火田の話
原始農法の遺物(京城日報)
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京大の橋本博士を隊長とする十余名の火田調査隊は目下国境地方から江原道へかけて実地調査中である、この調査隊が調査の結果を報告すれば朝鮮の火田民の現 状は手に取るように明かになり、またこれに対する根本的方策も樹立されるであろう、しかし何分にも秩序を追う御役所の仕事だからそれまでには多少の時日を 見なければなるまいと思う、筆者がこれから書こうとする火田の話はこの根本的の調査が完成するまでの間に合せと思って読んで頂けば、それで結構である。
総督府では従来広く火田調査を行った、大正十三年には小田内通敏氏に嘱託し踏査調査を主とした調査をなし有益な面白い写真なども多数収録したも のを発表し、その後大正十五年には照会調査の法により各道からの報告を纏めて編纂したものがある、その二つの外に大正五年土地調査局で『西北鮮地方におけ る火田に関する調書』なるものを出している、筆者はこれ等の既行調査書を参考として本文を執筆した
ヤレ火田の整理だ、火田民の救済だと大騒ぎをしているのはまず世界広しといえども朝鮮より他には聞いたことがない、…当局がいう如く事程左様に 林政上、将又農耕上重大な悪影響を有する火田民が広い世界にタッタ朝鮮だけ残っているということは原始農業の標本にはなろうが、原始はいわゆる非文化であ る、決して自慢にはならぬ
北海道のアイヌは保護を加えても年々減少する、朝鮮の火田民は当局が絶滅を期しても一向へらぬ世の中は自由にならぬものである 。
併し火田は現在でこそ朝鮮特有であるが往古は日本にもあった。畑の文字は、それを立証して余るまいかと、同船は十二日更に沿言葉が残っている所 から見て、これまた火田に類するものがあったことを首肯しうる、思うに東洋諸国、特に原始時代において狩猟時代から農耕時代への経路をたどった地方には、 この火田があり、狩猟時代から牧畜時代へとうつった地方にはこの火田耕作時代というものがなかったのではあるまいか
だから欧洲には森林牧地の一分を耕地とする野生殻□農法は往古大いに行われ現在でも未開なロシヤの南部にはこれを見るが、火田時代は欧洲の農業 発達過程にはなかったようである、こう考察して来ると火田はドウモ東洋非牧畜民族特異なものの様である、しかし支那にも日本にもモウ火田なんて原始的な農 耕を続けている所は殆どただの一ケ所も見受けない朝鮮のみに今なお数百十万の火田民が存続し林政上の癌をなしているというのはそこに何等かの深い原因がな くてはならない
多くなったのは最近三十数年来のこと 現存する二つの理由
その原因の一つに李朝五百年の悪政が挙げられている、中央政府の威令地方におよばず、また買官によって得た地方の官吏は、苛歛誅求至らざるなきものが あった、美田沃野を耕作し苛歛誅求におうより、山野深くわけ入って火田を耕作する方が、大分楽であった、かくて、悪政は火田存続の一理由になったのであるまた大正十五年に総督府で調査した『火田の現状』中平北熙川郡の報告に左の如き一節あり火田の来歴を知るに好個の参考である
朝鮮に於て火田の史実に上りたるは今より二百七十年前考宗四年なり、其後山野の利用は民衆と共にすとの趣旨に依り、山野中耕作に適するものあれば その開墾を認め山間細民の失業離散を保護したるは当時政府の治民策なりき、其後今より百七十年前英祖に至りて始めて分簿に登録し、火田に公税(六等田の課 税)を課するに至りしものなり斯くして火田は社会の敗亡者、乱民の逃竄者、若くは隠遁者の事業となり高山深沢到る所、森林を燃焼して濫耕し折角の原生林を 茫々たる原野に変じ国土の重用部分を禿赭地たらしむるに到らしめたるものなり翻って本郡の火田に関し其の由来を繹ぬるに、文献の拠るべきものなきを以って 中古の沿革詳かならざるも、盛んとなりたるは極めて最近のことに属するものの如く、古老の言に依るに今を距る数十年前迄は人口極めて希薄にして住民は殆ん ど平地の農業を営み、山野は到る処鬱蒼たる密林繁茂したりしが、時、清の光緒二十年に至り日清の役起り、平安南道及平安北道は挙げて其の交戦地となりしを 以って、平野地方の住民は先を競いて山間に避難し、本郡内にも一千有余戸避難民入り来り、之等の失業者は火田開墾を始め遽に火田民の数を増すに到れり
といっている
右に依ると山野の利用は民衆と共にすべきだという趣旨から山野の開墾を許した時代がありこれが火田の方法によって耕作したかどうかは明かでない が、もし火田耕作の方法によっていたとすれば一種の善政的意味から火田を許された時代もあった訳である、しかし熙川郡の場合は日清戦争に平安南北の両道が 戦禍の中心地となり、この戦禍を避けて奥地に入り、火田民と化したものが大部分であるといっている、各道各郡によって火田民の発生と存続の理由がおのおの 相違するであろうが、大部分は古代から残っている、いわゆる先天的のものと、戦禍を避けたり水害等の天災で耕地を失ったり、犯罪者が官憲の目をくらますた めや、村を追われた異端者や、癩病患者、隠遁者、悪政をさけた者などが山深くわけ入って火田民と化した後天的のものとの二つにわけることが出来よう
転々居所をかえジプシーのように放浪し廻る火田民の群
火田民には火田の耕作のみで生計をたてている者と、熟田と火田とを兼耕している者との二種ある、咸南あたりでは前者を純火田民と呼び、後者を準火田民と いっている、仕末に困るのは前者の純火田民で転々居所をかえ、労すくなくして収益の多い山地を発見しては官有、私有の区別もなく山に火を放ち四五年耕作を 続け収穫が減少すると、まに他の新らしい産地をもとめて転ずるのである、一ケ所に定住すること長くて五六年しかして彼等はジプシーのように水草を追うて山 また山をあるき廻り朝鮮の山野を年と共に荒廃させ例の松毛虫より恐ろしい代物である 。
まず彼等、純火田民はある場所が収穫を減ずると一家眷族、鍋、釜、簡単な家具等すべての必需品を飼育している牛の背に積み親爺は牛の手綱をとり 母親は子供の手をひいて人跡まれな山地を彼かこれかと適地を求め漂々浪々の旅に上る、そして適地を発見すると附近の山から樹木を伐採して壁も屋根も丸太で 組合せ、トテも豊富に木材を使用した、トテも簡単な住家を建て四五年定住の安息所を設けるのである。
火田耕地の選択は、北方と西方に向かった山を拝し東方と南方に向かった山を愛し矮林よりも喬林針葉樹林よりも濶葉樹林を好む、これ等は日あたり のよい所と土地の肥沃な所、以前火田耕作をやっていない土地という標準で選択するもので、昔と南向きは日あたりがよく喬林は以前、火田耕作をしていなかっ たことを語り、濶葉樹林は朽葉が多く土地肥沃である
斯くして適地を選び終ると秋から冬にかけて耕地とする山野の木材の伐採に着手し直径五六寸以上もあって伐採に困難なものは環状に樹皮をはいで立 枯として伐採したものの一部は薪炭用として自宅に運ぶ、こうして明春を迎えると程よく伐採した樹木が可燃焼状態になるので四五月の候、火を入れるのであ る、鬱積した枯木は嵐の様に燃えて紅焔の炎は数日間山をつつみ全くの壮観である、この火入れが目的の耕地ばかり燃え尽くして鎮火してくるれば理想的である が多くの場合、理想と現実とは一致しない、附近の鬱蒼たる大森林に転火し数百千町歩の自然林を烏有に帰したという例も少くないのである、朝鮮の山火事が枯 葉の秋におこらず若葉の春におこるのは火田の火入れが山火事の大原因をなしていることを立証するものであろう
焼いた樹木に火の気がなくなるとそれを一ケ所に集め降雨を待って灰が地にしみ込むと起耕に着手するのである。耕作に適する場所を選んだとはい え、どうせ山地帯のことであるから大小の岩石起伏し農具の操作は頗る困難である、まず強壮な二頭ひきの牛で鋤耕をやるが下手にやれば鋤先を岩石に突当てて 破壊してしまうから石をよけ岩を飛び、その操作は実に巧妙を極め、到底平地帯の耕作者には予想もつき兼ねる程である
鋤耕後に目的の作物を播種するが起耕第一年は粟又は馬鈴薯を選び脊薄な所には燕麦を□□
人手不足から十歳の娘に早くも婚養子を迎える習慣
火田にはどんな作物を播種するか、これは肥沃の程度により一定せぬか普通馬鈴薯、粟、小豆、大豆、蕎麦、燕麦)玉蜀黍等で、作付の順序は、一年目(馬鈴 薯)二年目(粟)三年目(大豆、小豆玉蜀黍)四年目(蜀麦)、五年目(燕麦)六年目(廃耕というのが普通の所でまた普通の順位である、尤も脊薄な所では燕 麦、蕎麦などを三ケ年位、耕作し四年目から早くも廃耕とする所もあり又咸南あたりでは最近栃木県から大麻の種を取寄せて奨励しているが本場の栃木よりも上 等品が収穫されるそうであるその他所によってはコーゾなど奨励している所も見受ける
火田の耕作は一回の施肥もせず播種から収穫まで除草、中耕等の手入れもせぬことが本筋である、施肥をしたり中耕をしたりするとモウ純火田の域を 脱し、それが進むと熟田と変るのである、尤も火田の多いい平南北および咸南の産地帯にあっては気候も寒冷で土地も肥ていないから雑草など生えない所が多い そうで斯様な所では除草の必要などは全然ない訳である
火田は何分人跡未踏な高原地帯に散在していることとて気候頗る寒冷で六月中旬までも晩霜があり、十月中旬早くも初霜を見る所が多く作物の生育も 短期間にグングン伸びて降霜前には秋の収穫を終るのである、多年火田の耕作にならされた作物は鉱山植物のような習性を加味しているのではあるまいか?、播 種する、発芽する、引伸ばすように生長する、そして早くも成熟するという目まぐるし変化を短期間に終るのである
こうして霜をかけると悪いというので収穫期の多忙さといったら全く非常なものである、しかしこの多忙の中でも収穫物は成るべく家に搬入するが馬 鈴薯のように重量容積共に運搬に困難なものは耕地の一隅に簡単な貯蔵室を作り、そこに貯蔵する所が多い、無論山の中で人跡稀であるから盗難の心配などはな い
火田の収穫は熟田より当然少く火田民も決して祐福な生活はしていないが、秋の収穫期が非常に多忙なため人手の不足を感ずる事は各戸共同じらしい。 それで女子も十四五歳になると野郎に出て労働に従事し、更に娘のある家では将来の結婚を口約して娘が十歳位になると十五六歳の男の子を貰い受ける習慣が咸 南の一部に行われている、これは労力補給のため結婚生活に入れぬ娘に労働力のある男を養子に取って置く訳である。
火田の耕作面積とその収穫高は各道各郡所によって相違し、また各戸について調査して見た所で、どうせ正確なものは得られぬが『火田の現状』中平北 碧潼郡の一例を執ると耕地面積は大位六町、中位二町七反、小位五反、平均三町となり、その他の各道各郡共大体や町乃至三町という所が一番多い二うである、 また碧潼郡における火田民一戸あたりの収穫高を見ると
大位
粟七石、大豆五石、小豆二石七斗、玉蜀黍二石、蜀黍一石五斗蕎麦七石、馬鈴薯百八十貫、その他一石、計三十六石二斗、百八十貫
中位
粟七石六斗、大豆二石三斗、小豆一石二斗、玉蜀黍九斗、蜀黍七斗、蕎麦三石二斗、馬鈴薯百二十貫、その他四斗、計十六石四斗、百二十貫
小位
粟一石四斗、大豆四斗、小豆三斗、玉蜀黍五斗、蕎麦七斗、その他一斗、計三石四斗
その他副業として養蚕、養蜂、牛ぶた、鶏の飼養等がある、しかしこの副業収入を金に見積ることは交通の関係、人口の疎密で一様でないから各地各様であろうが碧潼郡の場合は三十円から六十円位あるといっている 。
一ケ年の収益六十七円八十銭也 想像も及ばぬ珍奇な生活
火田民の生活は自供自足というのが本筋で準火田民になると、モウ大分普通化せられ特異性を発見することが少くなる、しかし何ぼ自供自足だといっても塩、綿 布など一部の日用品はこれを他からもとめなければならず公課も一ケ年二円位は必要である、それらの出費は自家に生産された鶏、卵、豚、牛穀物などを附近の 市場に運び金にかえて支弁するのである、だから火田民の生活は月給取のように幾何の収益があり幾何の支出があり幾何の余裕又は欠損があるというような計算 をたてることは非常に困難である、平北江界郡の調査によると一ケ年の収益収穫籾八石一斗代六十七円八十銭に対し支出八十六円九十銭となっているから差引不 足十九円十銭となり此不足は副業収入で補填されているといっている
右の数字でも判る通り火田民一ケ年の支出は食用の穀物を金に見積ってさえ八十六円余である、その内衣服代と公課と食塩と鉄製農具等の費用が三十円 四十銭で中には物々交換のものもあろうから実際金銭の出納高は一ケ年二十円内外ではあるまいか、当今一家の生計をたてる所で一ケ年の現金出納が二十余円と は全く他に類例を見まい、これ又火田民の特異な生活がある訳で研究するに従って興味も加わって来よう
そんなに貧しい、充たされ、ない生活をしていても火田民もやっぱり人間である、人間本来の美を愛し芸術を愛する心は火田民にもある、冠婚葬祭の際 には笛もあり大鼓もある、その大鼓たるや、大きな円筒に獣皮を張った至極簡単なもので、それをドンゴドンゴと打鳴らす時、山深き彼等の生活にも一掬芸術の 至情を燃やすことであろう
また面白いことには火田民、特に咸南長津郡にあっては、死亡者の財産で後継者のない時には、これを契(婚姻契や、葬儀契などがある所がある)の積 立て金にする慣習があり、彼等の内やや産をなすものは再び郷里に帰り行く者もあるが、そんな者は百戸に一戸もないので多くは家族の内の壮者が、郷里に残し ている祖先の墳墓に展ずるため一ケ年一回帰郷する習慣がある、その他火田民の特異性としては、どんなに多忙な秋の収穫期でも共同耕作を行わず物価の自給自 足ばかりでなく労力も自給自足で押通す慣習があるこれは人口が稀薄で近隣を頼らないこと、流浪の民で離合常ねきこと等が原因をなしている、こんな訳で部落 の入口にある厄除けの山霊神の祀の如きも同じ地点で各戸別々に行うという奇習があるのである
以上で大体火田民の話を一と通りしたが、まだ火田民の数と面積、過去における火田民整理等が残されている、これ等について少し書いて見よう、火田耕地の面積は
[図表あり 省略]
南鮮は減少し北鮮各道は増加する一方施設の成績如何
昨日の統計で朝鮮の火田面積が純火田十四万一千八百四町、準火田□十六万百九十六町であることは判ったが、この面積は過去より増加しているから?減少して いるか?減少しているとすれば多年当局が口を、すゆくして火田整理をやって来た効果が現れ、減じていないとすれば、その効果がなかった訳である、大正八年 から十三年までの五ケ年間の消長を見ると左の通りである
[図表あり 省略]
この表で見ると大正八年から十三年までの五ケ年間には減少処かかえって一万九千余町歩増加しているのである、当局が多年多額の経費を使い幾多の施 設をしても一向減少せず、かえって増加して行くことは考究すべきことである、京大の橋本博士をわずらわすようなことになったのもかかる過去の成績に手を焼 いた結果であろう。それから、また面白いのは減少しているのは京畿、忠北、忠南、全北江原の五ケ道で主として京城以南の各道である、これは人口稠密で総て の施設が徹底する所では取締が行届いて火田耕作の余地なく、咸南、平南北、黄海のような所は人口稀薄で山深く分け入れば当局の取締も行届かず、自然、その スキに乗じて火田耕作者が跳梁しうるのではあるまいか?
そして又一つ考察しなければならぬのは取締が徹底すれば新しい火田適地を発見して火入をするということは余程困難であるから、自然一度火入をした 耕地に肥料をやり出入をなし集約的の耕作をはじめるのではあるまいか?南鮮各道の減少の原因が取締の徹底、人口稠密で火田適地発見の困難等から火田が熟田 に化したことがその大原因の一つであることは確に一つの見方である、これを首肯せしむる一つの実例に咸南、平南、北等北鮮の諸道にあってもやや交通の便が 開け人口が増加してくると一時は火田であった所も肥料をやり、手入れをなし何日かの間にか熟田と化しているのである、しかしこれは火田民本来の意志でなく 火田民としては自由に場所をかえ、自由に適地に火を入れたいのであるが環境に支配され転住の希望を捨て定住するに至ったものである、当局はこう変化するこ とを非常に希望している
火田民の戸口を純火田民と準火田民別に見ると純火田民は六万五千二百六十五戸、三十一万二千四百三十六人、準火田民は十六万四千七百七十八戸、八 十二万七千七百五名、合計二十三万四十三戸、百十五万五千四十一人(大正十三年九月末)となり、また要存予定林野、不要存林野、民有林野別に見ると、要存 予定林野内には五万八千五百六十六戸、三十一万四千八百二十三戸、その面積十四万五百五十一町歩に達し、不要存林野内には四万七千五百二十七戸、二十三万 五千六十七戸、その面積六万二千六百三十六町歩、民有林野内には十二万四千四百九十二戸、六十万九千百三十六人、その面積十九万七千七百七十四町歩に達す るのである
転住性を嬌め一般農民の福利を図れ 火田整理の方策
火田をこのまま放任して置いては朝鮮の山は悉く焼き払われ、土砂は流失して河床を埋め、大洪水は年毎に見舞うというので当曲では従来再々この火田民整理 の方策をたてた、李朝時代にも種々禁令を設けたが最近のものでは明治二十七年に関防の守備を徹し封山の制を廃止したので国有林の保護機関を失い火田の濫耕 を誘致しその余弊はかり知るべこうざるものあったので隆煕二年旧韓国政府は法律第一号で森林法を発布し同法第十二条に農商工部大臣の許可なくして森林山野 を開墾することを得ず同法第十四条に地方官又は警察官吏の許可を受くるに非ざれば森林山野に火入をなすことを得ず同法第十七条に第十二条乃至第十四条の規 定に違背したものは禁獄又は一円以上二百円以下の罰金に処すというような厳重な条文で火田を取締ったのである
日韓併合後の明治四十四年制令第十四号で森林令を公布し、同令第十九条に他人の森林に放火したるものは十年以下の懲役に処すといい同第二十二条 に濫りに他人の森林を開墾したるものは二百円以下の罰金に処すという厳格な条文を挿入して取締ることになった、然しこの厳重な法規により一時に徹底的取締 をなすことは余りに過酷に過ぎる嫌があるとて四十四年道庁官会議に火田整理の諮問を提出している、これは既耕火田に対するものと、新墾火田に対するものの 二つに別れ既耕火田に対しては
一、傾斜三十五度以上(花崗岩地は三十度)の国有林野に於て火田を開きたる者は明治四十六年まで耕作を許し翌四十七年から禁止すること、但し石垣その他の設備を施し土砂崩落の処なき所は当分之を黙認すること
二、傾斜三十五度未満(花崗岩地は三十度)の国有林野に於ては既に火田を開きたる者に対しては当分之を黙認すること
三、私有林野の内第一号に掲げたる傾斜地に於て既に火田を開きたるものに対しては説諭を加え成るべく林業を経営せしむること
四、総て火田は混農林業を奨励すること
五、前各号に依り既墾の火田を制限せられ生活に窮する者があれば成るべく支障なき林野若は未墾地を貸付し又は他に職業を与うること
新墾火田の整理に対しては
一、傾斜三十度以上(花崗岩地にあっては二十五度)の林野に於ては新に火田の開墾を許可せざること
二、傾斜三十度未満(花崗岩地は二十五度)の林野に対しては各道長官に訓令し左の区別に依り火田の許可を与えしむること
(イ)要存置林野及要存地と認めうる林野に於ては森林に延焼の虞なき箇所に限り使用後は植付の上還付すべき条件を附し許可すること
(ロ)不要存林野内には成るべく混農林業を行わしむること
(ハ)私有林に於ては成るべく混農林業を行わしむるとと
右の諮問案を提出し各道長官の意見を徴した
転住性を嬌め一般農民の福利を図れ 火田整理の方策
また、警務総長、各道警務部長、道農業技術官会議等においても意見を徴しこれ等を総合参酌して大正五年四月火田整理に対する左の如き内訓を発した一、国有林野区分調査の結果要存林野に編入せられたる区域及要存予定林野と認むべき林野に於ては火田を目的とする火入又は耕作を禁止する方針なり、但し現耕の火田にして道長官に於て止むを得ざる事項ありと認むるときは火入を為さざる限り当分の間其の耕作を認容するを妨げず
二、前項以外の国有林にして傾斜三十五度(花崗岩質の土地は、三十度)の土地並に国土保安上その他特別の事由ある土地にありては、新に火田を目的 とする火入又は耕作を禁止する方針なり、その傾斜三十五度未満(花崗岩質の土地三十度)の林野にありては、国土保安、その他特別の事由なき限り当分の間従 前の慣習に依るを妨げず
三、前二項の方針に依り厳重に之が取締を為し区分調査の完了区域に在りて必要に応じ適当なる耕作地を選定して之に移転せしめ、区分調査未済の区域に在りては区分調査の進捗に伴い本府又は営林廠調査員と協議の上適当に耕作移転地を選定し漸次整理を為すべし
四、営林廠に於て同廠所管の林野調査に際し火田整理の為、耕作移転地を選定したる時は、其の境界に標識を設け六千分の一図及面積其の他必要と認むる事項を記載せる調査書を作成し□伺の上之を道長官に引継べし
五、前二項に依り設けたる耕作移転地は傾斜の如何に拘わらず便宜之を国有未墾地利用法に依り取扱い料金を免除し事業成功の上は其の土地を付与することあるべし
右内訓の方針に従って各道でビシビシ火田整理を行い二三の道の如きは移転予定地を選定し移転料を支給して移転させた所もあった、しかしお金を頂戴 して平地に下りた者も数年ならずして再び山に入って火田生活に入る者相つぎ森林法の施行も火田整理の内訓も決して十分の効果を表し得ず今日に至っている。
『火田の現状』中には整理の内訓を出す大正五年当時は要存予定林野内の火田は八万一千町歩で大正十三年九月末は六万四千町歩で一万七千町歩ばかり 減少したことになっているが、これは内訓発布当時の調査には営林廠管内の分が不明で大正十三年九月末の分は右六万四千町歩の外に営林廠管内の要存予定林野 内の火田七万六千町歩があり、これを加えると実に十四万町歩に達する、大正五年当時の営林廠管内の統計が判明せぬから一がいに成績を云々することは出来ぬ が兎に角、森林法も内訓も効果がなかったことは確であろう、京大の橋本博士をわずらわし火田の大調査をやっている現状からみてもそれは判る
どうして火田民は整理出来ないか?…筆者はこう考える…交通不便、かつ人口稀薄で取締の徹底を期し得ぬこと。火田民自身に火田耕作に対する良心的苛責がないこと。余り数が多いこと。などは原因の一つではあるまいか、橋本博士は
水害、風害、旱害等の天災や其他各種の原因で離村の止むなきに到った農民は内地渡航を企てたり、間島や満洲に渡ろうとするが、これを阻止されたり 渡った所で失敗したりすると山深く分け入った火田民となるから鮮内に工業でも発達し離村農民を吸引するようになったら太分火田民は減少しはせぬかと思われ る 。
といっている、思うに火田の整理は、朝鮮二千万民衆に生活の安定を得さしめ、新入山者を防ぎ、モウ一つは現耕火田民の転住性を防ぐ、ことの二つに帰することが出来はしまいか(完)
ねえ、どんな気分?(嗤)