以下、基本的に、2020年の2月の下旬に行った投稿から抜粋して来た物です。
以下、基本的に、2018年の3月に行った投稿から抜粋して来た物です。
前に行った投稿の、再投稿です。
韓国は、儒教の影響が強い国だからなのか、韓国では、何となく、日本の女性は、韓国の女性よりも、性に開放的と言うイメージがある様ですが、私は、韓国の女性については、知らないので、分かりません。ちなみに、日本の女性が、性に関して、保守的か、開放的かと言うのは、完全に、人(女性)によると言った感じです。
日本には、もちろん、保守的で、真面目な女性も、たくさんいますし、遊んでいる女性も、多くいる事はいます。
日本は、文化も、人々も多様であるので、日本、及び、日本人は、こうであると、一言では言えません。
ちなみに、16世紀当時の、ヨーロッパが、あまりに女性の地位が、低く、又、宗教(キリスト教)に縛られて、性に関して、あまりに保守的であったからかもしれませんが、16世紀の当時、日本は、ヨーロッパに比べて、相対的に、非常に、女性の地位が高く、又、性に関して、開放的であった様です。
以下、「」内。今から400年以上前の、16世紀に、日本を訪れた、ポルトガル(Portugal)人の宣教師、Luís Fróis(1532年生まれ。1597年に亡くなる)が、当時の、日本の女性について、書いた文です。
「ヨーロッパでは未婚の(結婚していない)女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、又、その純潔が犯されない、貞潔さである。日本の女性は、処女の純潔を、少しも重んじない(少しも、大切にしない)。日本では、それを欠いても(女性が、処女を失っても)、名誉も失わなければ、結婚もできる」。
「ヨーロッパでは、娘や処女を、(家に)閉じこめておく事は、極めて(非常に)大事な事で、厳格に行われる。日本では、娘たちは、両親に断りもしないで(両親に、良いかどうか聞きもしないで・両親に、何も言わずに)、一日でも数日でも、一人で、好きな所へ出かける」(この、出かけると言う事は、おそらく、一人旅等の、通常の外出に加えて、交際している男性と会い、エッチする事も、含まれると思います)。
「我々(ヨーロッパ)においては、女性が文字を書く事は、あまり普及していない。日本の貴婦人においては、もしその心得がなければ(女性が、文字を書く事が出来なければ)格が下がる物とされる」。
ちなみに、世界最古の(世界で、最も古い)、小説、世界最古の(世界で、最も古い)、近代式の、小説、世界最古の(世界で、最も古い)、心理小説(psychological
novel)とも言われる、源氏(genji)物語(上流階級の、恋愛等を描いた、長編の小説で、概ね、100万文字・22万文節、400字詰め原稿用紙で約2400枚に及ぶ、およそ500名近くの人物が登場し、70年余りの出来事が描かれた(wikiを参考にしました)、長編の小説)は、紫式部(murasaki
shikibu)(11世紀初め頃に活躍していた、日本の、富裕層の(下級の貴族出身の)、女性、小説家)によって、11世紀初めの、日本で、書かれました。
「ヨーロッパでは、財産は夫婦の間で共有である。日本では、妻と夫が、それぞれ、自分の分(それぞれ、自分の財産)を所有している。(日本では)、時には、妻が夫に、(お金を)高利で(高い利子を付けて)貸し付ける」。
「ヨーロッパでは、妻は夫の許可がなくては、家から外へ出る事が出来ない。日本の女性は夫に知らせず(夫に、何も言わないで)、好きな所に行く自由を持っている」(これは、おそらく、通常の外出に加えて、不倫(furin)(結婚しているのに夫以外の男性と交際する事)相手の、男性と会い、エッチする事も、含まれると思いますw)。
「ヨーロッパでは、女性が葡萄酒(wine)を飲む事は非礼(礼儀がない事)とされる。日本では、女性の飲酒(お酒(アルコール
(alcoholic)飲料)を飲む事)が、非常に頻繁であり、(女性は)、祭礼(祭り)においては、たびたび(頻繁に)、酩酊(泥酔)するまで(非常に酒に酔うまで)、お酒(アルコール
(alcoholic)飲料)を飲む」。
「ヨーロッパでは、妻を離別する(離婚する)事は、最大の不名誉である。日本では、意のままに(自由に)、いつでも離別(離婚)する。(日本では)、妻は、その事(離婚)によって、名誉も失わないし、又、結婚もできる(再び、結婚も出来る)」。
「ヨーロッパでは、夫が妻を離別する(夫の意志・希望で離婚する)のが普通である。日本では、しばしば(頻繁に)妻が夫を離別する(妻の意志・希望で離婚する)」。
以下「」内、1870年から1874年に日本に滞在した、William Elliot Griffis(1843年生まれ。1928年に亡くなる。アメリカ人の、牧師・東洋学者)が、1870年代当時の、日本の女性について書いた文です。
「日本の男性は、他のアジア諸国ほど、女性に横柄でなく、女性に対して、むしろ、鄭重である(扱い等が、心がこもっていて、礼儀正しく、手厚い)」。
「アジア的生活の研究者は、日本に来ると、他の国と比べて、日本の女性の地位に、大いに満足する。ここでは(日本では)、女性が、東洋の(アジアの)他の国で観察される地位よりも、ずっと尊敬と思いやりで待遇されているのがわかる。日本の女性は、より大きな自由を許されていて、そのため、より多くの尊厳と自信を持っている」。
「欧米諸国の女性と比べ、標準的に見て、日本の女性は美しい物への、あの優雅な趣味では、全く同等の資格があり、服装や個人の装身具においても、よく似合って見える。また、礼儀作法が女性らしく上品である事でも引けを取らない。美(美しさ)、秩序、整頓、家の飾りや管理、服装や礼儀の楽しみを、生まれながらにして愛する事では、一般に、(世界で?)、日本女性に、勝る女性はない」。

写真以下5枚。東郷 青児(togo seiji)の作品例。絵葉書より。。。前に、アップ(upload)した写真の、再利用。東郷 青児(togo seiji)は、個人的に、その作品が、私のお気に入りの、画家の内の一人です。

1923年の作品です。

1926年の作品です。

1958年の作品です。

1959年の作品です。
以下、宇野 千代(uno chiyo)について、少し紹介します。前述の通り、東郷 青児(togo seiji)は、女性好きの(女性が、好きな)人物として知られ、多くの、女性と恋愛遍歴(恋愛)を重ねた様ですが、宇野 千代(uno chiyo)は、東郷 青児(togo seiji)と親しくして来た、たくさんの女性の中で、公然と(一般的に)知られている範囲内においては、一般人以外の(有名人の)、女性で、唯一、東郷 青児(togo seiji)と深い恋愛関係になった女性です(おそらく。。。)。以下、宇野 千代(uno chiyo)に関する説明は、wiki等を参考にしました。

以下、しばらく、林 芙美子(hayashi fumiko)について紹介します。
林 芙美子(hayashi fumiko)(1903年生まれ、1951年に亡くなる)は、1920年代末から1951年に亡くなるまで活躍した、日本の有名な、女性、小説家です。貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、特に名作があります(wikiより)。夫は、日本の、画家の、手塚 緑敏(tezuka ryokubin)(有名な画家と言う程では無く、知名度は、林 芙美子(hayashi fumiko)の方が、遥かに上。人気作家であった妻(林 芙美子(hayashi fumiko))を影で支えていた)。
林 芙美子(hayashi fumiko)の母親は、日本の、田舎の、日本全国を渡り歩いて、露天で(野外で)、物を売る様な、低所得者層の人々が、宿泊する旅館を経営する家の娘で、男好きな(男性と、恋愛したり、エッチしたりする事が、とても好きな)女性であったようで、独身時代に、林 芙美子(hayashi fumiko)を含み、3人の子供を産みましたが、何れも、父親は、別人であった様です。林 芙美子(hayashi fumiko)は、林 芙美子(hayashi fumiko)の母と、林 芙美子(hayashi fumiko)の両親が経営する旅館の、宿泊客であった男性(日本全国を渡り歩いて、露天で(野外で)、物を売る職業の男性)との間に生まれた、私生児(結婚関係の無い者の間に生まれた子供)です。林 芙美子(hayashi fumiko)の母親は、独身時代、両親の経営する旅館の、宿泊客の男性を中心に、多くの男性と、肉体関係を結んだり(エッチをしたり)、交際していた様です。
林 芙美子(hayashi fumiko)の養父となった男性は、林 芙美子(hayashi fumiko)の母が、5人目に正式に交際した男性であり、林 芙美子(hayashi fumiko)は、子供・少女時代の多くを、日本全国を渡り歩いて、露天で(野外で)、物を売ると言う両親(父は、養父)の仕事の関係で、貧しく過ごし、小学校も、2年遅れて卒業しましたが、頭はとても良かった様で、作文の才能が、学校の先生に認められ、先生の勧めで、女学校(現在の、中学校と高校に該当する)に進学し、貧しかったので、夜と休日は、働きながら、女学校(現在の、中学校と高校に該当する)に通いましたが、女学校(現在の、中学校と高校に該当する)時代、恋人(交際する男性)も出来て、また、学校内で、親友達にも、恵まれ、楽しい、学校生活であった様です(また、この時も、作文の才能が、認められました)。
1922年、19歳の時に、女学校を卒業し、その後、先に、進学の為(学校に通う為)、東京に出ていた、恋人(当時、交際していた男性)を頼って、東京に出て、工場労働者・事務員(おそらく、女学校(現在の、中学校と高校に該当する)を卒業していた事から、事務員の仕事にも、比較的、簡単に就けたのではないでしょうか。。。)等、様々な、仕事に就きながら、自活をし、後に、両親(母と養父)が、東京に出て来てからは、二人の、露天で(野外で)、物を売る仕事も、手伝いましたが、1923年に、学校を卒業した、恋人(当時、交際していた男性)に、振られました。同年(1923年)、関東大震災(1923年に東京areaを襲った巨大地震)が起こり、林 芙美子(hayashi fumiko)、林 芙美子(hayashi fumiko)の母、林 芙美子(hayashi fumiko)の養父の、3人は、しばらく、東京を離れました。
翌年(1924年)、林 芙美子(hayashi fumiko)だけ、東京に戻り、林 芙美子(hayashi fumiko)は、以後、再び、様々な仕事に就きながら、自分、母、養父、3人分の生計を稼ぐと共に、空いた時間には、執筆を行い、原稿を、出版社に売り込むと言う生活を続けました。林 芙美子(hayashi fumiko)は、比較的、地味な外貌ですが、母親に似て、男好きな(男性と、恋愛したり、エッチしたりする事が、とても好きな)女性であり、この間、多くの男性と、肉体関係を結んだり(エッチをしたり)、交際したりして、男性と、同棲しては(一緒に暮らしては)、別れると言った事を繰り返していた様です。
多くの男性と、肉体関係を結んだり(エッチをしたり)、交際したりした後、林 芙美子(hayashi fumiko)は、1926年、23歳の時に、当時、画学生(画家を目指す学生)であった、手塚 緑敏(tezuka ryokubin)と結婚をし、形式上は、落ち着きました。手塚 緑敏(tezuka ryokubin)は、真面目で、妻の、執筆を助ける男性であった様です。ちなみに、林 芙美子(hayashi fumiko)は、手塚 緑敏(tezuka ryokubin)と結婚した後も、多くの男性と、肉体関係を結んだり(エッチをしたり)、交際したりする事は、止めずに、ずっと続けており、生涯、様々な職業の、非常に多くの男性と、肉体関係を結んだり(エッチをしたり)、交際したりした様です。
元々、才能があった(おそらく。。。)、林 芙美子(hayashi fumiko)は(夫の、手塚 緑敏(tezuka ryokubin)も、林 芙美子(hayashi fumiko)の才能が分かっていたのだと思います)、1920年代後期頃から、徐々に、作品が認められ、評価され、人気が出て行き、1920年代末から1951年に亡くなるまで、人気の小説家として活躍しました。林 芙美子(hayashi fumiko)は、1951年、47歳の若さで、病気により(心臓麻痺により)、急死しました(急に亡くなりました)。
写真以下3枚。写真は、借り物。林 芙美子(hayashi fumiko)。

少女時代の、林 芙美子(hayashi fumiko)。


写真以下8枚。東京都心部の西部(新宿(shinjyuku)区)の、静かで落ち着いた住宅地にある、林 芙美子(hayashi fumiko)記念館。林 芙美子(hayashi fumiko)が、1941年から1951年に亡くなるまで暮らしていた家で、現在も、保存され、林 芙美子(hayashi fumiko)に関する資料館となっています。

写真の道路左側が、そうです。こんな家に住んでおいて、底辺の庶民を慈しむように描いた作品、何て言うのも、少し変な気がしますが、まあ、昔、貧しくて苦労したと言う事で。。。
写真以下8枚。林 芙美子(hayashi fumiko)の邸宅の建物(現在は、林 芙美子(hayashi fumiko)記念館(林 芙美子(hayashi fumiko)に関する資料館)の建物)。1941年に完成した、一部、西洋式を取り入れた(画家であった夫のアトリエ(studio)部分)、日本伝統式の住宅の建物です。林 芙美子(hayashi fumiko)は、1939年に、土地を手に入れ、新しい家の建物を建設し始めました。林 芙美子(hayashi fumiko)は、家の建物の為、建築の勉強をし、設計者や大工を連れて、京都(kyoto)(日本の西部に位置する大都市。794年から19世紀半ばまで、長らく日本の首都であった大都市であり、日本の、伝統文化の中心都市となっている)の住宅を見学したり、材木を見に行ったり、その思い入れは、格別でした(林 芙美子(hayashi fumiko)記念館の公式siteより)。貧しい、若しくは、庶民の家庭に生まれて、後に成功を収め、名声と富を手に入れた者の家に有り勝ちな?成金趣味的な、悪趣味な派手さは、全く感じられない建物で、何て言うか、裕福な家に生まれ、一通り、派手な生活を経験し尽くした後に至る趣味の良さ(白州 次郎(shirasu jiro)・正子(masako)の様な趣味の良さ?w)に通じる、林 芙美子(hayashi fumiko)の趣味の良さを、個人的に、建物から感じ取る事が出来ます。戦時体制一色となり、民間に配分される物資が、極度に不足し始めた頃(1941年)に完成した住宅の建物(おそらく、普通の中流層程度では、1940年頃から、第2次世界大戦の終り頃までは、基本的に、家の建物を新築する事すら、無理に近かったと思います)ですが、高価で、非常に質の高い建築材料を使って建てられている住宅の建物と言う印象を受けます。







以上、基本的に、2020年の2月の下旬に行った投稿から抜粋して来た物でした。
以下、関連投稿・参考の投稿。
竹久 夢二(takehisa yumeji)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825234?&sfl=membername&stx=nnemon2
着物(日本の女性向けの伝統衣装)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3823154?&sfl=membername&stx=nnemon2
東京国立博物館4→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3822739/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2