強制労働で日本企業に賠償命令
「青春を取り戻した気分」
「失った私の青春を取り戻した気分だ」
10日午後、ソウル高裁304号法廷。裁判長が原告勝訴の判決を告げると、原告の呂運沢(ヨ・ウンテク)さん(90)とイ・チュンシクさん(89)はその場で「万歳」を叫んだ。手を握り合い「今日まで力添えしてくださった皆さんに心から感謝する」と言って涙ぐんだ。
呂さんたちの訴訟の始まりは16年前にさかのぼる。1997年、呂さんたちは「死ぬ前に奪われた権利を取り戻したい」と、韓国の太平洋戦争被害者補償推進協議会と力を合わせ、当時の新日本製鉄(現・新日鉄住金)に損害賠償などを求める裁判を日本で起こした。「子どもたちには止められたが、このままでは悔しくて死に切れなかった」(呂さん)という。
呂さんたちは1943年、新日鉄の前身となった日本製鉄の大阪工場で働き始めた。会社側はここで2年間仕事を学べば韓国の製鉄所への就職を保障すると約束したが、実際は違った。
技術を使う仕事は全て日本人が行い、朝鮮人の徴用工たちは鉄パイプの中に入って石炭かすを除去するといった単純労働ばかりを強いられた。1日8時間、3交代で機械のように働いたが、月給は全く受け取れなかった。寄宿舎の舎監に月給振り込み用の通帳と印鑑を取り上げられたためだ。逃走を防ぐため外出は月に1、2回に限られ、逃走して見つかれば殴られて障害を負うこともあった。呂さんは「一番耐え難かったのは差別だった」と明かす。「日本人と同じテーブルに座ることは許されず、床に座って食事を取った。犬や豚以下の扱いだった」と言って悔しそうに胸をたたいた。
16歳で日本に連れてこられたイさんは「夢を見ることさえ叶わず、社会に対する恨みばかりが募っていた」と振り返る。溶鉱炉の作業場で倒れ肺に全治12週のやけどを負ったほか、日本の憲兵から理由もなく殴られたこともあったという。
呂さんたちはこうした事実を陳述書に記して日本の裁判所に提出した。2カ月に一度は日本で街頭デモを行い、世論にも訴えたが、2003年に敗訴が確定した。
意気消沈した呂さんたちを再び立ち上がらせたのは、日本の市民団体「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」だった。呂さんたちは「一人じゃない」という思いに気力を取り戻し、05年、新日鉄住金に損害賠償を求める同様の訴訟を韓国の裁判所に起こした。一審と二審は「日本の確定判決は韓国でも効力が認められる」として原告敗訴の判決を下したが、大法院(最高裁判所に相当)は昨年5月、原告敗訴の判決を破棄してソウル高裁に審理を差し戻した。呂さんは「一審と二審で相次ぎ敗訴し、韓国はあまりに薄情だと感じた。信じていた自国の裁判所でそっぽを向かれ、何倍もの脱力感を感じた」と語った。
この日の差し戻し控訴審判決で、新日鉄住金に賠償の支払いを命じる原告勝訴の判決が出たが、呂さんたちは「まだ闘いは終わっていない」と心配の表情を見せた。「新日鉄住金は裁判結果を不服として上告するに違いないが、また裁判をしなければならないと思うと気が遠くなりそうだ。会社側が心から謝罪し、自発的に慰謝料を払うよう願っている」と語った。呂さんとイさんは高齢による病気のため、外出や人との会話さえも楽ではない状態だ。一緒に裁判を起こした申千洙(シン・チョンス)さん(87)、キム・ギュスさん(84)は健康状態が悪化し、この日は法廷に姿を見せなかった。
キム・ウンジョン記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/07/11/2013071100830.html
^^ 大馬鹿だなぁ、韓国人は。
韓国にある日本企業の資産の差し押さえを実行しないと、どんなに喜んでも何の意味も無い。
差し押さえの実行をしなければ、どんなに喜んでも無意味な事だ。
見せてもらうか、韓国の裁判所の実力とやらを!

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