言える様な、建築設計で、腕を振るった、吉武 東里(yoshitake tori)が、官庁側から、いち早く、名前があげられた可能性が高いと考えられます。いずれにせよ、一隻の客船で、1等(first class)のエントランス(玄関・入口)部分のみに、この様な、著名な建築家に設計を依頼している点は、特筆すべき点であると言えるでしょう。従来は、客船の1等(first class)のエントランス(玄関・入口)と言うと、造船所の技師が担当するか、もしくは、エントランス(玄関・入口)部分と隣り合う公室(乗客の共用場所)の設計担当者が、その延長として設計する事が、一般的でした。しかし、橿原丸(kashiharamaru)では、1等(first class)エントランス(玄関・入口)の設計者として、吉武 東里(yoshitake tori)が、迎えられているのです。この様に、日本の著名な建築家が集結し、カラースキームまで揃いながら、橿原丸(kashiharamaru)は、完成を待たずに、空母へと改造されてしまいました。建築家達に渡された、橿原丸(kashiharamaru)の図面にも、既に、黒く塗られた、機密のスペース(空間)がある等、華やかな豪華客船の設計とは裏腹に、暗雲が立ち込める中での、船内装飾設計でした。
写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真上。橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)エントランス(玄関・入口)(吉武 東里(yoshitake tori)設計)のカラースキーム(1940年頃制作)。

橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)後部のエントランス(玄関・入口)の広間(吉武 東里(yoshitake tori)設計)のカラースキーム(1940年頃制作)。

(日本の伝統住宅建築を近代化した事で知られる)吉田 五十六(yoshida isoya。日本の建築家。1894年生まれ。1974年に亡くなる)が設計する建築空間は、日本の伝統美を伝える物でありながらも、豪壮なものとして知られています。したがって、日本の文化・歴史を主張する事が必要とされた、1930年代半ば頃から1940年代初めにおける、日本の客船のインテリア(内装)の設計者として、適任だと判断されたであろう事は、想像に難くありません。現在、吉田 五十六(yoshida isoya)が設計した事が判明しているのは、安芸丸(akimaru。1942年完成)と天山丸(tenzanmaru)(下の補足説明参照)の2隻です。
天山丸(tenzanmaru):説明は、wikiを参考にしました。1942年完成。日本国有鉄道(1987年に分割、民営化されてJRとなる)の、日本の下関(shimonoseki)と韓国の釜山を結ぶ航路の客船。7,908トン(GT)。戦時中に完成した客船だが、しっかりとした設備を持つ客船であった。1945年7月、アメリカ軍の空爆から退避する為(船を守る為)、港から退避して航行中、アメリカ軍の攻撃を受け炎上。沈没は免れたが機関室が破壊され、自力航行できなくなる。修理の為に、港へ曳航されている途中、浸水し、沈没。
しかし、日本とシアトル(Seattle)を結ぶ航路に就航する事が予定されていた安芸丸(akimaru)は、第二次世界大戦の影響により、上部構造を単略化して完成し、完成直後に、軍に徴用されました。そのため、現在に残る、吉田 五十六(yoshida isoya)の図面が、実現したかどうかは、定かではありません。一方、日本国有鉄道の天山丸(tenzanmaru)は、図面も写真も現存しませんが、「天山丸(tenzanmaru)の特別室(特別客室)が、吉田 五十六(yoshida isoya)氏により、数奇屋風(日本の伝統住宅建築風)の設計がなされ、好評であった」と言う記述メモ(memo)が残されている事から、天山丸(tenzanmaru)については、吉田 五十六(yoshida isoya)の設計が、実現していた可能性が、かなり高いと思われます。他にも、1964年の東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)開催を機に、計画された、日本の豪華客船、ミス・ニッポン(Miss Nippon)の会議議事録に、インテリア(内装)の設計者として、吉田 五十六(yoshida isoya)の名前が確認出来ます。村野 藤吾(murano togo)と並んで、豪華客船時代(前回の投稿を参照)のインテリア(内装)の設計の功績が認められての人選であったのでしょう。しかし、伊勢(ise)湾台風(1959年に、日本を襲った巨大台風。日本に全国に渡り、甚大な被害をもたらした(特に、関西(kansai)地方東南部及び中部地方西南部の被害が大きかった))の甚大なる被害の影響で、ミス・ニッポン(Miss Nippon)の建造計画は、予算の目処が立たず、幻と終わりました。仮に、ミス・ニッポン(Miss Nippon)が完成していれば、日本の、新たな客船のインテリア(内装)の歴史を紡ぎ出す客船となっていたに違いません。
写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真左上。安芸丸(akimaru。1942年完成。11,409総トン(GT))。1937年の、「優秀船舶建造助成施設」(大型で高速の優秀船舶の建造にあたっては、日本政府から、補助金が与えられた)に基づいて、日本とシアトル(Seattle)を結ぶ航路用に建造されたが、日本(とアメリカ)が、第二次世界大戦に参戦した事により、旅客設備は、縮小され、その構造も、著しく簡略化された形で完成した。また、予定航路には、就航する事なく、完成と共に、日本軍に徴用され、戦時中に、アメリカ軍により、撃沈された。吉田 五十六(yoshida isoya)が設計した図面は、実現しなかった可能性が高い。

写真上。安芸丸(akimaru)ツーリストクラス(tourist(economy)class)の喫煙室(smoking room)の家具(吉田 五十六(yoshida isoya)設計)の図面(1941年制作)。
写真下。安芸丸(akimaru)のツーリストクラス(tourist(economy)class)の社交室の壁面(吉田 五十六(yoshida isoya)設計)図(1941年制作)。

ミス・ニッポン(Miss Nippon。1964年完成予定)の、1等(first class)社交室(設計者不詳)。実現する事なく、幻となった、1950年代末から1960年代初めの、日本の豪華客船建造計画。畳を敷き詰めたかのような床面、つつみ太鼓のような椅子等、そのインテリア(内装)は、豪華客船時代の、「現代日本様式」を引き継いでいる事が分かる。仮に、ミス・ニッポン(Miss Nippon)が、完成していたら、おそらく、当時、日本で、戦後の復興の完成を象徴する物として、ほぼ、新幹線(1964年運行開始)に匹敵する話題となっていた事でしょう。
雪野 元吉(yukino motokichi。日本の建築家。1887年生まれ。1945年に亡くなる)は、1922年に、現在の東京芸術大学の前身の高等教育機関を卒業後、宮内省(kunaisho。天皇および皇族(天皇の一族(親族))の日常生活、教育、財産管理等、あらゆる側面を支える官庁)の内匠寮(天皇や皇族(天皇の親族)関係の宮殿・邸宅の建物や庭園等の設計等を、司っていた組織。当時の日本国内の一流の建築家や技師達が集まったエリート(elite)集団。1947年廃止)の技師として活躍した建築家でした。客船のインテリア(内装)において、雪野 元吉(yukino motokichi)が、他の建築家と異なるのは、自ら志願し、強い憧れを抱いて、その設計に携わった事です。少年時代の雪野 元吉(yukino motokichi)は、豪華客船が、たくさん出入りする横浜に育ちました。そして、養父が、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の社員であった事から、新造船を見学する機会にも恵まれました。こうした事が、雪野 元吉(yukino motokichi)に客船に対する憧れを、強く抱かせる事になりました。雪野 元吉(yukino motokichi)は、そもそも、建築の道に進んだのも、豪華客船のインテリア(内装)を見て、「こんな物を自分で設計して、出来た物を見れば、どんなに愉快だろうな」と思った事が、きっかけだと、後に、川崎(kawasaki)造船所の同僚に語っています。雪野 元吉(yukino motokichi)にとって、客船のインテリア(内装)の設計は、長年の夢でもありました。1938年、ようやく、その夢が叶う時が、やってきました。橿原丸(kashiharamaru)の姉妹船であり、橿原丸(kashiharamaru)と共に、日本最高の豪華客船となる計画の、出雲丸(izumomaru)が、川崎(kasawaki)造船所(当時の、日本の大規模造船所(造船会社)の一つ)で建造される事を知った、雪野 元吉(yukino motokichi)は、「一生に、一度は、客船のインテリア(内装)を設計してみたい」と言う強い希望から、自ら、宮内省(kunaisho)を辞職し、川崎(kashiharamaru)造船所へと転職したのです。しかし、時局の悪化により、橿原丸(kashiharamaru)と同じく、出雲丸(izumomaru)も、完成する事なく、空母へと改造されました。
写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真上。出雲丸(izumomaru)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)第1案(設計者不明。1941年制作)。

写真右。出雲丸(izumomaru)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)第2案(設計者不明。1941年制作)。出雲丸(izumomaru)の1等(first class)食堂は、第1案から第3案までのカラースキーム写真が残っている事、そして、船主(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)側の意向により、徐々に、第1案から遠ざかって、普通の案に成り下がってしまう事への無念が、綴られている事から、雪野 元吉(yukino motokichi)が設計者であった可能性が高い。柱等は、朱塗りで仕上げる事を想定していた様です。神道の神社(shrine)の鳥居を連想させる、如何にも、「現代日本様式」の設計です。
写真左。出雲丸(izumomaru)の2等(second class)喫煙室(smoking room)(設計者不明。1941年制作)。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他4(すぐ下でリンクを付けた投稿)へ続く。。。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他4→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3524270?&sfl=membername&stx=nnemon2