基本的に、2017年に行った投稿の再掲です。
東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。
亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。
私の母方の祖母は、竹久
夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya
koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷
虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。
私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。
この投稿は、前に、kjで、行った、2011年に、横浜駅周辺(東京の南部郊外最大の繁華街)にある、規模の大きなデパートの一つ、そごう(sogo)デパート横浜店内にある美術館で行われた、蕗谷
虹児(fukiya koji)(下の補足説明を参照)の展覧会(exhibition)に関する投稿の中から抜粋して来た物です。
蕗谷
虹児(fukiya
koji):1898年、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)。有名とは言っても、竹久
夢二(takehisa
yumeji)とは違って、超有名(とても有名)と言う程ではありません。雑誌・本・新聞等は、購買者別に、幼年(子供)向け・少年向け・少女向け・成人の男女向け・女性向けと大雑把に分類出来ますが、蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、それら全ての分野に絵や文を書いているものの、幼年(子供)向け・少女・女性向けの出版物において、最も、仕事をしました(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。蕗谷
虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake
kasyo)等と共に、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家です。現代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)にも、蕗谷
虹児(fukiya koji)のファン(fan)は多く、「蕗谷 虹児(fukiya koji)を参考にした」と明言している、竹宮
恵子(takemiya
keiko)(下の補足説明を参照)は、これまた、次世代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)に、大きな影響を及ぼし続けている漫画家の一人となっています(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。
竹宮 恵子(takemiya keiko):以下、竹宮 恵子(takemiya keiko)に関する説明は、wiki等を参考にしました。1950年生まれ。1970年代から活躍している日本の、有名な女性、漫画家で、主に、少女向けの漫画の漫画家。日本の、少女向けの漫画の漫画界における、大御所(その業界の第一人者として強い影響力を持つ人物)の一人。5歳の頃から、日常的に、漫画を描くようになり、中学生で、本格的に、漫画を描くようになり、1967年、17歳、高校生の時に、漫画家として、デビュー(debut)した。竹宮 恵子(takemiya keiko)は、蕗谷 虹児(fukiya koji)の影響を受けている様です。

この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)。
以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。

蕗谷 虹児(fukiya koji)。自宅を訪れた、ファン(fan)の少女達に囲まれて。1933年。この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。
日本の近代の少女雑誌(主な読者は、第二次世界大戦以前の階級社会の日本における、中流階級以上の10代(主として、13歳から17歳位まで)の女性)の歴史は、1902年創刊の、「少女界」から始まっており、1908年創刊の、「少女の友」、1912年創刊の、「少女画報」等、1910年代初め頃までに、数誌が、創刊されました。初期の頃は、鏑木
清方(kaburaki kiyokata)、川端 龍子(kawabata ryushi)、竹久 夢二(takehisa
yumeji)等が、少女雑誌に、絵を描いていましたが、この中で、竹久 夢二(takehisa yumeji)が、圧倒的な人気を博しました。蕗谷
虹児(fukiya koji)が出現した頃、高畠 華宵(takabatake kasyo)や加藤 まさを(kato masao)、須藤
しげる(sudo
shigeru)等も活躍を始めて、少女雑誌のヴィジュアル(visual)化が進みました。先に述べた少女雑誌の他に、1922年には、「令女界(reijyo
kai)」が、1923年には、「少女倶楽部(少女club)」が創刊され、その何れにおいても、蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、活躍しました。1920年代から1930年代に、単なる挿絵を超えた、芸術性の高い、日本の、少女向けの絵(日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型となる)は、黄金時代を迎え、後に、中原
淳一(nakahara jyunichi)や、松本 かつぢ(matsumoto katsuji)(下の補足説明参照)も加わりました。松本
かつぢ(matsumoto
katsuji)は、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の、先駆け的な作品であるとされる、「くるくるクルミちゃん」(1938年に、「少女の友」に連載を開始)の作者でもありますが、その妹、松本
龍子は、1933年に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の二度目の妻になった人です。
松本 かつぢ(matsumoto
katsuji):説明は、wikiより。。。1904年生まれ。1986年に亡くなる。日本の、画家・挿絵画家(イラストレーター(illustrator))。1931年に、挿絵画家としてデビュー(debut)。少女雑誌で、少女ファン(fan)の圧倒的な支持を集め、中原
淳一(nakahara jyunichi)と人気を二分する、少女向けのイラストレーター(illustrator)となった。高畠
華宵(takabatake kasyo)の後、蕗谷 虹児(fukiya koji)、加藤 まさを(kato
masao)の絵が「少女画報」、「少女倶楽部(少女club)」、「令女界(reijyo kai)」等の少女雑誌で人気を呼び、それに続いたのが松本
かつぢ(matsumoto katsuji)、中原 淳一(nakahara jyunichi)らである。

日本画(日本伝統画)の修行時代の作品。1918年頃。

蕗谷 虹児(fukiya koji)の日記。1919年。
蕗谷
虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo
kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌(少女向けの雑誌)、全てに描き続けました。蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、各少女雑誌の性格に合わせて、少女のタイプ(性質)を描き分けました。「少女倶楽部(少女club)」には、素朴な、他誌と比べると、大人しい少女を、「少女の友」には、上品で大人しい雰囲気を持つ令嬢(良い家柄の娘)風の少女を、「少女画報」には、活発そうで、都会的な少女を、「令女界(reijyo
kai)」には、理知と官能を秘めた、大人の女性を描きました。

若い頃の蕗谷 虹児(fukiya koji)。1920年。
蕗谷
虹児(fukiya
koji)を出版界に登場させたのは、「少女画報」(「婦人画報」の姉妹誌として、東京社から1912年1月に創刊された、日本の、月刊の少女雑誌(少女向けの雑誌)です。蕗谷
虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa
yumeji)の知遇を得た事をきっかけに、「少女画報」において、イラストレーター(illustrator)としてデビュー(debut)しました(蕗谷
虹児(fukiya koji)と、「少女画報」の出会いは、竹久 夢二(takehisa yumeji)が、蕗谷 虹児(fukiya
koji)為に、「少女画報」の編集長に、紹介状を書いた事に始まります)。現在、蕗谷 虹児(fukiya
koji)の作品が、明確に確認出来る、最も、早い号は、1920年5月号です(それ以前の号にも、サイン(signature)を入れずに絵を描いているはずですが、名前を、はっきりと確認出来るのは、1920年5月号です)。
写真以下7枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の少女画報における作品例。

付録、「少女の国旅行双六」。1921年。

付録、「姉妹仲良し双六」。1922年。

「写生」。口絵(書物・雑誌の巻頭、または本文の前に掲載される絵)原画。1925年。

西條 八十「二つの言葉」。口絵原画。1925年。

「波路はるか」。口絵原画。1925年。

「枯木立」。口絵原画。1925年。

「初雁」。口絵原画。1925年。

写真左、「旅絵師」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の絵(自画像)。1922年。写真右、「救いの灯火」。雑誌、「少女倶楽部(少女club)」の絵。1925年。
「令女界(reijyo kai)」(日本の、少女雑誌(少女向けの雑誌)の一つ)は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、自らの持つ力を全開させる事の出来る、最も大切な舞台となった雑誌です。当初、「令女界(reijyo kai)」が、対象年齢としていたのは、他の、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)と同じでした。
写真以下16枚。1920年代前半における、蕗谷 虹児(fukiya koji)の「令女界(reijyo kai)」における作品例。

「或る夜の夢」。表紙原画。1922年。

「乞い」。口絵原画。1922年。

左。荒江 啓「星に祈る」。挿絵原画。1922年。右。上司 少剣「伊那子の時計」挿絵原画。1922年。

「花園の迷ひ」。口絵原画。1923年。
「令女界(reijyo
kai)」は、創刊から数年後の、1920年代半ば頃から、対象年齢が上がり、対象年齢は、女学校(現代の中学校と高校に当たる)の高学年から、女学校(現代の中学校と高校に当たる)を卒業してから結婚するまでの女性(主に、17歳から20歳代前半)となり、「令女界(reijyo
kai)」は、少女と主婦の間にある、「未婚の女性」を対象とした、日本で最初の雑誌となりました。日本では、1910年代半ば頃から、職業を持つ女性も増え、結婚年齢も徐々に上がり、「未婚の女性」が増加したのです。そのような社会状況に、いち早く対応して、それまでの少女雑誌(少女向けの雑誌)と女性雑誌(主婦向けの雑誌)の、中間的な年齢層を購買者としたのが、「令女界(reijyo
kai)」でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo
kai)」において、可憐な少女ではなく、家庭の匂いを持った主婦でもない、独立した女性の魅力を、目に見える形で、読者に示しました。

「プランタン」。口絵原画。1924年。

藤田 健次「初夢」。口絵原画。1924年。

「我の幸」。表紙原画。1924年。

「花がたみ」。表紙原画。1924年。

「聖鐘」。表紙原画。1924年。

邦枝 完二「流れ星」。挿絵原画。1924年。

柳川 美智子「妹の罪」。挿絵原画。1924年。

荒江 啓「想い出の磯に」。挿絵原画。1924年。

「テラス(terrace))の秋」。表紙原画。1925年。

「葡萄」。表紙原画。1925年。

「船・・・形見の扇(別れ四題)」。口絵原画。1925年。

「影の声」。挿絵原画。1925年。
雑誌、「少女倶楽部(少女club)」は、先行して出版された、他の、日本の少女雑誌(少女向けの、雑誌)が、女学生(現代で言う中学生と高校生)を対象にしていた事に比べ、それよりも幼い、小学校5、6年生を基準に据え、小学校高学年から女学校低学年(10歳から14歳前後)を対象とした、月刊の少女雑誌(少女向けの雑誌)として、1923年1月に、講談社(kodansha)(日本の、大規模、出版会社の一つ)から創刊さました。
写真以下3枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の「少女倶楽部(少女club)」における作品例。

「人形のマント」。口絵原画。1924年。

「五つの人形」。口絵原画。1924年。

「シャボンダマ」。口絵原画。1925年。

雑誌、「淑女画報」の表紙。1922年。「淑女画報」は、良家(上流階級、良い家柄・格式のある家柄、富裕層)の娘を対象にした、月刊の、婦人雑誌(大人の女性向け雑誌)で、1912年4月に、博文館(hakubunkan)(日本の、大規模、出版会社の一つ)から創刊されました。
蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、第二次世界大戦前の日本の、代表的な中流階級向けの婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)である、「婦人公論」(中央公論社(chuokoronsha)(日本の、大規模、出版会社の一つ)から、1916年1月に創刊)、「主婦之友(主婦の友)」(主婦之友(主婦の友)社(日本の、大規模、出版会社の一つ)から、1917年2月に創刊)、「婦人倶楽部(婦人club)」(講談社(kodansha)から、1920年10月に創刊)の、三誌、全てに絵を描いた他、「婦人画報」(東京社)、「婦人之友(婦人の友)」(婦人之友(婦人の友)社)、「婦人世界」(実業之日本社)、「淑女画報」(博文館(hakubunkan))、「婦女界」(婦女界社)にも、挿絵や表紙を寄せています。蕗谷
虹児(fukiya koji)が出版界に登場した頃、婦人雑誌に、絵を描いていた画家は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、石井
滴水(ishii tekisui)、森田
久等でした。1910年代から1920年代半ばに、続々と創刊された、日本の、近代、婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)にとって、近代的な美人画を得意としていた、蕗谷
虹児(fukiya koji)は、最も、欲しい画家の一人であったと思われます。

「氷柱の金魚」。雑誌、「主婦之友(主婦の友)」の挿絵原画。1925年。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、詩人・作詞家としても活躍しました。

「萌芽」。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「睡蓮の夢」の原画。1924年。

「可愛ゆい時計」。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「悲しき微笑」の原画。1924年。

「青き酒」。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「私の詩画集」の原画。1925年。

「花嫁人形」。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「花嫁人形」の原画。1935年。

蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「花嫁人形」の原画。1935年。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、本の装幀(design)家としても活躍しました。

荒江 啓 「幻の国へ」の口絵原画。1924年。
蕗谷虹児(fukiyakoji)2(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
蕗谷虹児(fukiyakoji)2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3825244?&sfl=membername&stx=nnemon2