済州島民の蜂起と韓国による鎮圧
1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。
その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名のシ者が出た。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)韓国本土でも戦闘が行われ、その際に日本への密航者が生じることとなった。
済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。
これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。
韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出してさつ害するとともに、少女達を連れ出しては、数週間に渡って輪かん、虐待を繰り返した後に惨さつした。
1948年9月に金日成は朝鮮・ 人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義 人民共和国の成立を宣言した。
1949年12月24日には、韓国本土で韓国軍は住民虐さつ事件(聞慶虐さつ事件を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した[5]。
1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義 人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、
1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民がさつ害されたとも推測される。
また、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人がさつ害された[6]。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている[7]。
歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。
韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。
日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日韓国人となった人々も多い。
日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを形成した。済州島では事件前(1948年)に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。

済州島民の慰霊を慰めていた対馬寺院の仏像