韓国の盗作文化。諸悪の根源は日本
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201506252105375京郷新聞(韓国語) 2015.6.25
日本文学感染症がもたらした盗作、日本に責任

金賢姫(キム・ヒョンヒ) 日本文学研究者
最近の新聞や放送メディア、そしてソーシャルネットワークサービス(SNS)を熱い雰囲気にしている話題の一つが小説家シン・ギョンスクさんの盗作問題だ。去る22日、ついにシンさんは盗作を認める発言を出すことによって、日本の言論でもニュースまでもが扱い始めた。韓国のベストセラー作家が日本作家の作品を盗用したことかという疑惑が強く提起されたのだ。国際的な恥さらしも恥さらしだが、これまで何かと日本を色々な面で批判してきた私たちの立場までが滑稽になってしまった。
日本で最も近い外国が韓国だという点を勘案する時、それでも韓国を舞台にした小説が明治・大正・昭和にかけて敗戦に至るまで現れないでいるということは、日本文学の差別的な性格をそのまま物語っている。 日本人が韓国人に対して持つ差別や偏見は、ヨーロッパ人がユダヤ人に対して持つ偏見のように色褪せることはなかった。
江戸時代以前には尊敬と敬意を持って韓国に接していた時代があった。江戸時代後期には交流が途切れたので、日本人は韓国に対して無関心になった。明治維新以後、アメリカが日本に教えてやった帝国主義的な姿勢と役割を憶えると、日本はCOPYするように韓国にそのまま適用したため、この時から韓国人に対する保護者意識と共に蔑視の歴史が始まったということができる。
以後、日本は韓国を強制的に植民地統治して力で支配してきたことによる結果、両国関係は今日まで解決できない多くの課題をそのまま抱いたまま、迷宮に陥っている。 日本が「自分の民族をどのように錯覚するか」という問題で、韓国は比較対象として省けない存在だ。それにもかかわらず、この事実を見逃そうとする日本の姿勢が、事態をより一層迷宮の中に追い詰めている。
このように韓国・日本関係で問題の糸口を握っている日本は、明治維新以来、西欧列強を文明の規格として近代化にだけ関心が集まっていたために、それまでの尊敬されていた韓国は蔑視と差別の対象を越えて、もはや嫌悪の対象に変化した。
事態がこの有り様に至ったのに、韓国の知識人集団(学界など)は日本の大衆文学を、あたかも韓国文学の滋養強壮制のように先を争って紹介するのに忙しかった。それが韓国人の情緒にどんな影響を及ぼすことが出来たかに対しては、すなわち薬の効能だけを宣伝して、その副作用や後遺症に対しては責任を負わない、非常識な慣行を守ってきたわけだ。
片方では日本軍慰安婦問題とか独島(ドクト)問題で私たちの民族の自尊感を最後まで守るという意志で闘争に立ち向かう人々がいるかと思えば、一部では日本の大衆文化があたえる金銭的儲けなどの甘みに陥って、今も抜け出すことができない人々がいる。その人々の立場で見れば、外国文化を楽しむのに何の法や思想や恨みがあるだろうか、と言うだろうが、まだ私たちの社会が日本文化を外国文化として楽しむには、両国間の関係はそれほど親しく平坦でないのである。
しかも、今回のシン・ギョンスク盗作問題のような作品が広がってはいけない。その原因として36年の恥辱の歴史が今も立ちはだかっているが、その結果、盗作という汚名まで受けるならば、その分だけ私たちが日本奴に対して身動き出来る幅が減ることだろう。
韓国文学は他人の文学を真似てはいけないが、特に日本文学を真似る時は、私たちの古代先祖の魂に墨を塗ることにならないのか、そこから確かめてみなければならない。
過去の百済の使節・阿直岐と王仁博士が日本を教育してなかったとしたら、彼ら日本人に「カナ(KANA)」という文字が甘受されていただろうか。詳しく調べれば、三島由紀夫も村上春樹もその百歳の庶子に過ぎないのに、なぜ本来の直系の赤子である私たちが彼らの毒のような下劣な文章に感染してばかりいるのか、そろそろじっくり振り返る時期である
これまで私たちは、日本文学そのものに対する深い理解なしで、日本の小説や詩、または俳句等を利益の為に翻訳してきた。単純に文章とか表面的な理解だけを持って日本文学に対してきた私たちの文学界の風土が、今回、盗作という形の結果として出て来たのならば、日本文学が韓国に与えた悪影響は大きいと言わざるをえない。