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[韓国史散歩]死んだママの上で濡れる食べた子供忘れることができない...

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細分類: 自由テーマ KO 255 richkoba 43,123

[書評] Kang Yo-Baeが描いた済州 4·3 椿の花落ちる
 
  Oh Seung-Joo(dajak97) 
  

"200-2"の歴史的な意味

1948年 5月 10日南韓だけの単独選挙が開かれた.この時総議席数は 200席だったが 2個選挙区の無效によって制憲議会は 198人の国会議員で出帆した.この "-2"という数字は現代史であまり照明を受けることができなかったがここには二つの理由がある.一つは大韓民国アイデンティティに傷になるからで,もう一つは初代大統領である李承晩政治人生の汚点を意味するからだ.

李承晩政府当時にはこの二つが事実上同義語だった.李承晩は現代史で "屈従"という先例を残して権力を享受した.自主独立のために財産とすべての人生を返った独立運動家とその子弟たち,日帝に協調して家産を守って権勢を享受した親日派とその子弟たちの運命は李承晩が米軍政に屈従して親日勢力を大挙再採用するによって変わってしまった.

このように現代史は "屈従"という誘惑でめったに脱することができなくて来た.日常になった財閥の便法と脱法,政治家と公職者の日常的な腐敗相はこの "屈従の現代史"をもっと輝かしている.

済州の北済州甲·乙 2個選挙区の無效はこのような "屈従"に異意をつけた重要な政治的事件だった.(翌年 5月 10日この二つの傷(?)は速かに他の "屈従"野で満たされた)

この "-2"という歴史的メッセージを投げた罪で当時済州人口 30万名の 1/10人約 3万人が死んだ.(済州 4·3 事件真相調査報告書(2003年通過)

選挙シーズンごとに主要政党が済州で競選を始めることは仮に済州が国土下端にあるからではない.選挙の向背を予測するカスティングボート役目を長い間自任した済州の民心はその起源がすごく古かった.

例えば 17代大統領選挙当時李明博候補とチョン・ドンヨン候補の全国投票率は 48.7% 台 26.1%だった.こんな差異は 22.6%で二人の候補の間に一人の有力な大統領選挙候補の入って行くひまがあるほどだった.

済州の投票率はどうだったろうか?李明博候補 38.3% 対チョン・ドンヨン候補 32.4%にわずか 6%P 未満の差だった.それさえも政治色が減るというソウルも 53.1% 台 24.4%でダブルスコア以上の結果が出た時だ.済州島のこの妙な政治的均衡感覚はどこでできたことだろう?

済州 4·3を言い表す "三種類心"

済州 4·3を感性的に表現したら,これを貫く三つの心が存在する.第一,5·10 南韓の単独選挙が済州島の拒否でびっこになるとここに激怒した李承晩大統領は "済州を火の海で作ってしまう"と言う暴言を大っぴらに吐き出した.

実際済州 4·3の全過程にかけて一番悽惨な集団虐殺と焦土化作戦が恣行されたことは大韓民国政府樹立 3ヶ月ぶりの 1948年 11月 17日李承晩が大統領令 31号で済州島全域に戒厳令を宣布した頃だ.済州島に下った西北青年団員が "李承晩大統領の許諾なしに誰が裁判もなしに民間人たちをでたらめに殺すことができる権限がありますか?"と証言するところのように済州 4·3の一次的責任は李承晩にある.

二番目は西北青年団の "憎悪心"だ.一名 "ソチォング(西青)"と呼ばれる西北青年団は当時北朝鮮で社会改革をすると植民地時代の経済的,政治的既得権を喪失して南下した勢力たちが 1946年 11月 30日ソウルで結成した極右反共団体だった.

したがってこれらは共産主義者と疑う者には無条件的な攻撃を加えた.自分たちの基盤をつぶしてしまった勢力に対する極度の憎悪心を解くことは西北青年団青と南労党の積極的な活動誌である済州島の出会いは悽惨なホロコーストを生んだ.

三番目は済州道民の公憤だ.済州島は李承晩の反共国是のため被害をたくさん見た地域に属するのに,或者は済州 4·3を "共産主義者たちの煽動と住民たちの同調"で見て "4·3特別委員会"を廃止しなければならないという主張もしかし,本質的なことは済州道民が米軍政と政府の行動に公憤していたという点だ.これのためには済州道民の珍しい履歴を察しなければならない.

済州島が不毛で油気がなくて孤立した地だと言ってその精神さえ孤立したことではない.済州は古くから最後の流配地で数えられたが,流たく全両班たちは済州の若者達に学問を伝授する事を楽しみにした.このために特に済州島には遺風と学識が生活ぶりにすべて等しく反映されている.

一例で国語学者李基文は日照閣で発行した諺辞書で解放以後の重要な業績で済州島諺 1,2(Jin Sung-Gi編著)を紹介して辞典編纂に手伝ってもらったところが少なくなかったと説明した.私もお母さんから数十年の間 "ヘテ(懈怠)するな"は訓戒を持ったが,これは "緩みするとか怠慢なのないでね"は一般では珍しい漢字語だ.

解放以後米軍政が遅く上陸した理由もあるが,済州道民たちはまさに解放感を一番深く味わった人々だった.この時南韓ではほとんど唯一に親日派に対する清算がどの位成り立ったし,住民たちが自治的に治安と政策を遂行した.

済州 4·3の手始めと言うに値する事件は 1947年 3月 1日済州地域あちこちで開闢以来最大人波で3万人位が参加した "3·1節記念済州島大会"だった.3万人が雲集したこともすごいが住民 6人が死んで 8人が大きくけがをした "3·1節発砲事件" 直後ここに抗議して済州島全体職場の 95%で166個機関·団体がストライキに加勢した "民官ゼネスト"が済州道民の認識を代表すると言える.

現代史家Seo Joong-Seok教授は椿の花散る(麦)の付録論文で "済州島は畑が 99%のうえに地が不毛で油気がなくて収穫が少ない関係で陸地に比べて階級葛藤の所持が微弱だったし血続き共同体的要素と社会経済的性格によって道民たちが易しく団結することができる土台になった"と記録した.

この本の資料2 済州 4·3抗争日誌によれば 3·1節発砲事件以後断行された民官ゼネストを置いて警務部(今の警察庁) Choi Kyung-Jin次長が "元々済州島は住民の 90%が左翼色彩を持っている"と言ったが(161ページ) これは単線的な思考に違いない.ただ済州人たちは腐敗して屈辱的な既得権の不條理な政策に異意を申し立てるほどに意識があっただけだった.このような心たちの衝突は済州 4·3という不可欠な悲劇を作り出した動力で作用した.

ここで指摘して思わなければならない重要な事実は当時済州人の民心だ.済州 4·3委員会に申告された犠牲者の中で 78.1%は討伐隊によって犠牲されたが,12.6%の1,764人は武裝隊によって犠牲されたことで現われた.(157ページ)

"昼には討伐団やつらが,夜には暴徒たちが"という言葉が済州だっての間でよく挙論されたところのように済州人たちは討伐隊と暴徒たちに対して共通で反感を持っていた.私が幼い時友達とどろで遊んで服が汚なくなるとか頭を長い間削らないh見たくなく長くなる時ならお母さんは "暴徒身なり"とか "暴徒頭"と叱ったりしたが,この書き入れ時でも済州人の民心をうかがうことができる.済州である 90% 以上が "赤色"という当時高位級の論評は度が外れた観念化でしたがって事実と違う.

Kang Yo-Baeの絵本椿の花負けてから出た
  
絵説明:▲ "済州 4·3" 60周年を記念してKang Yo-Bae画伯の椿の花散っている途中麦出版社で出刊された.当事者 34人の証言を済州 4·3 専門家Kim Jong-Minさんが整理して絵と共に鮮やかに当時の状況を伝えている.
ⓒ 麦出版社椿の花負ける
 
今年で済州 4·3 60周年を迎える.彼にふさわしく盛りだくさんの行事が済州で開かれる.出版に負う置く人として私はKang Yo-Bae画伯の絵本椿の花散る(麦)が出たと言うのに喜びを隠すことができない.

本を見るやいなや一晩中挿し絵と証言を察した.大学時代慣れるように見た絵たちが一本で縛られた点が好き,"済州 4·3専門家Kim Jong-Min"さんが足品を売って "当事者"たちの証言を採録したという点も良い.この本は 1998年(ハックゴゼ)で出した椿の花ジダをまた出したことだが,椿の花負けるというKang Yo-Bae画伯が 1989年から 3年間 "済州 4·3抗争"を扱った絵 50点を 1992年に発表した展示会の題目だ.

Kang Yo-Bae画伯は "奇行"でもっと有名だが,面白い例話が一つある.風と風浪がひんぱんな済州島でも激しい雨風が吹き荒んだ夜にKang Yo-Baeは筆とカンバスだけ手に持って十番(回)も越すように海に行って来たと言う.それは波と雨風を画幅に盛るためだ.

現在 "民族美術人協会" 会長と "済州 4·3 研究所" 理事長を引き受けている.素材は紙,ペン,墨,カンバスを選り分けなかったし証言の内容や雰囲気によって違うように選択した.やっぱり済州民衆の日常事と当時の境遇を当事者たちの観点でいきいきと描いた.それでもっと衝撃的に近付く.特に 119ページの "赤ん坊"と 133ページの "がらんとした乳"は当時の悽惨な日常をそっくりそのまま説明してくれる."赤ん坊"に対する証言はKim Seok-Boさん(朝天邑北村里)の 1998年証言に盛られている.

"人々が動搖して散らばり始めると,軍人たちが人々頭の上で鉄砲を乱射したが,その過程で 4~5人の人が死にました.その中には一奥さんもいたが,背負われていた赤んぼうがその死んだお母さんの上にのめて濡れる洗いますね.その日その所にあった北村里人々はその場面を忘れることができないつもりです."(118ページ)

済州語に "ソックソムする(속솜하다)"と言う言葉がある.おこる "黙るとかとても小さく言う"と言う意味だ.私は済州 4·3が勃発してから 30年,一世代位去る 1978年に生まれた.そして 4·3というのが分かって最初でお母さんに聞いたことが二十の歳になった時だから事が起ってから 50年が経った時であった.

大人たちはその頃の仕事を口に出すことを徹底的にタブーの時したしそれを内面化した.4·3の記憶は済州人々の日常習慣を変えてしまった.お母さんと叔母が偶然に話し合うことを入った.あまり内緒話ではなかったがソックソム(속솜)するように言った.この場面が長らく変だった.

絵説明:▲ 頭に鉄砲を当たって死んだママの上に伏せて濡れる洗っている子供が 4·3の悽惨さと済州人の悽絶な生命力を端的に見せてくれている.Hyun Ki_youngの自伝小説"地上にさじ一つ)(実践文学社)で "涙は下がってさじは上がって"という言葉で済州人のこのような精神を圧縮して表現した.
ⓒ 麦出版社

仮にお母さんと叔母だけではなく大韓民国全体が済州 4·3にソックソム(속솜)した.すぎ去った事の真実を明らかにしようと熱弁を吐いた参加政府もやっぱり済州 4·3の巨大な根を触ることができなかった.

私の西洋美術史巡礼を使って "デ-アスポだと"という言葉を教えてくれた "在日朝鮮の 2歳"と同時に東京ケイザイ大学現代法学部教授であるSeo Kyung sikさんは "お勧めする言葉"から ""4·3"は分からなくても良い事件ではなくて分からなければならない必要がない事件でもない.4·3は "分からない"と言うの自体が恐ろしくて恥ずかしいそんな事件であることだ.私たちは自分が何が分からななのかを分からなければならない.平和と人らしさのために"(9ページ)と言った.

1987年当時大韓民国が手続き的民主化,形式的民主化が実現したことにとどまったように済州 4·3 もただ "特別法"が通過されただけそれの歴史的意味やこの事件が与えるメッセージが分からなかったし,そうだから "4·3 特別委員会廃止"という言葉が大っぴらに出回るのだ.

ただ済州人ばかりの問題,被害意識の問題,感性の問題,共産主義者問題にだけ限定するのではなくこれからはもうちょっと成熟した関心で細心に省察しなければならないじゃないか?もう還暦になったから "物心"が入るに値しなかったか?
 

付け加える文 |本の挿し絵は麦出版社の同意を得て使います.(完)

出処:oh my news(韓国版)
翻訳: Richard Whang(richardwhang@hanmail.net)(堂堂歴史研究所長)

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[韓国史散歩]死んだママの上で濡れる食べた子供忘れることができない...

[書評] Kang Yo-Baeが描いた済州 4·3 椿の花落ちる
 
  Oh Seung-Joo(dajak97) 
  

"200-2"の歴史的な意味

1948年 5月 10日南韓だけの単独選挙が開かれた.この時総議席数は 200席だったが 2個選挙区の無效によって制憲議会は 198人の国会議員で出帆した.この "-2"という数字は現代史であまり照明を受けることができなかったがここには二つの理由がある.一つは大韓民国アイデンティティに傷になるからで,もう一つは初代大統領である李承晩政治人生の汚点を意味するからだ.

李承晩政府当時にはこの二つが事実上同義語だった.李承晩は現代史で "屈従"という先例を残して権力を享受した.自主独立のために財産とすべての人生を返った独立運動家とその子弟たち,日帝に協調して家産を守って権勢を享受した親日派とその子弟たちの運命は李承晩が米軍政に屈従して親日勢力を大挙再採用するによって変わってしまった.

このように現代史は "屈従"という誘惑でめったに脱することができなくて来た.日常になった財閥の便法と脱法,政治家と公職者の日常的な腐敗相はこの "屈従の現代史"をもっと輝かしている.

済州の北済州甲·乙 2個選挙区の無效はこのような "屈従"に異意をつけた重要な政治的事件だった.(翌年 5月 10日この二つの傷(?)は速かに他の "屈従"野で満たされた)

この "-2"という歴史的メッセージを投げた罪で当時済州人口 30万名の 1/10人約 3万人が死んだ.(済州 4·3 事件真相調査報告書(2003年通過)

選挙シーズンごとに主要政党が済州で競選を始めることは仮に済州が国土下端にあるからではない.選挙の向背を予測するカスティングボート役目を長い間自任した済州の民心はその起源がすごく古かった.

例えば 17代大統領選挙当時李明博候補とチョン・ドンヨン候補の全国投票率は 48.7% 台 26.1%だった.こんな差異は 22.6%で二人の候補の間に一人の有力な大統領選挙候補の入って行くひまがあるほどだった.

済州の投票率はどうだったろうか?李明博候補 38.3% 対チョン・ドンヨン候補 32.4%にわずか 6%P 未満の差だった.それさえも政治色が減るというソウルも 53.1% 台 24.4%でダブルスコア以上の結果が出た時だ.済州島のこの妙な政治的均衡感覚はどこでできたことだろう?

済州 4·3を言い表す "三種類心"

済州 4·3を感性的に表現したら,これを貫く三つの心が存在する.第一,5·10 南韓の単独選挙が済州島の拒否でびっこになるとここに激怒した李承晩大統領は "済州を火の海で作ってしまう"と言う暴言を大っぴらに吐き出した.

実際済州 4·3の全過程にかけて一番悽惨な集団虐殺と焦土化作戦が恣行されたことは大韓民国政府樹立 3ヶ月ぶりの 1948年 11月 17日李承晩が大統領令 31号で済州島全域に戒厳令を宣布した頃だ.済州島に下った西北青年団員が "李承晩大統領の許諾なしに誰が裁判もなしに民間人たちをでたらめに殺すことができる権限がありますか?"と証言するところのように済州 4·3の一次的責任は李承晩にある.

二番目は西北青年団の "憎悪心"だ.一名 "ソチォング(西青)"と呼ばれる西北青年団は当時北朝鮮で社会改革をすると植民地時代の経済的,政治的既得権を喪失して南下した勢力たちが 1946年 11月 30日ソウルで結成した極右反共団体だった.

したがってこれらは共産主義者と疑う者には無条件的な攻撃を加えた.自分たちの基盤をつぶしてしまった勢力に対する極度の憎悪心を解くことは西北青年団青と南労党の積極的な活動誌である済州島の出会いは悽惨なホロコーストを生んだ.

三番目は済州道民の公憤だ.済州島は李承晩の反共国是のため被害をたくさん見た地域に属するのに,或者は済州 4·3を "共産主義者たちの煽動と住民たちの同調"で見て "4·3特別委員会"を廃止しなければならないという主張もしかし,本質的なことは済州道民が米軍政と政府の行動に公憤していたという点だ.これのためには済州道民の珍しい履歴を察しなければならない.

済州島が不毛で油気がなくて孤立した地だと言ってその精神さえ孤立したことではない.済州は古くから最後の流配地で数えられたが,流たく全両班たちは済州の若者達に学問を伝授する事を楽しみにした.このために特に済州島には遺風と学識が生活ぶりにすべて等しく反映されている.

一例で国語学者李基文は日照閣で発行した諺辞書で解放以後の重要な業績で済州島諺 1,2(Jin Sung-Gi編著)を紹介して辞典編纂に手伝ってもらったところが少なくなかったと説明した.私もお母さんから数十年の間 "ヘテ(懈怠)するな"は訓戒を持ったが,これは "緩みするとか怠慢なのないでね"は一般では珍しい漢字語だ.

解放以後米軍政が遅く上陸した理由もあるが,済州道民たちはまさに解放感を一番深く味わった人々だった.この時南韓ではほとんど唯一に親日派に対する清算がどの位成り立ったし,住民たちが自治的に治安と政策を遂行した.

済州 4·3の手始めと言うに値する事件は 1947年 3月 1日済州地域あちこちで開闢以来最大人波で3万人位が参加した "3·1節記念済州島大会"だった.3万人が雲集したこともすごいが住民 6人が死んで 8人が大きくけがをした "3·1節発砲事件" 直後ここに抗議して済州島全体職場の 95%で166個機関·団体がストライキに加勢した "民官ゼネスト"が済州道民の認識を代表すると言える.

現代史家Seo Joong-Seok教授は椿の花散る(麦)の付録論文で "済州島は畑が 99%のうえに地が不毛で油気がなくて収穫が少ない関係で陸地に比べて階級葛藤の所持が微弱だったし血続き共同体的要素と社会経済的性格によって道民たちが易しく団結することができる土台になった"と記録した.

この本の資料2 済州 4·3抗争日誌によれば 3·1節発砲事件以後断行された民官ゼネストを置いて警務部(今の警察庁) Choi Kyung-Jin次長が "元々済州島は住民の 90%が左翼色彩を持っている"と言ったが(161ページ) これは単線的な思考に違いない.ただ済州人たちは腐敗して屈辱的な既得権の不條理な政策に異意を申し立てるほどに意識があっただけだった.このような心たちの衝突は済州 4·3という不可欠な悲劇を作り出した動力で作用した.

ここで指摘して思わなければならない重要な事実は当時済州人の民心だ.済州 4·3委員会に申告された犠牲者の中で 78.1%は討伐隊によって犠牲されたが,12.6%の1,764人は武裝隊によって犠牲されたことで現われた.(157ページ)

"昼には討伐団やつらが,夜には暴徒たちが"という言葉が済州だっての間でよく挙論されたところのように済州人たちは討伐隊と暴徒たちに対して共通で反感を持っていた.私が幼い時友達とどろで遊んで服が汚なくなるとか頭を長い間削らないh見たくなく長くなる時ならお母さんは "暴徒身なり"とか "暴徒頭"と叱ったりしたが,この書き入れ時でも済州人の民心をうかがうことができる.済州である 90% 以上が "赤色"という当時高位級の論評は度が外れた観念化でしたがって事実と違う.

Kang Yo-Baeの絵本椿の花負けてから出た
  
絵説明:▲ "済州 4·3" 60周年を記念してKang Yo-Bae画伯の椿の花散っている途中麦出版社で出刊された.当事者 34人の証言を済州 4·3 専門家Kim Jong-Minさんが整理して絵と共に鮮やかに当時の状況を伝えている.
ⓒ 麦出版社椿の花負ける
 
今年で済州 4·3 60周年を迎える.彼にふさわしく盛りだくさんの行事が済州で開かれる.出版に負う置く人として私はKang Yo-Bae画伯の絵本椿の花散る(麦)が出たと言うのに喜びを隠すことができない.

本を見るやいなや一晩中挿し絵と証言を察した.大学時代慣れるように見た絵たちが一本で縛られた点が好き,"済州 4·3専門家Kim Jong-Min"さんが足品を売って "当事者"たちの証言を採録したという点も良い.この本は 1998年(ハックゴゼ)で出した椿の花ジダをまた出したことだが,椿の花負けるというKang Yo-Bae画伯が 1989年から 3年間 "済州 4·3抗争"を扱った絵 50点を 1992年に発表した展示会の題目だ.

Kang Yo-Bae画伯は "奇行"でもっと有名だが,面白い例話が一つある.風と風浪がひんぱんな済州島でも激しい雨風が吹き荒んだ夜にKang Yo-Baeは筆とカンバスだけ手に持って十番(回)も越すように海に行って来たと言う.それは波と雨風を画幅に盛るためだ.

現在 "民族美術人協会" 会長と "済州 4·3 研究所" 理事長を引き受けている.素材は紙,ペン,墨,カンバスを選り分けなかったし証言の内容や雰囲気によって違うように選択した.やっぱり済州民衆の日常事と当時の境遇を当事者たちの観点でいきいきと描いた.それでもっと衝撃的に近付く.特に 119ページの "赤ん坊"と 133ページの "がらんとした乳"は当時の悽惨な日常をそっくりそのまま説明してくれる."赤ん坊"に対する証言はKim Seok-Boさん(朝天邑北村里)の 1998年証言に盛られている.

"人々が動搖して散らばり始めると,軍人たちが人々頭の上で鉄砲を乱射したが,その過程で 4~5人の人が死にました.その中には一奥さんもいたが,背負われていた赤んぼうがその死んだお母さんの上にのめて濡れる洗いますね.その日その所にあった北村里人々はその場面を忘れることができないつもりです."(118ページ)

済州語に "ソックソムする(속솜하다)"と言う言葉がある.おこる "黙るとかとても小さく言う"と言う意味だ.私は済州 4·3が勃発してから 30年,一世代位去る 1978年に生まれた.そして 4·3というのが分かって最初でお母さんに聞いたことが二十の歳になった時だから事が起ってから 50年が経った時であった.

大人たちはその頃の仕事を口に出すことを徹底的にタブーの時したしそれを内面化した.4·3の記憶は済州人々の日常習慣を変えてしまった.お母さんと叔母が偶然に話し合うことを入った.あまり内緒話ではなかったがソックソム(속솜)するように言った.この場面が長らく変だった.

絵説明:▲ 頭に鉄砲を当たって死んだママの上に伏せて濡れる洗っている子供が 4·3の悽惨さと済州人の悽絶な生命力を端的に見せてくれている.Hyun Ki_youngの自伝小説"地上にさじ一つ)(実践文学社)で "涙は下がってさじは上がって"という言葉で済州人のこのような精神を圧縮して表現した.
ⓒ 麦出版社

仮にお母さんと叔母だけではなく大韓民国全体が済州 4·3にソックソム(속솜)した.すぎ去った事の真実を明らかにしようと熱弁を吐いた参加政府もやっぱり済州 4·3の巨大な根を触ることができなかった.

私の西洋美術史巡礼を使って "デ-アスポだと"という言葉を教えてくれた "在日朝鮮の 2歳"と同時に東京ケイザイ大学現代法学部教授であるSeo Kyung sikさんは "お勧めする言葉"から ""4·3"は分からなくても良い事件ではなくて分からなければならない必要がない事件でもない.4·3は "分からない"と言うの自体が恐ろしくて恥ずかしいそんな事件であることだ.私たちは自分が何が分からななのかを分からなければならない.平和と人らしさのために"(9ページ)と言った.

1987年当時大韓民国が手続き的民主化,形式的民主化が実現したことにとどまったように済州 4·3 もただ "特別法"が通過されただけそれの歴史的意味やこの事件が与えるメッセージが分からなかったし,そうだから "4·3 特別委員会廃止"という言葉が大っぴらに出回るのだ.

ただ済州人ばかりの問題,被害意識の問題,感性の問題,共産主義者問題にだけ限定するのではなくこれからはもうちょっと成熟した関心で細心に省察しなければならないじゃないか?もう還暦になったから "物心"が入るに値しなかったか?
 

付け加える文 |本の挿し絵は麦出版社の同意を得て使います.(完)

出処:oh my news(韓国版)
翻訳: Richard Whang(richardwhang@hanmail.net)(堂堂歴史研究所長)

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