
盛岡冷麺(もりおかれいめん)は、岩手県盛岡市の名物麺料理。わんこそば、じゃじゃ麺と並んで「盛岡の三大麺」と称されている。主に焼肉店で供される、辛味のある冷麺である。
朝鮮半島北部(現・北朝鮮)の咸興(かんこう、ハムフン)生まれの
在日朝鮮人1世の青木輝人(朝鮮名:楊龍哲(よう りゅうてつ、ヤン・ヨンチョル:양용철))が、
1954年(昭和29年)5月に盛岡でテーブル4つの「食道園」を開業し、
店で出したのが最初である。料理人としてのプロの技術を持たなかった楊は、
自分が子供のころに食べた咸興の冷麺を独力(独学)で再現しようとしたという[1]。
咸 興の冷麺はスープのないピビム(ビビン)冷麺が有名だが、咸興冷麺にもユクス(肉水:牛肉の出汁スープ)つきのものもあったといい、楊は自分が好きだった スープつきの咸興冷麺を自分の店で出した。咸興独特のかみきれないほどコシの強い麺は当初、盛岡市民には不評で「ゴムを食べているようだ(ゴムみたい だ)」などと言われてしまい、また当時は辛いキムチも日本では一般的ではなかったこともあり、まったく受け入れられなかった。 楊によると、咸興の冷麺はそば粉入りの灰色の麺だったといい、初期は店でもそば粉入りの麺を出していた。この灰色の麺は楊自身にもおいしそうに見えなかっ た。 楊はかつて働いた東京の韓国料理店で出されていた、白い冷麺を参考にそば粉を抜き、麺を白く変える。が、ジャガイモのでんぷんを使ったコシの強い麺や、キ ムチのトッピング、牛骨ダシ中心の濃厚なスープという「故郷の味の3要素」は守り続けた。やがて盛岡の新しいもの好きな若者たちの間で、そのユニークさが 「一度食べたらあとを引く」と評判になり、店には客が入る様になった。ここに、「盛岡冷麺」の基本形が完成したといわれる。ただし楊自身は、「盛岡冷麺」 でも「咸興冷麺」でもなく、「平壌(へいじょう、ピョンヤン)冷麺」という看板を掲げ続けた。商売っ気のある楊は「咸興より、平壌の方が大きな街で有名だ からそうした」と生前、いたずらっぽく語っていたという。
1979年(昭和54年)に都南中央跨線橋の西袂に開業した郊外型店「焼肉ガー デン ペコ&ペコ」(2001年閉店)は、テレビ・ラジオ・市内映画館などのメディア広告を使い「冷麺」を宣伝し、この宣伝がヒットして「冷麺」は岩手県内に知 れ渡ることとなった。なお、「ペコ&ペコ」では「平壌冷麺」ではなく、単に「冷麺」と呼称していた。
「盛岡冷麺」の名称を市内の店で初めて使用したのは、1987年(昭和62年)に
「ぴょんぴょん舎」を創業した在日韓国・朝鮮人2世の邊龍雄(へん りゅうゆう、ピョン・ヨンウン)
である。それまで盛岡では、楊の店にならって「平壌冷麺」、
または単に「冷麺」と呼ばれていた。 まだ「ぴょんぴょん舎」開店の準備中だった邊に、
1986年(昭和61年)10月に盛岡で開かれた「日本めんサミット」出店の声がかかり、
小さなブースで出した冷麺の看板に「盛岡冷麺」「ぴょんぴょん亭」の文字が書かれたのである。
「盛岡冷麺」という呼称を使うよう勧めたのは、サミット運営を担当した
盛岡市職員の田口善政だったという。
田口は、盛岡式の冷麺が県外で「盛岡冷麺」と呼ばれているのを知っていたのである。
「盛岡冷麺」という名称は当初、在日のコミュニティーからは「故郷の味を安売りするもの」
「祖国の食文化を日本に売り渡す」と猛反発を受けた。が、
これを機に徐々に「盛岡冷麺」の名が市民に浸透し始め、
全国的にも盛岡の名物として知られるようになる。邊をはじめ、
楊を追って冷麺をつくり始めた店では、それぞれが独自の試行錯誤を繰り返し、
盛岡冷麺の味は次第に日本人の味覚に合ったものに変化しつつある。
こうした「盛岡冷麺」誕生と浸透の経緯は、1993年(平成5年)に
朝日新聞岩手版に小西正人記者によって連載された記事
「冷麺物語 日本と朝鮮・韓国の間に横たわるもの」で初めて詳細に明らかにされた。
連載記事は2007年(平成19年)に「盛岡冷麺物語」(リエゾンパブリッシング刊)
として書籍化された。
その後、この記事をベースにしたTV番組「ザ・ルーツ 俺たちの盛岡冷麺」が、
2009年(平成21年)3月、岩手朝日テレビで放送されている。
盛岡冷麺は日本人ではなくて朝鮮人によって作り出されたものですが、
何か?w(・∀・)
しかも、韓国とは関係ない北朝鮮系の朝鮮人ですね。
何も調べずに、個人の妄想だけで叫ぶ奴は先進国の水準に達していませんね…