紫雲丸事故(1952年)乗客781名
宇高連絡客船の紫雲丸(総トン数1,480トン)と宇高連絡貨物船の第三宇高丸(総トン数1,282トン)とが、濃霧の中で1952年(昭和30年)5月11日午前6時56分、香川県高松沖合において衝突した。
当日紫雲丸は、午前6時40分船客781人と貨車等19両を載せて高松を出航し、約10ノットの全速力で岡山県宇野に向かい、一方、第三宇高丸は、午前6時10分貨車18両を載せて宇野を出航し、約12.5ノットの全速力で高松に向かっていたもので、紫雲丸右舷船尾に第三宇高丸船首が前方から約70度の角度で衝突し、その結果、紫雲丸は沈没し、船客166人及び船長ほか乗組員1人が亡くなり、船客107人及び乗組員15人が負傷し、第三宇高丸は船首部に損傷を生じた。
多数の旅客を輸送する大型連絡船の海難で、犠牲者の数が多かったこと、亡くなった船客の多くが、婦人、子供、修学旅行の生徒達であったこと、レーダーという最新式の航海機器を装備した船舶間の事故であったことなどから、社会に与えたショックは大きなものがあった。
船長の中村正雄は退船を拒否してブリッジに残り船と共に海中に沈んだ。
1970年年2月、鉱石船「かりふおるにあ丸」が太平洋上で沈没した事故でも船長は 離船を拒否して、船と運命をともにして亡くなった。
また多くの犠牲者を出した洞爺丸の近藤船長や十一青函、日高、十勝、北見丸の船長達も退船を拒否して亡くなっている。