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70年代日本人キーセン観光ブーム…韓国政府は「愛国行為」奨励も
2019年02月07日08時44分中央日報
釜山玩月洞の集娼村の2014年の様子(写真=釜山発展研究院)
1962年にできた仁川弥鄒忽区崇義洞(インチョ/ン・チュホルグ・スンウィドン)の集娼村である俗称「イエローハウス」が再開発される。「1月末までに全業者退去のこと」という最後通告を受けたが、10軒余りの業者の売春女性およそ40人は行く先がないといって動かない。ソル(旧正月)連休が終われば強制撤去が始まるという話が出回り、思わぬ事故への懸念も高まっている。崖っぷちに追いやられた女性たちが胸の奥深くにしまいこんでいた彼女たちだけの話を教えてくれた。集娼村で30年余りを過ごした売春女性Bさん(53)の証言を紹介したい。
イエローハウス店内に入ると、膝の高さのオンドル部屋がある。女性たちが「玄関おばさん」の手に引かれてやってくる男性たちを待つ控室だ。ここで女性たちと数回インタビューした後、ある日、Bさんがノート一冊を見せてくれた。ものを書くのが好きで、時々日記を書くと話していたことを思い出した。日記帳だと察することができた。記者が映像撮影記者と一緒にイエローハウスに立ち寄った後、Bさんが書いた日記の内容だ。
「記者さんが私たちの話を聞きに来られた。過ぎたことが走馬灯のように思い浮かんだ。同じ人間なのに、私たちもやはり多くのことに背を向けて生きてきたようだ。私たちの話が新聞に載せられて話を吐き出し、想像もできなかったことが起こっている。関心を持ってくれた記者さんには有難いが、どこからどのように私たちのことをお話するべきか」
Bさんはその日以降、心の奥に埋もれたままになっていた記憶を探り続けた。Bさんは大邱(テグ)チャガルマダンから仁川イエローハウスに来るまでの20年余りの間、全国のさまざまな集娼村を経験した。釜山玩月洞〔プサン・ワンウォルドン、現在の西区忠武洞(チュンムドン)〕の集娼村もその中の一つだ。
釜山玩月洞の集娼村は韓国最初の性売買密集地だ。1900年代、日帝が港の近くであるここに集娼村を作って以来、80年代まで盛況を極めた。当時は業者が150軒余り、従事女性が2500人を超えていた。売春女性が2500人もいれば、どれほど多くの男性が毎日ここに来ていただろうか。
2004年の売春特別法施行後、規模が大幅に減った。2015年釜山市と西区庁が都市再生事業に出たが、業者45軒・220人が依然と営業をしている。
釜山発展研究院の報告書によると、ここも「ブティック店従業員求む」「家政婦求む」のような求人広告にだまされてきたり、家庭暴力や性暴力などを受けた後に家出をして業者生活をしながら借金が増えたりしてやってきた女性が多かった。
Bさんは玩月洞で10年以上働いていた。80年代後半~90年代後半をここで過ごしたといえる。
「玩月洞はとても規模が大きかったです。儲けているところはほぼ企業でした。○○場・○○館、このように呼んでいましたが、事業主はテレビに登場する芸能人とも知り合いで財産が何十億ウォン台でした。この世界で玩月洞出身といえば私たちの間で一目置かれていました」
ここでは主に日本人団体観光客やヤクザ(日本の組織暴力団)を相手にした。客10人のうち9人は日本人だった。3泊4日間、一緒に釜山南浦洞(ナムポドン)や京畿道龍仁(キョンギド・ヨンイン)の民俗村、済州道(チェジュド)を訪れながら観光ガイド役もした。
「ヤクザが来ると釜山の暴力組織が接待しました。私たちはキーセンパーティーをするかのように韓服を着て彼らを出迎えました。チャーミングスクールとともに外部の私設学院に通いながら日本語はもちろん、茶道や礼儀作法、歩き方まで学びました。一種の外貨稼ぎですね」。Bさんはまだ日本語をかなり話すことができる。
このような形の売春は一つの産業として位置を確立した。全北(チョ/ンブク)大学新聞放送学科のカン・ジュンマン教授は著書『売春、韓国を剥がす:国家と権力はいかにして性を取り引きしてきたか』でこのような内容を明らかにした。「1970年代、日本人を主な客とする観光キーセン業という名称が普遍化した。日本人観光客数は71年9万6000人余りから79年65万人余りに増え、このうち85%以上が男性だった」
また、カン教授はこの本に「朴正熙(パク・チョ/ンヒ)政権は73年から売春婦に許可証を与えてホテルの出入りを自由にし、通行禁止と関係なく営業することができるようにした。また、朴政権は旅行会社を通じて『キーセン観光』を海外に宣伝しただけでなく、文教部長官は73年6月に売春を女性たちの愛国的行為と奨励する発言をした」と書いた。
カン教授はこの本で、78年韓国が売春で日本人に対してあげた収入が700億ウォン(現在のレートで68億円)程度だとした。カン教授は『同盟の中のセックス』(キャサリン・ムン)、『韓国の女性運動:昨日と今日』(イ・ヒョジェ)、『韓国の売春』(パク・ジョンソン)などを参考にした。
絶対的な力を持った政権の管理の下で女性の性は商品として取り引きされた。輸出が最高の愛国だった時期、彼女たちは日陰で外貨を稼いだ。集娼村は法の死角地帯で公認を受けたためか、人身売買犯が大手を振って歩いていた。
年若い少女たちは訳も分からずドロ沼に引きずり込まれ、一生抜け出すことができないのが普通だった。彼女たちの一部は現在も営業主として、玄関おばさんとして、売春女性として生きていく。どん底に縛られていた30年の歳月が彼女たちから外の世界と接する勇気を奪い取っていった。
日本人を相手にした「キーセン観光」が盛んに行われていた中、玩月洞の売春女性と釜山太宗台(テジョンデ)の新仙岩に行った日本人観光客が女性の写真を撮ろうとして崖から落ちて亡くなる事故も起きた(1976年)。95年釜山地検強力部が日本ヤクザ100人に売春をすると契約した料亭の事業主を拘束したこともある。この事業主は4カ月間で日本人観光客1人あたり3万円を受け取って堕落行為を斡旋(あっせん)して1500万円(当時約1億2000万ウォン)を稼いだ。
町の男たちはBさんをはじめ玩月洞の女性たちが通ると「チョッパリ(日本人の蔑称)」と遊んでいるとからかった。「正直いえば自尊心が傷つけられました」。自尊心のためだったのだろうか、独立運動記念日の3月1日には営業を休んだ。
この日、日本人観光客が来ると「今日が何の日か知らないのか。どこを上がってくるか」とののしりながら追い返した。虚しい事実は、数日過ぎたら「イラッシャイマセ」と叫んで、また忙しく日本人を迎えたということだ。
ソウル明洞(ミョンドン)の近くでも日本人相手の売春業者が繁盛した。俗称「ダチ」と呼ばれるここの女性たちは斡旋元から連絡を受けてホテルのような宿泊業者で売春をした。この「ダチ」は2012年までもメディアに登場していた。ソウル中区(チュング)の有名ホテルである○○○ホテル・○○ホテルの支配人が「キーセンパーティー」をするとし、「ダチ」女性を有名高級料亭に連れていったりした。
89年にはソウル市警がキーセンパーティー営業が疑われる有名料亭を対象に一斉捜査(売春行為防止法違反)を行った。ソウルで旅行会社の会長、料亭のマダム(女主人)、組織暴力団などが「円稼ぎ」売春を斡旋して拘束されることがたびたびあった。済州道(チェジュド)も70~80年代、日本人を相手にしたキーセン観光が活発だった。
「日本人たちが韓国に『現地妻』を多く置いていました。私もマダムに60代の日本人ゴルフ場社長を紹介されましたが、正直いうと身震いしました。しわだらけの老人が私の目の前で『かわいいね、かわいいね』と言っているのに、国力が弱いので年若い韓国の娘たちがこういう目に遭うのかなと思いました。その佗びしさは体験したことがない人には想像できないでしょう。(地位の)高い方々は知らなかったと思います」。