以下、基本的に前に行った投稿から抜粋して来た物です。
横浜を散歩して来た時の物です。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町です。この日は、横浜の、関内(kannai)areaにある日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。
日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館がある関内(kannai)areaは、横浜の都心部に有る、横浜の古くからの中心ビジネス(business)地区です。
関内(kannai)areaには、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)の関内(kannai)areaの姿を想像させる、第2次世界大戦末期の空襲や、戦後の建て替えの波の中で生き残った、1910年代から1930年代頃に建てられた建物が点在しています。
写真以下2枚は、関内(kannai)areaに残る、第二次世界大戦前に建てられた近代建築の建物で、横浜銀行協会(1881年創立)の建物です。横浜の銀行の関係者達の社交施設の建物(初代の建物は、1897年に建てられた)の4代目の建物で、1936年に建てられた物です。



写真以下3枚は、参考に。。。前にアップ(upload)した写真の再利用ですが、東京の丸の内(marunouchi)(東京都心部の中でも中心的な地域に位置する、東京を代表するビジネス(business)の中心地区)にある東京銀行協会ビル。東京を中心とした、日本全国の銀行関係者の会員制クラブ(club)、銀行倶楽部(1880年創立)の社交施設が入っているビルです。1916年に建てられた、銀行倶楽部の先代の社交施設の建物の外壁と内装の一部を保存する形で、新しいビルが建てられています。この様な形式の建物の保存方法は、一般的に、景観上、それ程、美しい物とは言えないと思いますが、個人的に、全く保存されないよりは、マシ(良い)と考えています。



第2次世界大戦前、日本は、イギリス、アメリカに次ぐ、世界第3位の海運(shipping・marine transportation)国でした。日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、その世界第3位の海運(shipping・marine transportation)国、日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つでした(今でも、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つであると共に、世界有数の海運(shipping・marine transportation)会社となっています)。
写真以下3枚は、参考に。。。前にアップ(upload)した写真の再利用ですが、東京の丸の内(marunouchi)(東京都心部の中でも中心的な地域に位置する、東京を代表するビジネス(business)の中心地区)にある日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、現在の東京本社ビル。



写真以下3枚も、参考に。。。

昔の彩色絵葉書(白黒写真(monochrome写真)に色を付けた絵葉書)を集めた本より。。。1930年代頃の丸の内(marunouchi)(東京都心部の中でも中心的な地域に位置する、東京を代表するビジネス(business)の中心地区)の風景の中から。。。写真右側の白い近代建築の、オフィス(office)用ビルは、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社(1885年創業)の、先代の東京本社ビルで、1923年に完成した物です。

写真は、借り物。日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、先代の東京本社ビル(1923年完成)。これは、1923年に完成した当時の頃の写真かな?

日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社の、先代の東京本社ビル(1923年完成)。丸の内(marunouchi)の、立派な近代建築のオフィス(office)用ビルの一つでしたが、1970年代に、無機質な現代建築の建物(現在の建物)に建て替えられてしまいました。
写真以下3枚の建物は、横浜の都心部の関内(kannai)area(横浜の都心部に有る、横浜の古くからの中心ビジネス(business)地区)にある、1936年に建てられた、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社の横浜支店の建物です。堂々とした近代建築です。文化財に指定されている、この建物は、現在でも、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社の横浜支店の建物となっていますが、現在では、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社の東京areaの事務所機能は、東京本店(東京の丸の内(marunouchi)にある、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社の東京本社ビル)に集中している為、建物は、主として、日本郵船(Nippon
Yusen)歴史博物館として、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の歴史を紹介する資料館として使われています。


写真は、借り物(写真の作者:663highland )。

これは、前に、enjoyでアップ(upload)した写真の再利用です。横から見た、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の横浜支店(現在では、主として、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館として、日本郵船(Nippon Yusen)の歴史を紹介する資料館として使われている)の建物。1936年に完成した物です。支店の建物でありながら、堂々とした近代建築です。当時の日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の勢いを感じます。

日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館のパンフレット(booklet)から。。。第二次世界大戦前(おそらく、1920年代から1930年代頃)の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、世界一周の、客船航路の、海外向け(日本国外向け)のパンフレット(leaflet)。
写真以下4枚。この時、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館買った、絵葉書より。。。伊予丸(iyomaru)(下の補足説明参照)の、1914年の夕食の、英語表記メニュー(menu)から。。。
伊予丸(iyomaru):日本と、アメリカのシアトル(Seattle)を結ぶ航路で活躍した、日本(日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社)の客船。三菱(mitsubishi)長崎(nagasaki)造船所製。6,320トン(GT)。1901年就航。1933年引退。

1914年9月1日の、夕食のメニュー(menu)。

1914年9月5日の、夕食のメニュー(menu)。

1914年9月6日の、夕食のメニュー(menu)。

1914年9月11日の、夕食のメニュー(menu)。
写真以下2枚。日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館の展示より。。。前にenjoyでアップ(upload)した写真の再利用。

1937年の、ある日の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船(国際航路向けの長距離客船)の夕食を、(蝋で)、再現したものです。

これも、1930年代の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船(国際航路向けの長距離客船)の食事を、(蝋で)、再現したものです 。盛り付けは、やや、古臭い(古典的な)感じですが、食事は、現在と、それ程は、変わらないかも知れません。

絵葉書より。。。浅間丸(asamamaru)(下の補足説明参照)の食事メニュー(menu)。絵は、竹久 夢二(takehisa yumeji)(1884年生まれ。1934年に亡くなる。1900年代末頃から1930年代初めまで活躍した、日本の有名な画家、グラフィックデザイナー(graphic designer))が、描いています。
浅間丸(asamamaru):1929年に完成し、運航を開始した、横浜とHonolulu、San Franciscoを結ぶ、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。
1930年代当時、アメリカとカナダの会社も、北米と日本の間に、豪華客船を走らせていましたが、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社も、当時、太平洋航路向けの主要な豪華客船としては、氷川丸(hikawamaru)を含め6隻の豪華客船を保有し、日本の横浜と北米を結んでいました。当時の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、太平洋航路向けの主要な豪華客船は、氷川丸(hikawamaru)を含む日本とシアトル(seattle)、バンクーバー(Vancouver)を結ぶ、比較的小さな豪華客船3隻と、日本と、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ比較的大きな豪華客船3隻です。この6隻の中で、代表的な、1929年に完成し、運航を開始した、横浜とホノルル(Honolulu)、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ浅間丸(asamamaru)は、現存していませんが、他の同社の日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ豪華客船同様に、氷川丸(hikawamaru)よりも一回り大きく、約17,000トン(GT)あり、また、同社の日本と北米を結ぶ豪華客船の中でも取り分け豪華で、「太平洋の女王」と呼ばれたそうです。

日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館のパンフレット(booklet)から。。。浅間丸(asamamaru)の模型。

1929年に完成し、運航を開始した、横浜とホノルル(Honolulu),サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ浅間丸(asamamaru)。他の日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ豪華客船同様に、氷川丸(hikawamaru)よりも一回り大きく(約17,000トン(GT))、船内の豪華さにおいては、氷川丸(hikawamaru)をはるかに上回るものであり(食堂(dining room・レストラン)の内装には、贅沢にイタリア産大理石が使われ、客室内には当時最先端の設備が使われていた。wikiより)、「太平洋の女王」と呼ばれました。
写真、すぐ下。浅間丸(asamamaru)、又は、浅間丸(asamamaru)と同じく日本とSan Franciscoを結んだ、浅間丸(asamamaru)と同級の、約17,000トン(GT)の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船、龍田丸(tatsutamaru)(どちらか分からない)の、2等(second class)客用の食堂(dining room)。

写真、すぐ上。浅間丸(asamamaru)、又は、浅間丸(asamamaru)と同じく日本とSan Franciscoを結んだ、浅間丸(asamamaru)と同級の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船、龍田丸(tatsutamaru)(どちらか分からない)の、2等(second class)客用のラウンジ(lounge)。

龍田丸(tatsutamaru)の絵葉書より、龍田丸(tatsutamaru)。龍田丸(tatsutamaru)(約17,000トン(GT)。1930年完成。1930年運航開始)は、浅間丸(asamamaru)の姉妹船で、1930年代に、日本とSan Franciscoを結ぶ航路で活躍した、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、浅間丸(asamamaru)と同級の豪華客船です。
この日は、横浜の日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。

この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)。この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。
以下、この展覧会(exhibition)の説明なのですが、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。
1930年代から1940年代初めの、日本の豪華客船のインテリア(内装)の設計には、中村 順平(nakamura jyunpei)や村野 藤吾(murano togo)を始め、松田 軍平(matsuda gunpei)、久米 権九郎(kume gonkuro)と言った、多くの、日本の著名な建築家達が関わっていました。その中には、日本の伝統住宅建築を近代化した事で知られる、吉田 五十六(yoshida isoya)や、若手時代の、丹下 健三(tange kenzo)等も含まれています。この展覧会は、客船のインテリア(内装)の歴史における、こうした建築家達の活躍に注目した展覧会です。
以下、近代以降の、日本の客船のインテリア(内装)の歴史について、時代を追って見て行きたいと思います。
江戸(edo)時代(16世紀から19世紀半ば)の鎖国政策により、規模の大きな船の建造が禁止されていた日本は、開国し、西洋の先進工業国の技術を取り入れ、工業化を始めたものの、しばらくは、大型の、近代的な船を建造する技術はありませんでした。この様な事情から、1880年代から1900年頃にかけての日本は、大型の船は、イギリスの様な、造船先進国からの輸入に頼っていました。客船も、イギリスの様な、造船先進国から、インテリア(内装)を含めて船体を、丸ごと購入していました。その為、当時の、日本の客船のインテリア(内装)は、その船を建造した国の権威を象徴する、古典的なデザイン(design)からなっていました。1900年代に入ると、日光丸(nikkomaru。1903年完成。5,539総トン(GT)。日本の客船)や、天洋丸(tenyomaru。1908年完成。13,402総トン(GT)。日本の客船)等、徐々に、近代的な、大型の客船の国産化が進みました(一部の、日本の、近代的な、大型の客船が、日本で建造される様になりました)。そして、日本国内の装飾会社も、日本の客船のインテリア(内装)に、少しずつ携わる様になりました。

この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。写真上、西京丸(saikyomaru。日本の客船。1888年完成)の、一等(first class)の食堂(dining room・レストラン)。西京丸(saikyomaru)は、イギリスに発注して、船体を、丸ごと購入した客船です(1888年完成)。ロンドン&グラスゴーエンジニアリング&アイアン社(London and Glasgow Engineering and Iron Shipbuilding Company)製。大きなシャンデリア(chandelier)が吊り下がる等、陸上の意匠(内装デザイン(design))が、そのまま転用されているのが分かる。
写真下、天洋丸(tenyomaru。日本の客船。1908年完成。13,402総トン(GT))の、一等(first class)の読書室。天洋丸(tenyomaru)は、日本の、三菱(mitsubishi)造船、長崎(nagasaki)造船所製の、日本の客船です。船内のインテリア(内装)設計は、イギリスの、アルダム・ヒートン(Aldam Heaton)社に依頼。一部、日本の、工学博士・建築家である、塚本 靖(tsukamoto yasushi)がインテリア(内装)の設計に関わっており、椅子やカーテン(curtain)、壁紙の布地は、日本の京都の川島(kawashima)織物が担当しています。
1910年代に入ると、日本は、近代的な大型船に関し、外国の製品を使用しながらも、国産(日本で建造)出来る様になり、外国(造船先進国)からの輸入に頼る必要はなくなりました。しかしながら、客船のインテリア(内装)に関しては、外国(客船のインテリア(内装)の先進国)の装飾業者に依存する時期が、しばらく続きました。
写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真左。大洋丸(taiyomaru。日本の客船。14,458総トン(GT))の、一等(first class)の食堂(dining room・レストラン)。大洋丸(taiyomaru)は、第一次世界大戦の賠償船として、日本政府が、ドイツから取得した客船(1911年完成)です。日本の業者は、この船から、ドイツの、合理的な、客船の内装の設計方法や新素材を学習しました。
写真右。浅間丸(asamamaru。1929年完成。日本の豪華客船。16,947総トン(GT)。三菱(mitsubishi)造船、長崎(nagasaki)造船所製)の、1等(first class)の社交室。浅間丸(asamamaru)は、インテリア(内装)の設計を、イギリスのワーリン・ギロー(Waring & Gillow)社に依頼した事から、「浅間丸(asamamaru) 国辱論争」が起こりました。その後の、日本の客船のインテリア(内装)では、ますます、日本の装飾業者や、日本人建築家が活躍する事になりました。

写真右上、浅間丸(asamamaru。1929年完成。日本の豪華客船)の、2等(second class)客用の喫煙室(smoking room)。浅間丸(asamamaru)の2等(second class)客用の公室(乗客の共用場所)の施工は、大林組(obayashigumi。日本の大規模建設会社の一つ。1892年創業)が行いました(以降、大林組(obayashigumi)は、客船のインテリア(内装)の施工を多く手がける様になります)。日本の業者が、豪華客船のインテリア(内装)に関する知識を蓄え、技術向上させて来た時代です。
写真右下。氷川丸(hikawamaru。1930年完成。日本の豪華客船。横浜船渠(かつて、横浜にあった造船所)製)の、一等(first class)喫煙室(smoking room)。氷川丸(hikawamaru)のインテリア(内装)は、フランスのデザイン(design)会社が設計を手がけました。当時、フランスの豪華客船、イル・ド・フランス(Ile de France。1927年完成)が、当時、流行し始めた、アール・デコ(Art Deco)を船内に取り入れ、評判を呼んでいました。1930年に建造された、日本の豪華客船、秩父丸(chichibumaru。17,526トン(GT)。浅間丸(asamamaru)と共に、「太平洋の女王」と称された)、そして、氷川丸(hikawamaru)は、その流行を、いち早く取り入れました。

写真左下。浅間丸(asamamaru。1929年完成。日本の豪華客船)の、一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)。川島(kawashima)織物が、室内装飾設計を担当。高島屋(Takashimaya。日本のデパートchain。本店は、大阪。1831年、京都で創業したデパートchainで、大阪には、1898年に進出、東京へは、1922年に進出しました)も、浅間丸(asamamaru)の、一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)の設計を手がけています。既に、日本の豪華客船の客室の設計においては、日本の装飾業者が活躍していました。
写真右下。浅間丸(asamamaru。1929年完成。日本の豪華客船)の、一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)の椅子の張地。川島(kawashima)織物、制作。川島(kawashima)織物(下の補足説明参照)は、日本で、椅子の織地、カーテン(curtain)、壁面装飾織物等で、いち早く、上流階級の西洋式の居間(living room)の空間をデザイン(design)していた会社です。
川島(kawashima)織物:1843年創業の、京都の、織物・インテリア(内装)・繊維会社。明治(meiji)宮殿(1888年に建てられた、日本の天皇の、東京の宮殿の建物。1945年、空襲により焼失(天皇の宮殿は、アメリカ軍に、直接狙われた訳ではなく、類焼による焼失))や御料車(日本の天皇及び皇族(天皇の一族)が利用する、馬車・自動車)等、皇室(日本の天皇家)関連の室内装飾設計を多く手がけている。また、早くから豪華客船の船内装飾に携わり(いち早く、1903年に、日光丸(nikkomaru)の客船のインテリア(内装)を手がけている)、日光(nikkomaru)丸や香取丸(katorimaru。日本の客船。1913年完成。10,513トン(GT)。三菱(mitsubishi)造船、長崎(nagasaki)造船所製)、そして浅間丸(asamamaru)の、一等(first class)特別客室(deluxe room)、氷川丸(hikawamaru)の、一等(first class)特別客室(deluxe room)等、数多くの、日本の客船の船内装飾設計を行っている。
欧米では、1920年代後半になると、客船のインテリア(内装)が飛躍的に進化します。それまでは、陸上建築の後発文化である客船のインテリア(内装)は、過去の陸上建築の様式を引用するばかりでした。しかし、船体が最新の科学技術からなるのに対し、船内が、いつまでも過去の様式であるのは、おかしいと言う事で、客船インテリア(内装)にも、当時の陸上建築で流行し始めていたアール・デコ(Art Deco)と言う様式が採用され出したのです。よって、当時の日本の客船には、当時の欧米の客船同様、欧米の古典的な様式の内装の客船と、最先端のアール・デコ(Art Deco)の装飾の内装を持つ客船と、いずれの客船も混在しています。これは、欧米における客船のインテリア(内装)の過渡期が、そのまま日本の客船に反映されていたからです。ところで、注目すべきは、イギリス等の豪華客船の内装の先進国の装飾業者に依存する中、京都の川島(kawashima)織物を始め、大阪の高島屋(Takashimaya)や三越(Mitsukoshi)(日本で最もbrand力の有る、デパートchainの一つ。1673年東京で創業。本店は、東京の日本橋(nihonbashi)に有る日本橋(nihonbashi)店。東京に基盤を置く)と言った、日本のデパートの装飾部門、そして、大林組(obayashigumi。日本の大規模建設会社の一つ。1892年創業)や、(日本の)造船所の技術者達が、豪華客船の内装に関する知識を蓄え、活躍し始めていた事です。そして、部分的ではありますが、重要な一等(first class)の公室(乗客の共用場所)を除いた、二等(second class)公室(乗客の共用場所)や、一等(first class)特別客室(deluxe room)等に、日本趣味あふれる独特な空間を設計していました。
日本における客船のインテリア(内装)の大きな転換期として忘れてはならないのが、1929年に完成した、日本の豪華客船、浅間丸(asamamaru。16,947総トン)の存在です。この船の建造を境に、日本の客船インテリア(内装)の様式は、大きく転換しました。浅間丸(asamamaru)は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社を代表する、太平洋航路の豪華客船で、建造の段階から、設備、サービス(service)等、全てにおいて一流の物が必要とされました。しかし、船の所有会社(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)と造船所(三菱(mitsubishi))が判断した、当時の一流のデザイン(design)とは、従来通りの、ヨーロッパの伝統的な装飾様式を得意とする、イギリスの老舗(歴史のある)装飾業者(ワーリン・ギロー(Waring & Gillow)社)に設計を依頼する事でした。この判断に、多くの、日本の建築家達が、失望しました。1929年と言えば、高島屋(Takashimaya)や三越(Mitsukoshi)、白木屋(shirokiya。17世紀創業。現在の、東急(tokyu)デパート(日本のデパートのchainの一つ))と言った、日本のデパートの装飾部門が、十分に、豪華客船の内装に関する知識や技術を蓄えて来た頃です。また、既に、中村 順平(nakamura jyunpei)等の、日本の建築家も、日本の豪華客船の船内の装飾設計に、実績を挙げ始めていました。そのため、浅間丸(asamamaru)のインテリア(内装)は、日本国内の装飾業者、そして、日本人建築家の手によってなされるべきであると言う主張が、日本の建築界において、声高になされる事になったのです。興味深い事に、当時の、日本の工芸雑誌の一つ、「帝国工芸」には、「船内装飾に関する特別号」と言う、特集記事が組まれ、東京大学、建築学科教授、岸田 日出刀(kishida hideto)や、京都大学、建築学科教授、武田 五一(takeda goichi)等、そうそうたる顔ぶれの、日本の建築家達が、名を連ね、「この度の、浅間丸(asamamaru)のインテリア(内装)を、イギリスの装飾業者が手がけた事は、日本の恥である」と言う趣旨の論稿を寄せています。一部の論者は、浅間丸(asamamaru)を「国辱船」と称している事からも、彼等の怒りが、どれ程の物であったのか、想像に難くありません。そして、この特別号は、大きな反響を呼んだと言います。以降、日本の客船のインテリア(内装)は、日本人の建築家達によって、「現代日本様式」と言う、独自の様式で設計される事が、一般的になって行きます。また、装飾材料も、イギリス製等から、国産へと移行して行きます。この様に、日本が、自国の客船のインテリア(内装)を、イギリス等の豪華客船の内装の先進国の装飾業者に依存していた時代の最高峰(最終到達点)とも言える、浅間丸(asamamaru)の完成が、「現代日本様式」へと転換する、大きなきっかけとなったのです。
写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

浅間丸(asamamaru)の、1等(first class)読書室の机と椅子(ワーリン・ギロー(Waring & Gillow)設計。1929年)。ほとんどの、第二次世界大戦前の日本の客船が、第二次世界大戦で沈み、その調度品が現存しない中、幸運にも陸に逃されて残っていた物。

写真上、浅間丸(asamamaru。1929年完成)の、1等(first class)読書室(ワーリン・ギロー(Waring & Gillow)設計)。
写真下、浅間丸(asamamaru1929年完成)の、1等(first class)社交室(ワーリン・ギロー(Waring & Gillow)設計)のカラースキーム。日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、とりわけ、客船に、この様な、王道とも言える重厚感のある、ヨーロッパの古典様式を採用する事を好んだ。
1929年の、「浅間丸(asamamaru)国辱論争」を境に、高く評価される様になった、日本独自の客船のインテリア(内装)様式が、「現代日本様式」です。
次回の投稿からは、この展覧会(exhibition)の主題(中心的なテーマ)と言える、「現代日本様式」と、日本の客船のインテリア(内装)設計における、日本の著名な、建築家達の活躍について、見て行きたいと思います。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他2(すぐ下でリンクを付けた投稿)へ続く。。。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3524268?&sfl=membername&stx=nnemon2