俺のお婆ちゃんちゃんが、この船の先の便に乗ったらしくて命が助かった。
戦後、経済が回復して修学旅行も増えたが、気象情報が少ない時代だったので
この他にもいろいろ沈没事故があったようだ。
1955年(昭和30年)5月11日:濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突して前者が沈没し168人亡くなる事故(紫雲丸事故(2度目の沈没事故)・国鉄戦後五大事故の一つ)が発生した。この事故を契機として、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに乗客が乗った客車の航送は中止。事故を受けた組織見直しで国鉄四国支社(のち四国総局)に宇高船舶管理部を設置。
この事故は修学旅行の学生・児童を中心にシ者が多数出たため、四国内の人々は大きな衝撃を受けた。以降数年間(中には瀬戸大橋開通前年まで)、香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しない四国内に変更されたほどである。この惨事は、瀬戸大橋・児島(岡山県) - 坂出(香川県)ルート実現の大きな原動力となった。