16世紀の前半、西日本最大の守護大名大内氏は、大陸との交易で巨万の富を築いた
大内氏は勢力下の博多商人と手を結び、室町幕府管領・細川高国及び堺商人との交易をめぐる争いに勝利して、明国との交易を独占した
また大内氏は、朝鮮半島との交易を優位に進めるために、百済の末裔であることを自称している
百済・大内氏の最盛期は、15代目当主・大内義興の代であった
長門・周防・石見・安芸・豊前・筑前の6カ国の守護職を幕府から預かり、西国探題を称している
1507年、将軍争いに敗れ山口に身を寄せていた足利義稙を奉じて京に上洛し、足利義澄・細川澄元政権を追い落として管領代及び京都守護となり、10年間日本国の天下人になった
しかし次第に義稙と不仲になり、大内氏の勢力圏が出雲の新興勢力・尼子経久に脅かされるようになると、本国へ帰国した
本国に帰国した義興は、尼子氏と中国地方の覇権をかけて各地で戦い、尼子氏に奪われた領国の回復に努めた
1529年、安芸国・銀山城攻めの最中に病で倒れ死去した
あとを継いだ百済・大内氏16代当主・大内義隆は、当初は政治に熱心であったが、尼子氏との第二次月山富田城の戦いに大敗してからは、政治を疎かにするようになった (この戦いで土佐一条家より養子となっていた大内晴持を失っている)
義隆は側近の相良武任・杉興連ら文治派家臣を重視して文治政治を行ったり、イエズス会宣教師・フランシスコ=ザビエルを招いて山口での布教活動を認めたりしている
ただ、武断派である大内一族の陶隆房は義隆の文治政治に不満を持ち、文治派家臣により大内氏の中枢から排除されるなどしたため義隆との関係は破綻する (周防守護代・陶氏は長門守護代・内藤氏とともに代々大内氏に使える重臣である)
1551年、陶隆房は義隆に対して謀反を起こし、大寧寺にて自害に追い込んだ
16代に渡って続いた大内家の直系は、完全に断絶することになる
(大寧寺の変により、義隆の実子・大内義尊も殺害されている)
大内義隆の後にも大内氏は存続しているが、大友氏出身の大友晴英(大内義長)が継いだものであり、事実上陶氏の傀儡であった
晴英を大内氏の養子とするにあたり、陶隆房は晴英の兄・大友義鎮(豊後守護)と筑前・豊前の領土を割譲する密約を結んでおり、北九州における大内氏の勢力は大きく後退することになる
大内氏の繁栄を支えていた日明貿易では、晴英が正当な直系と認められなかったため、明国から交易を拒否されている
晴英の当主としての力は陶隆房の武力を後ろ盾としたものだが、厳島の戦いで陶隆房が敗死してからは求心力を失い、安芸の国人領主・毛利元就により周防・長門を攻略され(防長経略)、自害に追い込まれている
こうして百済・大内は滅亡したのである