鬱陵島の歴史: 空島政策、日露の争い、そして日本人中心地道洞の建設
鬱陵島は、512年に新羅に従属するまで于山国として独立していた。(金富軾著 井上秀雄訳注『三国史記』平凡社,1988,p.98) 于山国は後に、高麗にも貢物を献上するようになったが、11世紀初頭に、満洲から来た女真の海賊の侵略で滅亡した (川上健三著『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996,p.66)。
日本海/東海にある鬱陵島は、たびたび大陸と日本本土との衝突の拠点として利用された。13世紀初期、元帝国は高麗を支配し、 日本に侵略しようとした(元寇)。その際、鬱陵島は日本侵略する際の拠点の一つとなった。その後、日本で倭こうが発生するようになると、 朝鮮は頻繁に倭こうの被害にあい、鬱陵島はその倭こうの拠点となっていたため、朝鮮王朝にとって悩みの種となった。 (大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,pp.53,54)
1438年、島民全員に対し、本土に渡るよう指令が下り、鬱陵島を無人島とする空島政策が行われた。 川上氏は、空島政策が実施された背景を、本土を悩ませていた倭こうの拠点に鬱陵島がなっていたことに求めている(川上著健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996,p.67)。
以降、空島政策は450年もの間実施された。(左図 大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,p0 写真掲載覧 林子平『三國通覧説』引用)
1617年、伯耆(ほうき)国米子の大谷甚吉は、空島政策で無人島になっていた鬱陵島に流れ着いた。 鬱陵島に様々な木材や魚採が豊富にあり、それを確認した大谷は、日本に戻り幕府に開発許可を求めた。 次の年、大谷・村川両家は幕府から鬱陵島への渡海免許をもらい、毎年交代で鬱陵島に渡航し、 アワビの採取やアシカの捕獲、竹木の伐採に従事した。
大谷・村川両家は1618年に幕府から渡海免許を得て、年交代で何事もなく鬱陵島の経営を行っていた。
(誰からも文句を言われず ”50年間” 実効支配すればその島はその国の領土になる↓)
独占的経営を行っていた両家であったが、74年後の1692年、村川家の者たちが鬱陵島に訪れた時、朝鮮じんを発見した。
これを幕府に報告したが、幕府は朝鮮じんたちがトラブルを起こしたわけでないと判断し、問題としなかった。
次の年、大谷家の者が訪れた時にまたもや朝鮮じんが鬱陵島に来島しており、安龍福らを日本に連行したのであった。(川上健三著『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996,pp.146-147)
幕府側は安龍福らを朝鮮に返すと同時に、鬱陵島が当時において自国領と考えていたからか、朝鮮側に対して鬱陵島渡航を禁じるよう要求 を行った。
対する朝鮮側も、空島政策をとり無人島になっているにせよ歴史的に鬱陵島は自国領として認識していたため、その要求を受け入れる ことができず、逆に日本人が渡航しないよう要求したのであった。
この鬱陵島をめぐる両国の論争は、対馬藩を介しいくつもの書契による交渉で 行われ、最終的に幕府側が韓国側の領有を認める形で、鬱陵島の渡海禁止令を出し、解決したのであった。 この一連の事件は竹島一件と呼ばれる。
しかし、1881年の江原道観察使から、日本人が鬱陵島に定住し伐木や漁業に従事しているとの実態を聞いた朝鮮王朝は、もはや鬱陵島を無人島 のまま放置できないと考え、空島政策を廃止し、積極的に開発することにした(大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,p.203)。
1889年12月に日朝間で「日本朝鮮両国通漁規則」が調印され、「日本海沿岸の日本漁民は朝鮮沿岸においても漁業に従事し、また鬱陵島へも渡航ができる」 ことになった。(大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,p.237)これにより、多くの日本人が鬱陵島に来島した。
朝鮮じんは、漁業では海藻や鮑をとる程度でしかなく、 主に農業が中心であったが、日本人の漁業技術にならい習い、イカ釣り漁を行う者も現れた。
鬱陵島の朝鮮じんは、日本人から漁業技術を学んだのである。 (布野修司・韓三建・朴重信・趙聖民著『韓国近代都市景観の形成 日本人移住漁村と鉄道町』京都大学学術出版会,2010,p.315) (川上健三著『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996,p.177)
(中略)
ロシア戦争後、
鬱陵島への移民の多くは、日本海/東海をはさんで対岸にある日本本土の島根県出身であった。
鬱陵島に移住した日本人は、朝鮮李王朝時代の中心地であった朝鮮半島に近い台霞ではなく、島の東南部の日本に近い道洞に新しい中心地を作った。
朝鮮民族は、日本人が作った道洞の街はずれに集落を形成し、住み分けが行われた。(奥原碧雲著『竹島及鬱陵島』ハーベスト出版,2005,p.90)
鬱陵島移民者は主に、漁業を営み、人夫として朝鮮民族の人々を雇った。
日本が敗戦し、日本人移民者が本土に引き揚げると、日本人が住んでいた集落に朝鮮民族の人々が移り住み、今日の道洞が形成された。
こうして、日本が作った道洞が、今も鬱陵島の中心地としての機能を果たしている。
船は、鬱陵島のフェリーターミナルビルに近づいてきた。赤塗りのわりと大きめのターミナルビルである。
下船すると、ターミナルビルの中には浦項行きの時刻表や料金表、そして竹島/独島ツアー船の時刻表や料金表が掲載されている 。
その近くには、観光客や島に帰ってきた人々の迎えのためであろう、乗用車やバスが多く駐車してあった。
港の至るところに、竹島/独島の写真付きの看板や横断幕が掲げられている。 竹島/独島に行くことが、鬱陵島最大の観光アトラクションとして前面に押し出されているようである。 なかでも目立つのは、「公務員独島アカデミー歓迎」と書かれたものであった。
公務員独島アカデミー
「公務員独島アカデミー」とは、竹島/独島を守るため、まずは公務員が島の事を正しく知る必要がある、 と鬱陵郡庁政策発展チームのキム・ホンリン事務官が唱えたことから始まったプログラムである。 このアカデミーは、全国に通達され、開設1年余りで4600余名もの参加があり、人気を博しているようだ (公務員独島アカデミー公式HP)
このプログラムで多くの人が鬱陵島に訪れ、鬱陵島の観光地としてのプロモーションになった。 竹島/独島という民族意識に関わる問題にアピールすることにより、鬱陵島への来島者数を増やし、地域経済を振興しようとする郡役所の姿が見て取れる。
私たちは、港を出てすぐ観光地の光景に出くわし、観光が島の産業に占める重要な役割を認識した。
イカとカボチャは鬱陵島の名産で、イカの像が港に立ち、郡役所が制定したと思われるイカとカボチャの可愛らしいキャラクターが、 至る所に掲げられている。
港には、観光案内所が設置されている。比較的最近作られたような、新しい小屋である。だが、私たちが訪れた時は、案内所に人はいなかった。 後で行ってみると、案内所の係員には韓国語しか通じず、英語で会話するときは、英語ができるボランティアを電話で呼び出してくれた。
島民が港で、民宿の勧誘を積極的に行っている。私たちを勧誘しようとした年配の女性は、私たちが、韓国語が通じない日本人とみるや、 ジェスチャーで付いて来いと手招きしてきた。日本人が宿の予約なしに鬱陵島にぶらりと来ても、泊まるところには不自由しないようである。
別の鬱陵島の島民は、私たちに、名物であるスルメの試食を勧めてきた。大きな干したスルメイカの包は、島の一番の観光土産品である。
道洞の街にはいると、山がすぐ海沿いにまで迫り、平地が港の奥に向かってまっすぐ延びる細長い所にしかないため、 坂になった街の道路沿いの窮屈な場所に、観光客を対象とした商店、宿泊施設、そして飲食店が密集している。
私たちが予約した民宿の中央荘に行くまでの間にも、鬱陵島で採れたスルメイカの干物や、鬱陵島の特産農産物であるカボチャのお菓子などを 販売する土産物店が並んでいる。
スルメイカの干され方は日本のものと同じである。これは、島根県隠岐島の人たちが道洞に移り住んでいたとき、 鬱陵島の朝鮮民族に教えた方法だという (杉原隆『鬱陵島、竹島の歴史』)。
港の近くには、巨大な郡所有の駐車場があり、島内の自家用車の普及がある程度進んでいること、 そして鬱陵島中心の道洞に鬱陵島の住民が集まる傾向があることが分かる。
(中略)
港では、平日にかかわらず、多くの人たちが竹島/独島行の船に続々と乗り込んでいた。この人数からすれば、船内は客であふれ、 ほとんどの席が埋められている状態であろう。竹島/独島ツアーが、鬱陵島最大のアトラクションとして、いかに人気であるかわかる。