
大阪府ヒラカタ(枚方)時西露礁ナカノ−ミなの(西之町中宮 1-68) 丘に立ち上がれば ‘百済往信社’(百済王神社)という大きい看板がぐんと立っている. 百済往信社は百済社史蹟公園境内と西の方にイッデオで一緒に席を取っている. 百済往信社はその昔のグダラス(百済洲) 地で百済王族が先祖を祭祀を行うために立てた祠堂で百済社基盤史蹟とともに非常に由緒のある名所だ. 計算して見れば我が国にはない百済根の百済王族祠堂がむしろここにオサカタングには厳存していないか. あれほど重要なこのグダラス, 今日のオサカタング難破陣沖合は本国百済との直通航路になった所. それで百済人が日本本土で最初に開拓したグダラスタングに一番先に百済王族祠堂が立ったということは地政学的でも説得力がある.
現在百済往信社に伝わる古文書たちを中心にこちらの歴史をあかして見よう. まずよく見る必要があることは ‘ミマスがギェも’(三松家系図)だ. この古文書には “ビダスチォンファング(敏逹天皇・572〜585 在位) オデに, 百済王族往診が(王辰爾・6C)がこちらに祠堂を建てて彼の先祖を祭祀を行った”と往診異意直系子孫であるミマス家門の家計島が明らかにしている. ‘ビダスチォンファングは百済王族’という事実は日本古代の ‘シンチァンソングシロック’(新撰姓氏録・西紀 815年日本王室編纂)でも立証されている. ビダスワング当時の調整は奈良(奈良)地百済(百済)の ‘百済台正規の宮’(百済大井宮)にあった.(‘ブサングリャックギ’ 13C頃編纂) まさにその頃百済王族往診異意職責は難破陣沖合を管掌するプレゼント(船使・海霧庁長)であったし, 彼の行績は ‘日本書紀’に次のように特筆されている.
◇百済王族が先祖を祭祀を行うために立てた祠堂である百済往信社の配電(拜殿). “ビダスチォンファング元年(572) 5月 15日. 天皇は高句麗王(平原王・559〜590 在位)の国書を受けて代わり(小児麻子最高代わり)に渡してくれた. 祖神(文書担当高官)らを召集して解読させた. 高官たちは三日もかかったが誰も内容を把握することができなかった. この時にプレゼントワングジンイを呼び入れると彼が国書内容を完璧に解いた. ここに天皇と大臣は一緒に誉めてやまなくて, ‘よくしたんです, 往診が. 立派な事です. もし君が漢文に通じなかったら果して誰がこの文章を解くことができたんです. 今からはこの王室で勤めてください’と人を下げた. それとともに東西(大和地方と難破陣グダラス地方)の高官たちに ‘君たちの学問はまだまだ. 君たちは数字が多いが往診が一人だけもくぎするね’ して言った. また高句麗の他の文書はからす羽だった. 黒い色羽に黒い色で被せられて誰も解読することができなかった. ワングジンイは羽を炊飯で蒸らしたご飯の長さを当てるようにしたらそれを白い絹にぎゅっと押して文字たちをそっくりそのまま刷り出した. 調整臣下たちはこの光景に皆驚歎した.”(‘日本書紀’)
賢いワングジンイは百済系列ビダスワングと小児麻子代わりの背光の中に情事に力をつくしたし, 彼の力量はすなわちグダラスの百済王族基盤に百済往信社という祠堂を建てて異国地でも堂堂と氏神たちの祭祀を仕えるようになった.
◇百済往信社の境内. ミマス家門は往診異意直系子孫百済王軽服(百済王敬福・宮内頃など代わり・698〜766)の後を引き継いでえんえん 1240年も続いた. その間栄えて今日まで粘り強く台を続いて来ている. 現在本終値の子孫ミマスドシスだね(三松俊経・茨城県ドリデ・1932〜)は筆者に “去年 10月(14〜15日)にも百済の王も付与へ行って先祖様大きい祭祀に参加しました. 私の二番目母国訪問で非常に意味深く思います. ヒラカタの百済往信社で韓国でもたくさん参礼してくださってありがたく思っています. 当家の墓所はギンヤ(禁野)にあります”(2006.12.24)とやっぱりグダラスのヒラカタ地域が百済王族の見た基盤なのを明らかにした.
現在彼のもとに二人の息子(俊典 42歳, 俊裕 40歳)が百済王族の家門を受け継いでいる. 彼は直系先祖百済王軽服に関しては後日詳細に使うと念をおした. 百済王軽服は百済系列第45代ショムチォンファング(724〜749 在位)台から歴代王の寵愛を受けた名宰相で外囲大将(外衛大将)という王室最高将軍として武功も大きかった. 特に注目されることは 675年ショトクヨワング(764〜770 在位)がグダラスの “ユゲサ(弓削寺)に挙動した時天皇の前で ‘百済踊り’をした”(‘ソックイルボンギ’ 796年王室編纂歴史書)と言う内容は有名な歴史記事だ.
◇百済往信社の後援者たちの惜敗(石牌)が列をなした.ミマス家門直系子孫であるミマス未洋子(三松みよこ・55・奈良市ホレンチォ)は “ミマスがムンと百済往信社について現在 2年目研究書を書いているし来年に脱稿すれば教授に伝えて上げる”(2006.12.7)で筆者に明らかにした事がある. “当家の家計を正しく使って百済王室に関する一般の歴史認識を高めたい”と言う意欲の中に執筆に沒頭している. もちろん百済の純粋な血管を続いて来る人々は今日完璧な日本人たちだ. “現在(1972) 日本東部地域にはミマス家門が約 4000人位生きている”(‘日本人の姓’ 1972)で発表したSakumaエイ(佐久間英・1913〜 ) 博士の研究によれば日本人 20台氏姓中の胎盤が韓国係氏姓でもある. 東京大学人類学科ハニワだとカズで教授の研究(‘日本人の成り立ち’ 1995)は古代(BC 3〜AD 7)の韓半島など到来人は 150万名であり, 船主日本人(インドネシアなど東南アジア地域移住定着民) 1 対 8.6人だという圧倒的なシミュレーション研究結果が出て注目されている.
百済往信社には現在 ‘百済王領事卯酉で’(百済王霊祠廟由緒)というのがあることを富士通Yukiko(藤津由己子) 弓師が公開した.(2006.12.7) この顧問では今から 560年前の 1446年ウヌカだね(宇努勘彌)が書いた. 古文書の主要書き入れ時は次みたいだ.
“百済往信社は百済王族の子株のまつって祭祀誌内は祠堂だ. 日本に文字を伝えたことは百済人王人で誤診王時代だった. スイコ女王時代に百済王子アズァテザが成徳太子に釈迦仏像と経典 3600冊を与えた. 成徳太子は喜んでアズァテザにがドノ−(現在の百済往信社一帯)に土地と住宅を酒庫, 王室の官職(位階)を与えた. ショムチォンファング時代には王人とアズァテザの子孫であるバックゼワングナムゾン, 自警, ヒョツング, 軽服などを調整で中庸した.”
また “この重要な古文書の執筆者ウヌカネは声明(名前)で察する時百済王族の子孫であり, この祠堂の弓師家人ではないようだ”(ヤマノ−マキオ ‘百済往信社―創立沿革と元手と配電に関する考察’ 1975)と指摘したりした. 百済往信社設計代表建築家で文化財保存技術協会ヤマノ−マキオ(山野満喜夫) 委員は “百済椅子王の王子旋光(禅光)王子がジトヨワング(持統・686〜697 在位)時代日本に渡って来た時, 女王から ‘百済王’という四声(賜姓)を受けて ‘百済王’さんの詩調になったし, 難波(難波)に暮しながら当然昔の百済だね(百済郡)で居住して調整から後代受けた. 息子は昌盛(昌成)で曽孫子が鐘3位百済王軽服だ”(前研究では)と歴史を明らかにする.
ところでこの祠堂の扁額を見ればそこにはゼシン(祭神)の名前二つが縦で並んで刻まれている. ‘百済大王’と ‘牛痘天王’(牛頭天王)がそれだ. 百済大王は当たり前なのに新羅新人牛痘天王を合リしていることを注目して見よう. かつて 1891年東京大学史学科Gumeグニダケ(久米邦武・1839〜1931) 教授は “牛痘天王は新ラシン ‘スサノ−オノ−ミコト’(素盞吾尊)”(‘神道は祭天の古俗’)と断定して又の日ナショナリストたちの弾圧対象になって結局東京大学で追放された.(‘山勢理判人名辞典’ 1978) とにかく百済神さまと新羅はく合リしたことは意味深い事であり, これはたぶん日本王室祭祀の新羅新人 ‘ワンシン’(園神)と百済新人 ‘韓信’(韓神) 合同祭祀(‘延喜式’ 西紀 927年日本王室編纂)に起因するのではないかと言う.
このように百済往信社は日本に現存する唯一の百済王室祠堂や新羅信徒合リしているので注目されることは当然だ. “多い日本人Yujiたちが莫大な献金をしてこの祠堂は今日までよく保存している”と言う富士通Yukiko弓師は協助者たちの名前が刻まれたまま百済往信社上り口道路周辺を長く飾りながら列をなしている石材石柱たちを示しながら明るく微笑んだ.
(来週に引き続き)