以下、「以下、以下の投稿の続きです。」と言う文までは、前回までの投稿と重複します。
ちなみに、後述する、船の科学館の建物は、建物の老朽化により、今年、閉館・取り壊しが発表され、現在建物の解体工事中です。なお、博物館自体は、場所を移転し、営業を再開する検討は、引き続き、行われている様です。
参考に、以下、「」内。私の前の投稿文より。。。
「私は、女性に、結構合わせているようでいて、その一方において、実は、女性に結構、自分の趣味に付き合って貰って来てもいます。今の彼女も含み、相手の女性は、それはそれで、私色に染まって、私の影響を受けて、私と共に、楽しんで来てくれました(楽しんでくれてます)。ちなみに、私の今の彼女は、元々、好奇心が強い性格です。」
「私は休日を外で過ごす事は好きで、美味しい物を食べる事、自然の中を散歩する事、温泉に入浴する・温泉旅館等の温泉宿泊施設に宿泊する事、芸術や花を愛でる(鑑賞する)事等は、好きなのですが、本格的な登山やキャンプ等のアウトドアは好みません。
私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになりました。」
「前述の通り、実は、私の気が多い性格から、私の今までの、恋愛の結末のほとんどが、交際相手の女性にとっては、GO
BANG‘Sの曲の、「BYE-BYE-BYE」の歌詞のような結末で終わらせてしまったのですが(本当に、ごめんなさい)、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)と別れた原因も、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)には、本当に、申し訳なかったのですが、私が、私の今の彼女の事を、とても好きになってしまった事です(ちなみに、その時、私の今の彼女は、とても若かったのですが、その時、私は、別に、私の今の彼女の、その点に、惚れた訳では全くありませんw)。
私は、私の元カノと、親しい友人として、現在まで、ずっと交流が続いています。ちなみに、私の元カノは、私と別れた後、今、夫となっている男性(結婚した男性)とは違う男性達との交際やデートの経験を経て(ちなみに、私は、その事に関して、よく、その元カノの相談に乗る等していました)、比較的、最近の話なのですが、優しく頼りがいのある素敵な男性(彼女の事を、十分に幸せにしてくれるであろう男性。ちなみに、その男性は、長身でイケメンですw)を見つけて結婚をし、今は、主婦として幸せに暮らしています。
また、私の今の彼女と、私の元カノは、元々、面識はあり、知り合い同士であったのですが、今は、親しい友人同士となっていて、私の今の彼女と、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)は、二人きりで遊びに出掛けたりもしています。二人とも、趣味や価値観があって、とても仲が良いようです。それは、もしかしたら、前述の通り、私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになったのですが、その事も、関係しているのかもしれませんw」
「ちなみに、私の今の彼女(以下、彼女と書きます)とは、私が今までに交際して来た女性の中で、交際期間最長記録を更新中ですが、私が彼女に振られない限り、私は、彼女の事を、これからも、ずっと大切にして行きたいと思っています。」
以下、基本的に、2011年の10月の中旬に行った投稿の再掲で(投稿文は、2011年の10月の中旬の投稿を前提としています)、2011年の9月の下旬に、当時、交際していた、私の元カノ(以下、彼女と書きます)と、お台場(odaiba)を散歩して来た時(以下、この日と書きます)の物です。
9月の下旬に、お台場(odaiba)を散歩して来た時の物です。
お台場(odaiba)は、東京中心部の海沿いに有る、住商複合地区で、1980年代から開発が始まりましたが、本格的な、開発は、1990年代に入ってからで、特に、ほぼ現在の形に整ったのは、1990年代半ばの事です。
この時の、お台場(odaiba)散歩の主目的は、船の科学館を訪れる事でした。船の科学館は、1974年に開館した、主として船に関する展示を行う、規模の大きな、海事博物館(maritime
museum)です。日本では、海事博物館(maritime
museum)は、他に、神戸(kobe)(日本の西部に位置する大都市。横浜(東京圏の南部に位置する)と共に、日本を代表する港湾都市)の神戸(kobe)海洋博物館(1987年開館。前身は1962年に開館した神戸(kobe)国際港湾博物館。海事博物館(maritime
museum)としては、世界有数の規模。wikiより。。。)等が、有名ですが、東京の、船の科学館は、建物の老朽化により、9月30日を以って、休館となりました。閉館ではなく、休館としている事から、建物を改装するか、建て替えるかして、再び開館する可能性を残していると言う事ですが、今後の詳細な計画は、発表されておらず、このまま、閉館となって、建物が取り壊される(そして、その土地が売却される、されないにかかわらず、その土地に、別の用途の建物が建つ)可能性も、ある程度の確率であると思います。
今回は、船の科学館の休館(事実上、閉館の可能性もあり)前の見納めと言う意味で、船の科学館を訪れました。
私は、子供の頃、博物館が好きで、国立科学博物館や、交通博物館、科学技術館に、よく行きましたが(幼い時は、親に連れて行ってもらいましたが、小学校4年生頃からは、同じ興味を持つ友達(達)と、小学生だけで、行く様になりました。ちなみに中学生になってからは、ほとんど行かなくなりました)、船の科学館は、国立科学博物館、交通博物館、科学技術館程は、行きませんでした。理由は、(私が、子供が頃は、まだ、お台場(odaiba)が、商業地区・住宅地区として、本格的に開発される前だったので)、交通が不便だったからです。
今回、船の科学館は、とても久しぶりに、訪れました。
以下、以下の投稿の続きです。船の科学館に関しては、以下の(すぐ下でリンクを付けた)2つの投稿と合わせて、ご覧下さい。
お台場 船の科学館1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3873356?&sfl=membername&stx=nnemon2
お台場 船の科学館2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3873355?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真以下15枚。船の科学館の続き。。。船の科学館の詳細については、すぐ上でリンクを付けた2つの投稿を参照して下さい。
写真以下15枚。船の科学館(及び、その周辺)。

船の科学館の建物。船の科学館の建物は、1974年に完成した物で、外観は、60,000トン級の、豪華客船を模した物となっています。

写真中央に見える大砲の様な物は、船の科学館の屋外展示物の一つで、戦艦、陸奥(mutsu)(基準32,720トン(1936年の大改装後は、基準39,130トン)。1921年。日本)の41cm主砲身の一つです。陸奥(mutsu)は、完成当時、世界最大級の主砲を有する戦艦でした。ちなみに、陸奥(mutsu)は、日本海軍の戦艦、長門(nagato)型戦艦の2番艦として建造されました。長門(nagato)型戦艦の1番艦として建造された、長門(nagato)(基準32,759トン(1936年の大改装後は、基準39,050トン)。1920年。日本)は、完成当時(1920年)、世界最大の主砲(41cm砲)を有する戦艦であると共に、世界最大・最強・最高速の戦艦でした(wikiより)。長門(nagato)型戦艦(長門(nagato)・陸奥(mutsu))は、当時、アメリカ海軍、イギリス海軍と共に、世界三大海軍と言われた、日本海軍の象徴でした。


写真以下2枚の船は、それぞれ、船の科学館の屋外展示物の一つで、宗谷(soya)(手前の船)と羊蹄丸(yoteimaru)(奥の船)です。


写真以下2枚。宗谷(soya)(下の補足説明参照)。


宗谷(soya)(南極観測船):以下、宗谷(soya)に関する説明は、wikiを参考にしました。宗谷(soya)は、1938年に完成した、日本の砕氷船であり、日本の、初代の南極観測船(南極観測船としてのデビュー(debut)は、1956年)です。宗谷(soya)は、南極観測船として、デビュー(debut)するまで、複雑な歴史を辿っています。宗谷(soya)(1938年に完成)は、元々、当時のソビエト(Soviet)連邦の通商代表部の発注を受けて、日本の造船所(造船会社)が製造した、三隻の砕氷型貨物船の内の一つで、同時に発注を受けた、他の二隻の、砕氷型貨物船同様、当初は、ロシア(Russia)語の船名を持つ船でした。しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソビエト(Soviet)連邦への引渡しはなされずに、他の二隻の船と同様、日本語の船名を持つ、日本の商業用の船として完成しました。宗谷(soya)は、ソビエト(Soviet)連邦向けに建造された、耐氷能力(氷に耐える能力)と、当時としては珍しい、当時、世界最新のイギリス製水深探知機(sonar)を備えた、民間貨物船であった為、日本海軍の興味を引いていました。日本海軍は、時勢を鑑み、測量業務が出来、なお且つ、輸送能力を持つ船を探していたのです。しかしながら、宗谷(soya)は、ソビエト(Soviet)連邦との契約問題が、こじれた為、直接、日本海軍には、就役せず、民間の貨物船として、運行していました。1938年12月、日本海軍は、227万5000円を、宗谷(soya)の購入費として計上しました。同年、12月20日、ソビエト(Soviet)連邦通商部は東京民事裁判所に提訴し、前払い建造費の返還と違約金の支払いを求めました。宗谷(soya)の購入問題は、ソビエト(Soviet)連邦政府が、在ソビエト(Soviet)連邦日本大使に、解決を迫る程の大問題に発展しました。結局、裁判は、1941年1月に、ソビエト(Soviet)連邦政府と在ソビエト(Soviet)連邦日本大使との交渉で政治決着しました。
1940年2月、宗谷(soya)は、正規に、日本海軍所属の船となり、軍事用の船に改装されました。日本海軍は、宗谷(soya)を、千島(chishima)列島・樺太(Sakhalin)等の北方海域の後方補給・物資輸送及び、同海域の、強行測量艦として、運用するつもりでいました。宗谷(soya)は、第二次世界大戦中、戦局の推移により、北洋のみならず、南洋にも進出し、測量・輸送等の任務につきました。
宗谷(soya)は、第二次世界大戦直後は、樺太(Sakhalin)と北海道(hokkaido)の小樽(otaru)の間を往復し、引き上げ者を、次々と、日本本土へと運びました。その後は、海上保安庁所属の、オホーツク(Okhotsk)海配属の、砕氷能力を持つ灯台補給船として、活躍していました。
日本は、1950年代に南極観測を行う事を計画しましたが、IGY(国際地球観測年)南極分科会では、第二次世界大戦で日本に遺恨を持つ複数の国から強硬な反対を受けました。アメリカ、ソビエト(Soviet)連邦等の大国が、支持にまわり、最終的に、日本の南極観測への参加が認められました。ノルウェー(Norway)が国力不足を理由に南極観測を行わない事を表明した為、当時ノルウェー(Norway)が領有権を主張していた地域が日本に割り当てられました。これにより、日本は、1956年に南極観測を開始する事を決定しました。南極観測船の候補として、当時の日本国有鉄道所属の、宗谷丸(soyamaru)(1932年に完成した、日本の、本格的な砕氷船。第二次世界大戦以前は、北海道(hokkaido)と、当時南半分が日本領だった樺太(Sakhalin)を結ぶ連絡船として活躍。第二次世界大戦後は、青函連絡船(本州(honsyu)と北海道(hokkaido)を結ぶ連絡船に転属)、宗谷(soya)等が選ばれました。砕氷能力や、船の大きさは、宗谷(soya)よりも、宗谷丸(soyamaru)が勝っていましたが、改造予算の問題や耐氷構造(氷に耐える構造)、船運の良さ等から、最終的に、宗谷(soya)が、南極観測船に決定しました。これにより、宗谷(soya)は、南極観測船となる為の、大規模な改装を受けました。
1956年11月、宗谷(soya)は、南極観測船として、東京港より、南極へ出発しました。1957年、1月29日、宗谷(soya)に乗船して来た、日本の第1次南極地域観測隊が、南極に、日本初の南極観測基地である(アジアの国の南極観測基地としても、最初。もっとも、現在でも、日本以外のアジアの国で、南極観測基地を有するのは、インド、中国、韓国、パキスタンのみなのですが。。。)、昭和(syowa)基地(日本の4つある南極観測基地の一つで、日本の主力南極基地となっている。現在は、大小60以上の建物から成る)を開設しました。その後、宗谷(soya)は、1965年に、南極観測船としての任務を、後継の、日本の南極観測船、「ふじ(fuji)」に譲るまで、南極観測船として活躍しました。ちなみに、日本の、現在に至るまでの、歴代の南極観測船は、以下となっています。宗谷(soya)(1956年から1965年)、ふじ(fuji)(1965年から1983年)、しらせ(shirase)(初代)(1983年から2008年)、しらせ(shirase)(二代目)(2009年から)。日本の歴代の、4隻の南極観測船は、宗谷(soya)以外は、全て、最初から南極観測船として、設計され、建造された物です(宗谷(soya)については、上の説明、参照)。
写真以下2枚。青函連絡船、羊蹄丸(yoteimaru)。

奥の船(写真右側の船)が、羊蹄丸(yoteimaru)。

1908年から、1988年までの歴史において、全部で、57隻の青函連絡船(下の補足説明参照)が就航しましたが、羊蹄丸(yoteimaru)(8,311トン)は、50番目に就航した、青函連絡船です(wikiを参考にしました)。1965年に就航し、1988年に、青函連絡船が廃止されるまで、青函連絡船として活躍しました。
青函連絡船:1908年から、1988年まで、青森(aomori。本州(honsyu。日本最大の島。東京圏や、大阪圏、名古屋(nagoya)圏等を有する)の最北端の県である、青森(aomori)県にある中都市(中規模程度の人口の都市)で、青森(aomori)県最大の都市。本州(honsyu)にある、大都市・中都市(中規模程度の人口の都市)の中で、最北端に位置する)と、函館(hakodate。北海道(hokkaido)の南部にある中都市(中規模程度の人口の都市)。北海道(hokkaido)の大都市・中都市(中規模程度の人口の都市)(もっとも、北海道(hokkaido)の大都市は、札幌(sapporo)だけですが)の中で、最南端に位置する)を結んでいた、日本国有鉄道が、運営していた(末期の頃は、JR北海道(hokkaido)が運営していた)、連絡船です。まだ飛行機の旅が一般的で無く、北海道(hokkaido)と本州(honsyu)を結ぶ海底トンネル(tunnel)も、まだ完成していなかった時代には、東京から北海道(hokkaido)(日本の最北端の地方)へ行くには、まず、長距離列車で、本州(honsyu)の東北地方の最北端の青森(aomori)へ行き、そこからフェリー(ferry)(青函連絡船)で北海道(hokkaido)へ渡りました。青函連絡船は、1970年代に、飛行機の利用者の、急速な増加と共に、利用者が、減少し、1988年に、青函(seikan)トンネル(北海道(hokkaido)と本州(honsyu)を結ぶ海底トンネル(tunnel)。全長約54kmの鉄道用のトンネル(tunnel)で、世界一長い、交通機関用のトンネル(tunnel))が開業すると共に、廃止されました。ちなみに、飛行機(での移動)の大衆化によって、東京(や大阪)と北海道(hokkaido)を結ぶ交通手段として、速くて所要時間が短い飛行機が圧倒的に優位な立場にある現在においては(例えば、東京の羽田(haneda)空港と札幌(sapporo。北海道(hokkaido)最大の人口を有する都市)の新千歳(shinchitose)空港を結ぶ航空路線は、2006年には単一航空路線としては世界で初めて年間乗降客が1,000万人を突破し、(近年利用者が減少に転じましたが)直近でも年間900万人以上の利用がある、世界一の巨大航空幹線(1978年、千歳(chitose)空港時代に旅客数世界最多となった)となっています。wikiより)、東京・大阪と北海道(hokkaido)を結ぶ寝台列車は、何れも、速さで勝負する訳ではなく、かと言って、値段(安さ)で勝負する訳でもなく、高級戦略を採り、列車での、ゆとりの有る旅を楽しむ人々の為の、高級な特急列車(express)となっています。
宗谷(soya)と羊蹄丸(yoteimaru)は、乗船して見学出来ます(羊蹄丸(yoteimaru)については、厳密には、見学出来ました)が、今回、船の科学館は見納め(船の科学館は、9月末をもって休館(事実上、閉館の可能性もあり))&船の科学館は、とても、久しぶりに訪れたと言う事で、船の科学館の屋内展示物を、割りと、ゆっくり見ていたら、思った以上に、時間が経ってしまって、時間が足りなくて、(今回)、宗谷(soya)と羊蹄丸(yoteimaru)に乗船出来なかったのが、少し残念でした。


向こうに見える(写真右側の)、帆船は、日本丸(nipponnmaru)二世。

写真以下3枚。日本丸(nipponnmaru)二世。

日本丸(nipponnmaru)二世(約2,600トン)は、日本の、商業用の船の船員を教育する為の帆船で、1984年に使用が開始されました。姉妹船に、海王丸(kaioumaru)二世があります。世界でも、有数の高速帆船となっています(wikiより。。。)。ちなみに、日本丸(nipponnmaru)二世の前に活躍していた、日本の、商業用の船の船員を養成する帆船、日本丸(nipponnmaru)(約2,300トン。1930年就航。姉妹船に海王丸(kaioumaru)がある)は、現在、横浜(東京圏の南部に位置する大都市。東京areaの海の玄関口(gateway)である港湾都市)の都心部の海沿いに、永久保存・展示されています。



以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
お台場 History Garage他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3873353?&sfl=membername&stx=nnemon2