私たちが「鳥越俊太郎化」しないためのたったひとつの希望
今日も取材なのに一睡もできなかったParsleyです。おはようございます。
夜半についつい『ハフィントン・ポスト』の鳥越俊太郎インタビュー(前・後)について、ざざっと記事を書いてしまったわけなのですが。
「ネットを信頼しない」鳥越俊太郎氏はネットメディアによって「終わる」のか(ふじいりょう)
シロクマ先生のエントリーを読んで、彼の言動に関して我々が教訓というか、反面教師とするにはどうすればいいのか、考えこまざるをえなかった。
すっかり年を取ってすっかり変わってしまった鳥越さんを眺めながら考えていたこと(シロクマの屑籠)
個人的には、「週刊誌編集長」という肩書きを持っているひとのある種の「変わらなさ」というものがあり、鳥越氏なども考え方や思考が変化しているとは思わないので、
シロクマ先生がいうような「衰え」にその理由を求めていいのか、ちょっと留保しないといけないような気がする。
例えば鳥越氏に限らず、花田紀凱氏もこんなことを記事にしている。
『シン・ゴジラ』、ゴジラがあまりにかわいそう。(花田紀凱)
1954年版の初代ゴジラや1984年版のゴジラのように「人類の敵」として描かれたものは原子力、もっといえば水爆や東西冷戦といった世界情勢を下敷きにしていて、
庵野秀明版ゴジラはその正統な後継作品であるということは明らかだし、さまざまな怪獣に対して「人類の味方」として戦うゴジラ像は「娯楽作品」として大衆に求められた結果として生み出されたものだということは、私程度の知識でも語れるわけなのだけど、花田氏にかかっては「最新兵器を駆使して、寄ってたかってゴジラを殺すだけの映画」と記しちゃうわけだ。
ただ、彼の場合は感性の劣化ではなく、いつの時代に作られたとしても「逆張り」をしたと思う。
話が逸れた。結局のところ鳥越氏や花田氏のように紙媒体やテレビで生きてきた人たちは「君子豹変する」というところがあって、
書いたことが「ログ」として残って考え方が変わった時に即座にツッコミが入るインターネット時代の言論人ではない、ということだろう。
私が鳥越氏と『オーマイニュース』のことを記事にした(参照)のは、当時このブログで『オーマイニュース』について継続してウォッチしてきた身として、
それを指摘することが一貫性につながると考えたからだし、URLがある限りは参照されるから。
まぁ、あの頃に書き散らしたことで、今スルーするのはちょっと違うだろうと思ったわけだ。
このブログを続けている間、一時期に私も心身を害していて、若干荒れた内容のエントリーを出すこともあった。
けれど、そういった「よくない時期」に自分を支えたのもこのブログだったし、過去に書いたエントリーだった。
もちろん、シロクマ先生のおっしゃるところの「思考力や判断力や羞恥心の衰えた言動」と気力・体力はリンクするだろうし、そのリスクは誰にだってある。
とはいえ、過去に「書いて残した」ものがパブリックに読める状態である限り、方々から指摘されるだろうし、それが「自律」につながるんじゃないかなぁ。少なくとも彼らよりも。
より「自律」を意識するならば、定期的に過去に書いた自分の記事を読むこと。
それによって「鳥越俊太郎化」が避けられるのではないか。私としては自分の「ログ」があるということに望みをつなげたいし、
仮に事故った時には即座に訂正するなり謝るなり、他者の忠告を素直に聞くなりするだけのフックになるのでは、と思っている。
だから、自分の書いたものが公開されて残っているという状態は「希望」そのものだと考えている。それが「ネットを信頼している」世代にとっての、あるべき態度だと信じる次第です。
鳥越さんの「僕は知らない」は、ネットでは全く通用しない
朝日新聞社系のハフポストで鳥越俊太郎氏のインタビュー記事が掲載されています。「ペンの力って今、ダメじゃん。だから選挙で訴えた」鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】
http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/10/shuntaro-torigoe_n_11422752.html
「ジャーナリスト」鳥越俊太郎氏のその人となりが余すことなく露出しており、悲しくも秀逸なインタビューとなっておりますが、
それにしても全編を通じて氏の主張は「僕は知らなかった」という無責任な言い訳と、氏の「ネット」に対する憎悪にも近い偏見であります。
それが端的に現れている箇所を当該記事より抜粋。
――選挙後にご自身のサイトから都知事選の記述を消されていますね?
それは知らない。僕は全くノータッチだから。なくなったの?知らない。見たこともないし。
あなたたち(ハフポスト日本版)には悪いんだけれど、ネットにそんなに信頼を置いていない。
しょせん裏社会だと思っている。メールは見ますけれど、いろんなネットは見ません。
ネットは「裏社会」と言い切る鳥越氏であります、今回の自身の敗因を論理的に振り返ることもなく、
自身の無能ぶりは完全に無視して全ては他者責任に押しつける「ジャーナリスト」鳥越俊太郎氏なのであります。
ネットの一部には、今回の鳥越氏の都知事選出馬・惨敗をもって、「彼は年老いてしまった」「晩節を汚してしまった」との同情論にも似た論説も見受けられますが、私はそうは思っていません。
もともと彼はメディアを媒介とした情報発信者としては、このレベルの極めて不誠実で非論理的で無能な人物であったのであり、今回の都知事選は単にそれが、広く知れ渡ったに過ぎません。
その意味で
今回の都議選での最大の効用は、既存メディア及びそこに巣食ってきた「ジャーナリスト」なる怪しげな職業の、
そのメッキが鳥越氏の無能さを通じて、広く一般大衆に理解されたことでしょう。
この「ジャーナリスト」の言い訳じみたインタビューが朝日新聞社系のハフポストに掲載されているのも興味深いですが、今回はこの問題でお付き合いください。
・・・
さて少しメディア論をさせてください。
このSNSが普及した時代。情報発信はメディア・ジャーナリストの独占物ではなくなりつつあります。
考えてみれば一般大衆に情報発信する「ジャーナリスト」など、教員や医師のように免許がいるわけでもなく、何の資格も必要としない職業なのであり、本来社会の誰でも情報発信可能なものである性質だったのが、
新聞・ラジオ・TVと既存のマスメディアは、放送電波の免許や独禁法例外の新聞再販制度などで、幾重にも法により守られた選ばれた「特権階級」として情報発信を独占してきただけです。
旧来のメディアは限られた情報発信手段を独占し、新聞は「大衆」に情報を一方的に発行、TV・ラジオは「大衆」に情報を一方的に放送、情報は「特権階級」であるメディア・「ジャーナリスト」から一般大衆に一方通行に発信されるものでありました。
彼らが情報発信の特別の能力を有しているわけでもなく単に法により守られた存在であり、自由競争ではなく独占的に発信手段を有しているだけの存在であったために、
自分たちの利権を守るために日本では100以上の記者クラブが現存し、今現在も情報源の独占を何とか守ろうとあがいているのは、むしろ滑稽ですらあります。
記者クラブ制度などマスメディアが「特権階級」であったころの残滓にすぎません。
さて、ネットの普及により情報の流れは革命的な変化をいたしました。
今日のネットの技術革新は、ネット上の情報発信を完全にインタラクティブな双方向性、すなわちネット参加者のすべての人に情報発信能力を与えたのです。
ネットメディアでは、情報発信者が起こした記事は、コメント欄やツイッターなどのSNS、ブックマーク、トラックバック、あらゆる手段で読者の意見がぶつけられていきます。
アマゾンの商品レビューしかり、ネットメディアの記事ページしかり、ネット情報は完全に双方向性を有しており、リアルタイムに会話的に情報のキャッチボールが可能となった初めての媒体、
それがネットなのです。
ネットでは情報発信はマスメディアの独占物ではなくなった、唯一の情報発信者としての「特権階級」だったマスメディア・「ジャーナリスト」のその独占的「利権」が、
インターネットにより今崩れ去ろうとしているわけです。
新聞などのマスメディアや「ジャーナリスト」がインターネットおよびそのユーザーに徹頭徹尾批判的であるのは、フランス革命時の貴族階級の大衆に対する反応とほぼ同値なのであり、
自分たちが能力的に優れているから独占的に情報発信していたわけではなく単に法律に守られていただけの「裸の大様」であったことを、彼ら自身実は痛感している証左でもあります。
今回の鳥越氏の浅はかなネット批判に代表されますが、彼ら既存のマスメディアや「ジャーナリスト」はネットのメディアとしての特性を真に理解できていません。
放送や新聞発行といった一方通行の情報伝達手段にすっかり慣れているために、ネットでは情報が双方向で飛び交うことに戸惑ってばかりいます、
ときにネットの匿名性や情報精度の玉石混淆なことを批判的に取り上げることはあっても、媒体としてのネットの優れた特性を正しく理解はできていません。
数年前、「ヤフー知恵袋」が大学入試のカンニングに利用され大きな騒動となりましたが、大新聞はこぞって社説でネット批判を展開いたしました、
「だからネットは信用できない」、「ネットユーザーのモラルの低下」うんぬん、勇ましく社説で語られていましたが、
「ヤフー知恵袋」の事件が示していたのは、だからネットはだめなんだということではまったくなく、実は本質は真逆であり、
ネットが情報発信の双方向性を持つ優れた媒体であるからこそ「ヤフー知恵袋」のようなリアルタイムサービスが実現しているのであり、優れた媒体であるからこそカンニングに悪用されたのであります。
誰かが疑問に思うことを発信し、その情報の不特定多数の受信者が「解決策」を提案する、リアルタイムなこのようなサービスは、既存の放送や新聞では逆立ちしても真似はできないのですが、
新聞の社説ではそのようなネットのメディアとしての特性に対する言及は皆無であり、ただ表層的なネットおよびユーザー批判にとどまっていました。
・・・
選ばれた「特権階級」であるマスメディアが情報発信を独占していた時代に戻ることはもはや不可能でしょう。
好例は、朝日新聞従軍慰安婦捏造報道問題であります。
朝日新聞の従軍慰安婦に関する捏造報道はネット上では、何年も前からほぼ完全にトレース・検証されてきました。
私たちは新聞・TVなどの既存メディアは一方的に情報を垂れ流すだけのメディアであることに気づいてしまいました。
かつて、マスメディアからの情報は受信するのみ許され、私たちが反論を発信する手段はありませんでした。
一方、ネットでは私たち自身が情報発信が可能である、参加者になれます。
この決定的な媒体としての特性の違いをマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。
彼らマスメディアや「ジャーナリスト」は、少なくともネット上では、もはや情報発信を独占する「特権階級」ではないのです。
今まで新聞紙面やテレビ放送など過保護に守られてきた媒体から上から目線で論説することに慣れていた彼らは、
そして一切の反論を受けてこなかった一方的特権的情報提供者として振舞ってきた彼らは、
今日のネットからの強烈な反証や批判にさらされ、自身のメッキが無残にも剥がされていくことに、なすすべを持ちません。
彼らの口から出るのは非論理的な呪詛だけです、「ネットなどしょせん裏社会だ」と。
双方向の情報発信が可能なネットにおいては、マスメディアも「ジャーナリスト」も、一参加者に過ぎないことを強く自覚すべきです。
上から目線で言いたいことだけ言って反論は無視するような、その悪しき「体質」は、ネット上では全く通用しない、もはや貴方がたに「特権」はないことを強く自覚すべきです。
鳥越さんの「僕は知らない」は、ネットでは全く通用しないのです。
鳥越俊太郎さんの駄目さ具合から私たちが学ぶべきこと
あまりにもどうしようもない晩節の汚し方を教えてくれた鳥越俊太郎さん。
最初の告示時点の調査で、幅広く都民の支持を集めてトップ目から、さらし続ける醜態でどんとん沈没。
結果として競り合いもせず主要三候補のなかで堂々のビリに。酷いもんでした。
一番最初に「見に来ませんか」と民進党の方に言われて鳥越さんの街頭を見にいったとき、彼は自分一人で街宣車の屋根まで梯子を上がることができず、スタッフに介助されていました。
もうこの時点で、駄目なんじゃないのかな、と思ったわけですよ。
もちろん、頭さえはっきりしていればたとえ体が動かなくても政治はできる、
石原慎太郎さんだって週数日の登庁で都政が回っていたじゃないかという話をする人はいたんですが(主に新聞社方面)、残念なことに、頭もはっきりしていませんでした。
「増田寛也敗戦」で自民党都連は何を反省し、どう立ち直るか
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20160812-00061060/
板橋区議 自由民主党 坂本あずまお
http://www.azumao.com/
自民党の顛末については、幾つかインタビューを仕込んでいまして、最初に坂本東生(あずまお)さんの記事をヤフーニュース個人で出しました。
私は内田茂さんとは親しくもなんともないけど、利権を貪るドンという印象や、都議会が伏魔殿と喧伝されている内容は、半分以上は作り上げられたもので、叩きやすいところを叩く構造であると思ってます。
だからこそ、本当に変えなければならないところが温存される危険性もあるわけで、そこはもう少し取り上げる側も「面白いところだけやる」のではだめじゃないかと自分を棚に上げて思うわけです。
しかるに、鳥越俊太郎さんの話は衝撃的でした。当然、あれを支える側も「こんなはずじゃなかった」ということだと思いますが、週刊誌スキャンダルが出る前から候補者としての素養に疑問符がついて以降、
一度も上向くことなく、最後は共産党支持者や主力だった50代、60代女性からの支持も失って惨敗したのが鳥越さんです。
「ペンの力って今、ダメじゃん。だから選挙で訴えた」鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】
http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/10/shuntaro-torigoe_n_11422752.html
鳥越俊太郎「ネットはしょせん裏社会」。なるほど落選するわけですね。
http://nakatsuma.jp/2016/08/3176/
そして、全く反省していない、どころか、社会が悪い、ジャーナリズムが悪い、リベラルが負けているという。
これが、ジャーナリストとしての実績を買われて、野党統一候補として出馬した人間の言うことなのかなと思うんですよ。
この辺はもう、中妻じょうたさんも幻滅されたような記事を書いておられますし、私が加えてあれこれ申し上げるものもないのですが。
そこから見ている私たちが学ぶべきことは、鳥越さんに対する論評をしっかりと重ねたうえで、老人になってもそういう人間にならないようにしよう、という戒めなんだろうと感じます。
すっかり年を取ってすっかり変わってしまった鳥越さんを眺めながら考えていたこと
http://blogos.com/article/186772/
私たちが「鳥越俊太郎化」しないためのたったひとつの希望
http://blogos.com/article/186869/
ある意味で、自分に対する批判や弱点の指摘は、反応するしないは別として受け止めておいて、環境に応じて自分を作り替えていくしか方法はないんだろうと思うのですが、
やっぱり高齢になり、社会からの反応を直接受け取らなくても大御所として仕事ができてしまうポジションにくると人はこういう腐り方をしていくものなのでしょうか。
その部分を見るだけでも、いまの民主主義に自由な言論空間としてのネット社会が相応に機能していてよかった、と思ったわけであります。
どんな意見であろうが、賛同されるされないは別として表明するところまでは自由ですからね。
ネットの世界でいうならば、結婚や就職転職出産など、人生の節目や、ブログやSNS、有力配信先へのリーチといった技術や環境の移り変わりに乗れずに、
アウトプットの質や量を落とし消えていく人はたくさんいます。
パソコン通信のころから28年、ネット界隈でやらせてもらってきて思うことは、結局自分が思っているほど、他人は自分のことなど考えているわけもないので、
環境にあわせて自分を作り替えていかないと沈んで死んでいくだけだということです。
その点で、新聞紙や週刊誌はネットほど「誰が書いたのか」や「何が書かれたのか」を検証されずに、また致命的なものがあっても組織に守られたりしてどうにかなってしまったので、
その行動様式でポーンとネット社会でやろうとしたり、政治家になろうとすると自滅していくものなのだ、というのはほうぼうで指摘されているとおりです。
そうなると、自分を腐らせず、弛まずに進んでいくには競争環境に自らを置き、誰よりもうまく変化していくしかないのだろうという結論になり、
それを20年、30年と今後も続けていくのだろうか、それって現世は修羅なんじゃね、と思うわけですけどそれもまあいいか。
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