以下、基本的に前に行った投稿から抜粋して来た物です。
横浜を散歩して来た時の物です。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町です。この日は、横浜の、関内(kannai)areaにある日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。
この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。
以下、以下の投稿の続きです。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3524267?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、この展覧会(exhibition)に関する説明の続きです。
以下、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。
1930年代から1940年代初めの、日本の豪華客船のインテリア(内装)の設計には、中村 順平(nakamura jyunpei)や村野 藤吾(murano togo)を始め、松田 軍平(matsuda gunpei)、久米 権九郎(kume gonkuro)と言った、多くの、日本の著名な建築家達が関わっていました。その中には、日本の伝統住宅建築を近代化した事で知られる、吉田 五十六(yoshida isoya)や、若手時代の、丹下 健三(tange kenzo)等も含まれています。この展覧会は、客船のインテリア(内装)の歴史における、こうした建築家達の活躍に注目した展覧会です。
現在の豪華客船は、クルーズ(客船での旅行自体を楽しむ事)が目的の客船です。交通手段としてではなく、洋上(海の上)での優雅なクルーズ(客船の旅)を楽しむ事が、主な目的となっています。しかし、豪華客船時代と呼ばれた、1900から1940年代にかけての豪華客船は、そうではありませんでした。かつて、客船は、外国への唯一とも言える渡航手段であり、各工業国が、最先端の科学技術と芸術を凝縮させた、長距離国際航路向けの豪華客船を建造しました。各工業国が保有する、長距離国際航路向けの豪華客船の、巨大さや速さ、そして豪華さは、自ずと、その国の国力を示す指標となっていました。また、客船は、陸上建築と異なり、陸に留まる事なく、港から港へと移動します。そのため、国際航路向けの客船は、自国の技術力や文化の成熟度を、諸外国の目に、曝してしまう乗り物でもありました。その様な背景から、当時の国際航路向けの客船は、「動く国土」と呼ばれ、国土の延長として捉えられていました。各工業国が、少しでも総トン(GT)数が大きく、速度が早く、豪華な船内装飾を持つ、長距離国際航路向けの豪華客船を競い合って建造したのも、この様な理由からでした。要するに、かつての、工業国の、国際航路向けの客船は、国家の威信をかけて建造された物で、完成後には、国威発揚の役割を果たす事を課せられた、非常に特殊な乗り物であったのです。
豪華客船時代において、圧倒的な、豪華客船大国であったのは、イギリスであり、それに次ぐのが、ドイツ、フランスと言う感じであったと思います。
日本は、これ等の豪華客船大国には、はるかに見劣りするものの(第二次世界大戦前の日本は、資本主義工業国又は資本主義的な工業国の中で、最も、貧しく、農業国的なグループ(group)に属していた事と、ヨーロッパと北米を結ぶ航路に比べて、日本とヨーロッパを結ぶ航路及び日本と北米を結ぶ航路は、比べ物にならない位、需要が小さかった事から。。)、資本主義工業国且つ大国として、やはり、豪華客船時代において、長距離国際航路向けの豪華客船を有していました。
以下、「」内は、補足説明ですが、興味のある方だけ、ご覧下さい。
「日本は、19世紀後半から、西洋の技術及び一部の文化を取り入れ、近代化を図る様になりました。日本は、それ以来、着実に近代化・工業化を進め、日清戦争(1894年から1895年の間に行われた、日本と中国(清)の間の戦争。兵力的には、圧倒的に優位であった中国(清)に対し、日本は、近代化された軍隊により勝利した)、日露戦争(1904年から1905年の間に行われた、日本とロシア(Russia)の間の戦争。日本の実質的な勝利に終る)等を経て、第一次世界大戦(1914年から1918年。下の補足説明参照)が終る頃には、日本は、名実共に、工業国且つ世界の大国(列強)の一つとなりました。
第一次世界大戦:1914年から1918年。日本は、第一次世界大戦においては、連合国側で、戦勝国で有った。日本は、主戦場で有ったヨーロッパ(Europe)から離れていたので、損害が少なく(国土は、戦火に見舞われなかった)、むしろ、連合国側の他の参戦国からの軍需品の注文を受け、好景気に湧き、高度経済成長を果たした(wikiを参考にしました)。戦後は、日本は、戦勝国且つ資本主義工業国且つ大国として、イギリス、フランス、イタリアと共に、国際連盟(League of nations)(下の補足説明参照)の発足時の常任理事国となりました。
国際連盟(League of nations):1919年から1946年。国際連合(United Nations)の前身。発足時の常任理事国は、イギリス、フランス、日本、イタリア。発足時の加盟国は、42ヶ国。加盟国は、最高で60ヶ国近くに達した(1930年代半ば)。1946年に解散して国際連合(United Nations)に移項(wikiより)。
とは言え、日本と、(日本よりも遥かに前から、強力に工業化やインフラ(infrastructure)整備を推し進めていた)イギリス、ドイツ、アメリカ等との差は、ずっと大きく、また、日本は、途中、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被った事等もあって、(日本は)、1960年代初め頃まで(特に1950年代頃まで)は、南欧諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル(Portugal)、ギリシャ(Greece))等と共に、資本主義工業国(若しくは、資本主義的な工業国。第二次世界大戦後は、西側先進工業国)の中では、農業を中心とした第一次産業の比率が比較的高い農業国的な国であり、最も貧しく後進的なグループ(group)に属していました。」
1929年の、「浅間丸(asamamaru)国辱論争」(前回の投稿参照)を境に、高く評価される様になった、客船のインテリア(内装)様式が、「現代日本様式」です。これは、第二次世界大戦以前において、日本の建築家の中で、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた、中村 順平(nakamura jyunpei)と、大阪商船(Osaka Shosen.。現在の商船三井(Shosen Mitsui)。日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ)の、工務部門の技師、和辻 春樹(watsuji haruki)(日本の船舶工学者)の協力のもと、日本の豪華客船の為だけに生み出された、特殊な装飾様式です。「現代日本様式」は、具体的には、どの様な物だったのでしょうか。1925年の、4月から11月にかけて、パリ(Paris)で開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(通称アール・デコ(Art Deco)博覧会)を、きっかけに、1920年代から1930年代にかけて、世界的に、アール・デコ(Art Deco)様式が流行しますが、「現代日本様式」は、実は、この、アール・デコ(Art Deco)が、基本となっています。従来よりも、装飾を減らした、すっきりとした形態、単純な幾何学模様の反復、そして機械化時代の到来を告げる、ガラス(glass)の様な、新素材の多用。こう言った、最先端のアール・デコ(Art Deco)を軸に据えながら、日本の伝統工芸や意匠(design・装飾)を、ふんだんに付け加えているのが、「現代日本様式」の特徴です。東洋の先進国である日本として、ヨーロッパの歴史や文化に対峙する為には、もはや、西洋の先進工業国の物真似ではならないと、中村 順平(nakamura jyunpei)を始めとする、日本の建築家達は、思ったのかもしれません。そして、日本(及び東洋の)、伝統的な文化や芸術で挑む事こそが、欧米に対峙出来る、唯一の手段であると考えた結果、行き着いたのが、「現代日本様式」だったのでしょう。
写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。

新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT))。「優秀船舶助成施設」(1937年)により、補助金を得て建造された、日本の豪華客船。船体に、大きくペイントされた(描かれた)、日の丸(日本国旗)が見える。新田丸(nittamaru)建造に際して、盛大な披露会が開催された。招待客には、民間の関係者、新聞社、役人等に混じって、海軍監督官の名前がある。当時、日本では、国策として、優秀な船舶の建造が促されていた。

新田丸(nittamaru。1940年完成)の、1等(first class)の社交室(中村 順平(nakamura jyunpei)設計)。日本を代表する客船の一つとして、船内は、とても豪華であった。

写真左。新田丸(nittamaru)・八幡丸(yawatamaru)・春日丸(kasugamaru)(八幡丸(yawatamaru)・春日丸(kasugamaru)は、新田丸(nittamaru)の姉妹豪華客船)の、新造船パンフレット(booklet)(1940年)。全てのページが、カラー。表紙には、銀地が用いられる等、華やかなパンフレット(booklet)が作成された。新田丸(nittamaru)・八幡丸(yawatamaru)、春日丸(kasugamaru)は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、日本とヨーロッパを結ぶ航路に、新たに投入する計画であった豪華客船です。何れも、内装のデザイン(design)・装飾は、「現代日本様式」で纏められ、当時、世界最先端の技術と設備が投入された豪華客船として建造されました(春日丸(kasugamaru)については、建造される予定でした)。新田丸(nittamaru。17,150総トン(GT))と八幡丸(yawatamaru)。17,150総トン(GT))は、1940年に完成しました。新田丸(nittamaru)と、その姉妹船(同型船)の八幡丸(yawatamaru)の、優れた設備の例として、新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)には、開閉式の天井を備えた、温水のプール(swimming pool)が設けられ、船内には、暖房設備の他、一等(first class)の、全ての客室、一等(first class)と二等(second class)の公室(食堂(dining room・レストラン)、社交室等、乗客の共用場所)、理容室(barber shop)、美容室等には、冷暖房装置(air conditioner)が装備されました(新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)は、世界で初めて、冷暖房設備(air conditioner)を備えた、長距離、国際航路の客船でした)。新田丸(nittamaru)、八幡丸(yawatamaru)共に、完成した時には、既に、ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦が勃発していた事から、新田丸(nittamaru)、八幡丸(yawatamaru)共に、日本と北米を結ぶ航路の、豪華客船として就航しました。新田丸(nittamaru)は、1941年8月まで、約1年半、日本と北米を結ぶ航路の客船として就役しましたが、その後、時局の悪化により(ちなみに、日本は、1941年12月に、第二次世界大戦に参戦しました(アメリア・イギリス等との戦争に突入しました))、日本海軍に徴用され、1942年に空母に改造され、日本海軍に買収されました。八幡丸(yawatamaru)は、約1年間、日本と北米を結ぶ航路の客船として就役した後、時局の悪化により、1941年6月に、空母への改造工事に入り、1942年に、空母へと改装されると共に、日本海軍に買収されました。一方、春日丸(kasugamaru)(新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)の姉妹船(同型船)として、日本とヨーロッパを結ぶ航路の豪華客船として就航する予定であった船)は、時局の悪化により、完成前に、空母へと改造され、1941年に空母として完成しました。
写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真上。新田丸(nittamaru。1940年完成。日本の豪華客船。17,150総トン(GT))の1等(first class)の階段。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所設計。正面、松の絵柄とともに、天井照明のデザイン(design)も、日本的である。
写真下。秩父丸(chichibumaru。1930年完成。17,526トン(GT)。日本の豪華客船。浅間丸(asamamaru)と共に、「太平洋の女王」と称された)で使用されていたと推測される、丸型、煙草盆(1930年頃)。蝶々が螺鈿で表現されている。秩父丸(chichibumaru)は、アール・デコ(Art Deco)で設計された船内に、一部、この様な、日本的(東洋的)な意匠(design)の、調度品が用いられていた。

りおでじゃねろ丸(Rio de Janeiro maru。1930年完成。日本の客船)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。正面に、日本の古い鎧が見える。右手に見える漆の扉は、日本の大阪の漆工芸の工芸家、島野 三秋(shimano sansyu)による物。鎧を挟んだ、左奥の扉も、島野 三秋(shimano sansyu)の作品。いち早く、日本の伝統工芸を、インテリア(内装)に取り入れている事が分かる。

写真右、八幡丸(yawatamaru。1940年完成。日本の豪華客船。17,150総トン(GT))の1等(first class)階段。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所設計。
1937年頃になると、いよいよ日本の建築家達が活躍し始めます。日本の豪華客船の1等(first class)公室(乗客の共用場所)(1等(first class)公室は、客船の顔とも言える場所)の設計は、日本国内の著名な建築家に依頼する事こそが、ふさわしいと考えられ、日本の著名な建築家に、設計が、依頼される様になるのです。そして、日本の大型客船のインテリア(内装)については、ヨーロッパの、古典的な様式でもなく、また、西洋の先進工業国の、現代の(当時の)流行を、そのまま取り入れるのでもなく、日本独自の、且つ、現代に合った様式と言う事で、「現代日本様式」なるものが採用されました。これは、日本における、客船の船内装飾の第一人者である、建築家の、中村 順平(nakamura jyunpei)と、造船家の立場から、日本の客船のインテリア(内装)の発展を支えた、大阪商船(Osaka Shosen.。現在の商船三井(Shosen Mitsui)。日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ)の、工務部門の技師、和辻 春樹(watsuji haruki)(船舶工学者)が協力して誕生させた物で、日本の客船のインテリア(内装)の、西洋依存を脱却する、日本独自の客船のインテリア(内装)様式でした。現代風のインテリア(内装)でありながら、日本の伝統工芸が、随所に散りばめられた、日本独自の、また、客船独自の装飾様式である、「現代日本様式」は、日本のデザイン(design)の、近代・現代の歴史を語る上において、重要な装飾様式の一つであると言えるでしょう。

写真上、新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT)。日本の豪華客船。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製)の1等(first class)社交室。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。正面右の、ガラス(glass)戸棚に、六歌仙(rokkasen。10世紀初めに編纂された、日本の和歌(waka。日本の詩の形態の一つ)集、古今和歌集(kokin wakashu)に、有名な歌人(poet)として名が挙げられた、9世紀の、日本の、6人の歌人(poet))をエッチング(etching)で描く等、随所に、日本的な意匠(design・装飾)が溢れています。
写真下、八幡丸(yawatamaru。日本の豪華客船。1940年完成。17,150総トン(GT))の、1等(first class)読書室。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。
国威発揚として捉えられていた(日本だけでなく、かつての、工業国の、国際航路向けの客船は、国家の威信をかけて建造された物で、完成後には、国威発揚の役割を果たす事を課せられた、非常に特殊な乗り物でした)、日本の長距離国際航路向けの客船のインテリア(内装)設計には、名だたる、日本の建築家が集結させられました。客船設計で、とりわけ興味深いのは、陸上建築とは違い、一つの客船でありながら、部屋ごとに、設計を担当する建築家が異なる点です。かつての、客船は、1等(first class)から3等(third class)に階級が分けられていました。そして階級毎に、客室に加えて、食堂(dining room・レストラン)、社交室(乗客が、くつろいだり、交流したりする部屋)、喫煙室(smoking room)、読書室と言った公室(乗客の共用場所)が備えられていました。乗客は、長い船旅では、狭くて暗い、客室に、こもるのではなく、広くて快適な、公室(乗客の共用場所)で、ほとんどの時間を過ごす為、客船の1等(first class)の公室(乗客の共用場所)部分は、船内で、最も重要な空間と考えられていました。その為、集結させられた、日本の有名な建築家達は、主に、これ等、1等(first class)の公室(乗客の共用場所)の設計を担当しました。例えば、橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,000トン(GT)の、幻の日本の豪華客船。完成する事なく、日本軍に買い上げられ、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造された)等は、前川 國男(maekawa kunio)、丹下 健三(tange kenzo)が、1等(first class)プール(swimming pool)を設計し、中村 順平(nakamura jyunpei)が、1等(first class)社交室、久米 権九郎(kume gonkuro)が、1等(first class)読書室を担当しています。他にも、村野 藤吾(murano togo)、松田 軍平(matsuda gunpei)等が設計者として加わる等、多様な、日本の著名な建築家達が居並びます。なぜ、この様に、客船において、部屋・空間毎に、設計者が違ったのでしょうか。これは、客船の規模が、あまりに大きくなり過ぎた事に起因しています。当初、比較的規模の小さな客船の場合は、一人の建築家、若しくは、一つの建築設計事務所で、設計を行う事は可能でした。しかし、客船の規模が大きくなり、その隻数も増えて来るにつれて、それでは追いつかなくなったのです。また、こうした事情には、当時の時代背景も、大きく影響しています。日本が、日中戦争(1937年に勃発した日本と中国の間の戦争)以降、第二次世界大戦へ向かうにつれて、日本の建築家達は、陸での仕事を失って行きました。しかし、一方において、日本の国策として、1937年には、「優秀船舶建造助成施設」が実施され、日本の客船の建造数が増えて行きました。そのため、日本の建築家達は、自ずと、客船に注目せざるを得なかったと考えられます。これは、第二次世界大戦によって、一時は、分断されたと思われがちな、日本の建築家達の仕事が、客船のインテリア(内装)の設計と言う仕事を通じて、第二次世界大戦後へと繋がっていた事をも意味します。
写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

安芸丸(akimaru)の、ABC各室の時計拡声器(吉田 五十六(yoshida isoya)設計。1941年)。安芸丸(akimaru)は、「優秀船舶建造助成施設」により、日本とシアトル(Seattle)を結ぶ航路の、日本の客船として建造されましたが、日本(とアメリカ)が、第二次世界大戦に参戦した事により、旅客設備は、縮小され、その構造も、著しく簡略化された形で完成しました。おそらく、吉田 五十六(yoshida isoya)が、設計した図面は、実現しなかった可能性が高いです。

写真右上。八幡丸(yawatamaru。1940年完成。日本の豪華客船)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。

八幡丸(yawatamaru。1940年完成。日本の豪華客船)の1等(first class)カフェ(cafe)ダンシングスペース(danceをする場所)。松田 軍平(matsuda gunpei)設計。正面の壁と、床の中央に、真っ赤な椿がデザイン(design)され、艶やかな空間が生まれています。「優秀船舶建造助成施設」に基づいて、日本の豪華客船、新田丸(nittamaru)、八幡丸(yawatamaru)、春日丸(kasugamaru)が、次々と建造されました(ただし、春日丸(kasugamaru)に関しては、時局の悪化に伴い、完成前に、空母へと改造されました)。
以下、しばらく、(主として、第二次世界大戦以前における)、日本の、著名な建築家達の、日本の客船のインテリア(内装)の設計における活躍を、具体的に見て行きたいと思います。
中村 順平(nakamura jyunpei。日本の建築家。1887年生まれ。1977年に亡くなる)は、日本の客船のインテリア(内装)の設計の第一人者で、日本の建築家達の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけました。また、「現代日本様式」の生みの親でもあります。大阪に生まれ、現在の名古屋(nagoya)工業大学の前身の高等教育機関を卒業した中村 順平(nakamura jyunpei)は、1910年、卒業と同時に、曾禰中條(sone・cyujo)建築事務所(第二次世界大戦前における、日本の有名な建築設計事務所の一つ。第二次世界大戦前において、日本国内において、多くの、近代建築のビル・建物の設計を手掛ける)に就職します。その後、1920年に、岩崎 小弥太(iwasaki koyata。近代の日本で最大級の財閥(近代日本の、三大財閥又は四大財閥)の一つで有った、三菱(mitsubishi)財閥の、当時の当主)の援助で、フランスに渡り、翌年から、フランスのエコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux-Arts)で、学びました。1924年、関東大震災(1923年に東京areaを襲った巨大地震。東京等が、非常に大きな被害を受けた)を機に、日本に呼び戻された、中村 順平(nakamura jyunpei)が、客船のインテリア(内装)設計に携わるようになったきっかけは、岩崎 小弥太(iwasaki koyata)の紹介によるものだと推測されます。その理由は、岩崎 小弥太(iwasaki koyata)が、フランス帰りの、中村 順平(nakamura jyunpei)に、浅間丸(asamamaru。1929年完成。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船)のインテリア(内装)について、「君なら、どんな設計をするか」と質問した際に(ちなみに、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、三菱(mitsubishi)系の会社です)、中村 順平(nakamura jyunpei)は、「あえて、日本式でやる」と返答し、実際に、岩崎 小弥太(iwasaki koyata)を、とても感動させたと言う逸話が残っている為です。しばらくして、三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所から、中村 順平(nakamura jyunpei)の下に、客船のインテリア(内装)の設計依頼が舞い込みますが、これには、おそらく、岩崎 小弥太(iwasaki koyata)が、中村 順平(nakamura jyunpei)を、設計者として、強く推薦した背景があったのだろうと思われます。その後、初めて手がけた、日本と、中国の天津(Tianjin)を結ぶ航路の、日本の客船、長城丸(1927年完成。2,594トン(GT))のインテリア(内装)設計で高い評価を得た中村 順平(nakamura jyunpei)は、約15年の間に、26隻にものぼる、日本の客船のインテリア(内装)の設計を手がけました。当初は、「現代日本様式」の完成には、まだ遠く、床が傾斜している、天井が低い、頑丈さが求められると言った、船ならではの制約に、ずいぶんと苦労しました。しかし、手がける客船が増えるに連れて、制約を、見事に克服して行きました。そして、アール・デコ(Art Deco)と、日本の伝統的な意匠(design・装飾)を融合させ、「現代日本様式」を確立させました。あるぜんちな丸(Argentina maru。日本の客船。1939年完成。12,755トン(GT))や、ぶらじる丸(BRASIL maru。日本の客船。1939年完成。12,752トン(GT))のインテリア(内装)をともに設計した、ライバル(rival)とも言える、村野 藤吾(murano togo)は、後に、中村 順平(nakamura jyunpei)を、「船のデザイン(design)は、名人だった」と振り返っています。
写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真右上。うすりい丸(Ussuri maru 。1932年完成。6,386トン(GT)。日本の客船。日本と大連(Dalian)を結ぶ航路で活躍)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。障子風に見せかけたガラス(glass)窓が、より日本的な雰囲気を演出している。天井の鳥が描かれた間接照明は、手間も、金もかかると言う事で、造船所からは反対されたが、中村 順平(nakamura jyunpei)は、諦めず、自ら、ガラス(glass)会社に発注し、完成させた。
写真左下。照国丸(terukunimaru)・靖国丸(yasukunimaru)の1等(first class)ベランダ(veranda)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。右手に見える、漆扉は、松田 権六(matsuda gonroku。日本の蒔絵(makie。日本の漆工芸の一つ)の、工芸家)との共同制作。日本とヨーロッパを結ぶ航路等、花形航路を多く運航する日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、客船のインテリア(内装)において、大阪商船(Osaka Shosen)に比べて保守的で、ヨーロッパの古典様式を採用する事が、常でした。その様な中、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、「現代日本様式」を採用した最初の客船が、照国丸(terukunimaru。日本の客船。1930年完成。11,931トン(GT))と靖国丸(yasukunimaru。日本の客船。1930年完成。11,933トン(GT)。照国丸(terukunimaru)の姉妹船)です。
写真右下。長城丸(日本の客船。1927年完成。2,594トン(GT)。日本と、中国の天津(Tianjin)を結ぶ航路で活躍)の1等(first class)階段。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。中村 順平(nakamura jyunpei)が最初に手がけた、客船のインテリア(内装)。

橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,000トン(GT))の1等(first class)社交室(中村 順平(nakamura jyunpei)設計)のカラースキーム(1940年制作)。橿原丸(kashiharamaru)は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、次々と投入する予定であった、新しい豪華客船の一つで、日本の客船史上、最高の豪華客船となるはずが(橿原丸(kashiharamaru)の2等(second class)が、新田丸(nittamaru。日本の客船史上、最も豪華な客船の一つ)の1等(first class)と同じ水準になるように設定された)、就航する事なく、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造されました。正面舞台は、古代の雅楽(gagaku。中国や韓国から伝わった音楽を基にした日本の伝統的音楽)が表現されており、電灯の、すぐ下には、舞楽の面、竪琴の右には、装束を着た楽人が見えます。その下、中央は、翁、千歳三番叟の一組で、中世の能楽(noh・kyogen。日本の伝統的な演劇の一つ)を表現しています。正面の扉部分には、桜と馬を引く、男の図。また、部屋の四隅には、日本の城(castle)を描いたレリーフ(relief)が見えます。これは、漆工芸の工芸家の、松田 権六(matsuda gonroku)とともに、乾漆に金箔、銀箔、そして岩絵具を用いて彩色する予定であったと言います。完成していれば、「現代日本様式」を代表する意匠(装飾)であったに違いありません。
久米 権九郎(kume gonkuro。日本の建築家。1895年生まれ。1965年に亡くなる)は、日光(nikko。東京近郊を代表する観光地・保養地の一つ)の、金谷(kanaya)ホテル(日光(nikko)を代表する、高級リゾート(resort)ホテル。1873年開業)や、軽井沢(karuizawa。東京圏周辺を代表する、避暑別荘地・避暑保養地)の万平(manpei)ホテル(軽井沢(karuizawa)を代表する高級リゾート(resort)ホテルの一つ。1894年開業)等、数々の、建築設計に加え、多くの住宅団地の設計を手がける等、事業にも、才能を発揮しました。また、来日した、ブルーノ・タウト(Bruno Taut。ドイツの、有名な建築家・都市計画家。ナチス(Nazi Party)政権下のドイツにおいて、親ソ連(Soviet Union)派の烙印を押され、職と地位を失い、1933年から1936年にかけて、日本に亡命。1936年に、近代化を目指していたトルコの、イスタンブール(Istanbul)芸術アカデミー(Academy)からの招請により、教授としてイスタンブール(Istanbul)に移住。1938年に、長年患っていた気管支喘息の為に、同地で死去)とも、親交があった事でも知られています。久米(kume)建築事務所(久米 権九郎(kume gonkuro)の建築設計事務所)が、客船のインテリア(内装)の設計を手がける様になった、最初のきっかけは、中村 順平(nakamura jyunpei)からの紹介でした。1937年を過ぎた頃、すでに、中村 順平(nakamura jyunpei)の客船のインテリア(内装)設計は、評判を呼び、中村 順平(nakamura jyunpei)の下には、たくさんの客船のインテリア(内装)の設計の仕事が舞い込んでいました。そして、インテリア(内装)の設計を依頼される客船の規模も、徐々に、大きくなっていました。その為、全ての設計依頼を、中村 順平(nakamura jyunpei)が請け負う事が困難になって来たのです。そして、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社のヨーロッパ航路の就航を予定した新田丸(nittamaru)・八幡丸(yawatamaru)・春日丸(kasugamaru)の三隻の豪華客船のインテリア(内装)設計を依頼された際には、それぞれの客船の、主要な、公室(乗客の共用場所)の一部のみ、中村 順平(nakamura jyunpei)が設計し、それ以外については、久米(kume)建築事務所等、縁のある、他の、建築設計事務所に、その仕事を割り振る事にしたのです。ちなみに、久米 権九郎(kume gonkuro)は、橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)の読書室のインテリア(内装)設計も請け負っています。いずれにせよ、この様な経緯から、一つの客船に多くの建築家が関わる事になり、陸上建築ではありえない、競演が、一つの船内で、繰り広げられた事は、非常に興味深いと言えるでしょう。
写真以下3枚は、参考に、前に、enjoyでアップ(upload)した写真の再利用ですが、現在の、万平(manpei)ホテルの建物の一つ(1936年完成)。久米 権九郎(kume gonkuro)が設計。基本的に、西洋式の建物ですが、デザイン(design)は、ホテルの地元(長野(nagano)県の東部の中部地域)の、伝統的な農家(農民の家)をイメージした物となっています。万平(manpei)ホテル(1894年開業)は、軽井沢(karuizawa。長野(nagano)県の東端部(東部の中部)に位置する。東京圏周辺を代表する、避暑別荘地・避暑保養地)を代表する高級リゾート(resort)ホテルの一つです。ちなみに、万平(manpei)ホテルがある軽井沢(karuizawa)は、ジョン・レノン(John Lennon)の妻である、日本人、小野 洋子(Ono Yoko・Yoko Ono。1933年生まれ)の親が、軽井沢(karuizawa)に別荘を所有していた関係で、ジョン・レノン(John Lennon)が、ビートルズ(The Beatles)解散後、1970年代半ばから、亡くなる1980年まで、夏に家族を連れて、毎年のように長期滞在していた、ジョン・レノン(John Lennon)の、お気に入りの、日本の別荘地でした。万平(manpei)ホテルは、ジョン・レノン(John Lennon)が、軽井沢(karuizawa)に長期滞在中、よく家族と宿泊していたホテルです。私は、万平(manpei)ホテルは、宿泊したことがありませんが、古い建物が好きなので、いつかは、宿泊したいと思っています。ちなみに、私の親は、軽井沢(karuizawa)で、ゴルフ(golf)をするついでに、万平(manpei)ホテルに、何度か、宿泊した事があります(ちょっと、羨ましいw)。


万平(manpei)ホテルのカフェ(cafe)。ジョン・レノン(John Lennon)は、万平(manpei)ホテルに長期滞在中、当然、このcafeを、たくさん利用していました。万平(manpei)ホテルには、カフェ(cafe)の他に、フランス料理を中心とした主食堂(ホテルの中心的なレストラン。main dining room)、中国料理レストラン、日本料理レストラン、barが、あります。

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

新田丸(nittamaru。1940年完成。日本の豪華客船)の1等(first class)プール(swimming pool)。久米 権九郎(kume gonkuro)設計。

橿原丸(kashiharamaru)の1等読書室(久米 権九郎(kume gonkuro)設計)のカラースキーム(1940年制作)。床の立ち上がり部分には、黒地茶模様の大理石を、柱には、ゼブラウッド(zebrawood)を採用する予定であった。床の絨毯や、正面奥の出入り口扉には、壁面漆パネルと合わせた、栗の実と葉の模様が描かれている。久米 権九郎(kume gonkuro)は、佐藤 武造(sato takezo。日本の画家・漆工芸の工芸家)と、工場にサンプル(sample)を見学に行く等、一年がかりで、色々と設計準備を行いました。久米 権九郎(kume gonkuro)にとって、橿原丸(kashiharamaru)が完成せずに、空母へと改造されてしまった事は、とても残念であったに違いありません。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他3(すぐ下でリンクを付けた投稿)へ続く。。。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3524269?&sfl=membername&stx=nnemon2