◇日本最初の金
日本で初めて金が産出されたのは、奈良時代の 天平21(西暦749)年、陸奥国小田郡、現在の宮 城県遠田郡涌谷町であり、当時の陸奥国主から朝 廷へ黄金900両(約13kg)を献上したのが始まり とされる。
折りしも、聖武天皇が東大寺盧舎那仏像(奈良 の大仏)の鋳造を開始していた(天平9年)。大 仏に塗る金の調達に難儀していた頃であり、陸奥 国からの金産出の知らせは、天皇を大いに喜ばせ、 年号を「天平感宝」と改めたほどであった。そし て、万葉の歌人大伴家持は、「すめろぎ(天皇)の 御代栄えむと東なる みちのくの山にくがね (黄金)花咲く」と詠んでいる。
これ以降、みちのくの山々に黄金の花が咲くよ うに、北上高地で次々と砂金鉱床が発見され、そ の最たる一大産金地が、平泉の東方に位置する三 陸沿岸の気仙郡一帯であった。
◇奥州平泉における藤原氏の栄華
岩手県南部、人口約8500の平泉町。この地には 皆 かい 金 こん 色 じき で覆われた中尊寺金色堂をはじめ、奥州藤 原氏の栄華を偲ばせる遺産・遺構が多数存在する。
![金色堂について │ 中尊寺を知る │ 関山 中尊寺[岩手県平泉 天台宗東北大本山]](https://www.chusonji.or.jp/know/images/konjikido_01.jpg)
現在、この「平泉の文化遺産」はユネスコの世 界遺産登録へと脚光を浴びている。ここで、平泉 を造り上げた奥州藤原氏100年の歴史についてふ れたい。
源平の争いが絶えなかった平安時代末期。前九 年の役、後三年の役など幾多の戦乱や悲劇を経て、 最終的に北東北の支配者となった初代藤原清衡は、 壮大にして平和な都市平泉の原形をつくり、奥州 藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。
その中心が中尊寺金色堂である。清衡は、落慶 法要の席で「争いのない仏国土を造りたい」とい う趣旨の中尊寺建立供養願文を読み上げ、平泉に この世の極楽浄土をつくることをめざした。
その後、二代目藤原基衡は、毛 もう 越 つう 寺 じ を造営する など、父清衡が描いた浄土思想を中心として平泉 の町づくりに努力した。なお、鎌倉時代の歴史書 「吾妻鏡」には、毛越寺はわが国では他に例がな いほど立派だと記されている。
三代目藤原秀衡は、無量光院を造営。この頃は 奥州藤原氏の絶頂期で、東北一円に支配が及び、 京都に次いで、人口約12万の日本第二の巨大都市 平泉が完成したともいわれる。
やがて、平和を願う平泉にも、歴史の濁流が容 赦なく押し寄せる。源氏の棟梁源頼朝とその弟で ある義経との対立に端を発した源氏と奥州藤原氏 との戦乱の結果、四代目藤原泰衡は討ち取られ、 1189年、奥州藤原氏は滅亡。約100年間続いた平 泉の隆盛に歴史の幕が降ろされることになる。
◇平泉の黄金文化と東アジア
ここで平泉の黄金文化の発展と東アジアとのつ ながりをひも解いてみたい。 皆金色と豪華さで観る者を圧倒する中尊寺金色 堂。ここに、8世紀から16世紀まで日本の一大産 金地であった気仙郡一帯の金が使用されていたこ とが、東北地方の歴史学の権威である東北大学名 誉教授の高橋富男氏により証明されている。金は、盛 さかり 浦 うら 、現在の大船渡港などから海路石巻を経て、 北上川を北上して平泉へ届けられたとされている。
中尊寺金色堂には、金のほか、夜光貝を使った 螺鈿やアフリカゾウの象牙など、国内に存在しな い装飾品も多く、また、平泉では、中国の宋の陶 磁器が出土していることから、当時の国際港であ った十 と 三 さ 湊 みなと (青森県西部)などを拠点とした外国 との交易が確立されていたものと推測される。
そして、この豪華絢爛たる輝きが、後世の世界史に大きな影響を与えることになる。

◇黄金の国ジパングと大航海時代
マルコ = ポーロの「東方見聞録」は、翻訳本の 中では、当時、聖書に次ぐ大ベストセラーであっ た。その中に、「ジパングは、東海にある大きな 島で、大陸から2400kmの距離にある。・・(略)・・ 宮殿の屋根は全部黄金でふかれており、道路の舗 装路や宮殿の床は4cmの厚さの純金を敷き詰め ている。・・(略)・・」と記されており、まさに、 この「宮殿」のモデルが中尊寺金色堂であったと いわれている。 後世、この「黄金の国ジパング」伝説が、時の 冒険家たちの夢を駆り立て、大航海時代へと突入 する。そして、冒険家たちのめざすその先は、平 泉の中尊寺金色堂であり、莫大な金を産出してい た気仙郡一帯であった。
◇コロンブスがめざしたのは気仙郡の大船渡 マルコ = ポーロの「東方見聞録」から約200年 後の1492年、サンタマリア号でスペインのパロス 港を出港したコロンブスは、「新大陸」発見の偉 業を成し遂げることになるが、実は、コロンブス の本当の目的は、黄金の国ジパング、つまり日本 の豊富な金をめざしていたとされている。突き詰 めれば、その金の産出地である三陸沿岸の気仙郡、 大船渡であった。
それから120年後の1612年、時は、江戸時代初期。 後に「ビスカイノ金銀島探検報告」を著したスペ インの商人セバスティアン = ビスカイノが伊達政 宗の庇護のもと、大船渡港を探索している。この ことは、数年後の支倉常長らの慶長遣欧使節団の 派遣へと発展することになるが、このとき、伊達 政宗は、天然の良港大船渡港を国際港に位置づけ、 外国との交易を行う計画であったとされている。
◇見果てぬ夢の実現〜結びに〜
コロンブスは、ジパングに辿りつくことはでき なかった。しかし、後世の人たちが、彼の夢を継 承し、サンタマリア号を復元して、大船渡港入港 を達成した。実に「新大陸」発見から500年後の 1992年のことである。この偉業を称え、コロンブ スがサンタマリア号で出港したスペインのパロス 市と大船渡市との間で姉妹都市締結の調印が実現 している。
平泉の黄金文化、大航海時代を導いた黄金の国 ジパング・・・。歴史上の重要な分岐点で光彩を 放ったのが、気仙の黄金であった。産金地気仙郡 に残る金山の遺構、我々気仙・大船渡の誇りと気 風が、今も息づいている。