独島の歴史は新羅の時にさかのぼる.三国時代の歴史を記録した 『三国史記』(1145)を見れば 512年新羅ジズングワングの時の引っ越し部が于山国を征伐したと出る. 于山国は鬱陵島・独島を含んだその周辺島を合わせ呼んだ昔の名前で, この時から我が国の領土だったことだと言える. 高麗時代歴史を記録した 『世宗実録地理志』(1454)には “傘と武陵は本来に二つの島でお互いに距離が遠くなくて風が吹かないで天気が晴れれば眺めることができた”と書いている.
鬱陵邑に属している私たち地独島は地理的でも私たちの地である根拠が明確だ. 独島と一番近い日本領土(Oki島) の間の距離(通り)は 157.5kmで日本では独島を見られないが, 鬱陵島と独島の間の距離(通り)は 87.4kmで清い日なら肉眼で独島を確認することができて歴史的に独島は鬱陵島の一部に認識された.
朝鮮初期官撰書である 『世宗実録地理志』(1454年)にも ‘鬱陵島と独島二つの島がお互いに距離が遠くなくて天気が晴れれば眺めることができる’と言う記録が残っている. 記録だけあるだけ実測した記録がなくて去る 2008年 7月から 2009年 12月まで約 1年 6ヶ月の間鬱陵島住民を中心に独島を常時観測したりしたがその結果, 月平均 3‾4回以上独島を見られたし海霧がたくさん立ち込める夏より寒風が吹く秋でも春にもっとちゃんと見えたという結果を得たりした.
独島は 6世紀草葉(512年) 新羅が服属した于山国の領土と記録しているので, 独島に対する統治歴史は新羅時代までさかのぼる. 独島は新羅の将軍引っ越し部が鬱陵島を征腹した後今までずっと私たちの地だった.
ところで 17世紀末から日本が独島を含んだ鬱陵島を欲張って葛藤を起こし始めた. 朝鮮はそんな日本と 3年の間熾烈に論争をしたし, 結局日本は 1696年に独島が朝鮮の地だと認めたが, ここには有名なエピソードがある. 1693年漁夫安竜福が鬱陵島で漁業行為をしている途中操業権を間に置いて日本人といざこざが付いて日本本国で引かれて行った. しかし彼はホッケー(伯耆)州 太守に朝鮮人が朝鮮領土へ行ったが何がムンゼニャであり力強く主張した. これにより江戸幕府が彼を朝鮮で返したし, 1695年 12月 25日ドットリボンに対する問い合わせを通じて "鬱陵島(竹刀)と独島(松都) 皆ドットリボンに属しない"と言う事実を確認した後(ドットリボン答弁書), 1696年 1月 28日日本人たちの鬱陵島方面図解を禁止するように指示するようになった.
神刈朝鮮国電も(1894年)も, 日本で作った 『神刈朝鮮国電も(1894年)』にも独島と鬱陵島が韓半島のような索引黄色で描かれています. すなわち日本が ‘独島は朝鮮の地’と認める地図と言える. その他にもフランスで作った 『朝鮮王国前も』, 日本で作った 『サムグックゾブヤングジも』 など独島が日本の地ではない, 私たちの地なのを現わす昔の指導と資料がたくさんあって歴史的でも独島が私たち地なのを確かにできる.
国際法的根拠
朝鮮が大韓帝国に変わった後にも我が国は独島に対する主権を明確にしている. 1900年 「勅令第41号」を通じて鬱陶君の管轄区域を "鬱陵前も及び竹刀, 石刀(独島)"で明示したのだ. これにより国際的でも独島は韓国領土で公表になった.
勅令第41号(1900年)以後日本が日露戦争の中に独島を ‘竹島’と呼んで島根県考試第40号を通じて独島を自国領土で編入すると露した. 日本はこれを国際社会が認める国際法的根と主張している. しかし当時大韓帝国政府は彼に対立して独島が私たちの地なのをまた明白にしたが, ウルサヌックヤックで外交権を奪われた都合だからこの問題を直すのは難しい事だった. これは明白な株券侵奪行為であり, それによって獲得したと主張した領土は国際法的に無效だ.
独島が日本の島根県に強制編入になる私は 1902年大韓帝国内部代わりが鬱陶軍需梨リレーに下げた公式文書である ‘鬱陶だね節目’には鬱陵島に出入りするすべての貨物に税金を受けなさいという運営細則が盛られている. そして当時日本人たちは独島で取ったあしか(おっとせいの一種)を鬱陵島に持って来て輸出したという事実が日本外務省の記録に残っているのに, 日本人たちが独島で取ったあしかに対する輸出税を鬱陶軍需に納めたということは大韓帝国の行政力が独島にまで及んだことを分かる資料だ.
この以外にも独島は私たちの地という記録はたくさん残っているのに 『世宗実録地理志』(1454年)は鬱陵島(武陵)と独島(傘)が江原道蔚珍県に属した二つの島だと記録している. また, 独島に関する記録は 『信証東国輿地勝覧』(1531年), 『東国文憲比考』 (1770年), 『満期搖りかご』 (1808年), 『増補文献費で』(1908年) など他の官撰文献でも一貫されるようにつながっている.
もう一つ日本が主張することは 1951年締結された ‘サンフランシスコ講和條約’で独島は日本領土になったと言うのにサンフランシスコ講和條約を決める前, 連合国合意で独島は韓国領土で正確に記載していた. 条約上独島地名が韓国領土で抜けたのは事実だがそれは鬱陵島が記載したから鬱陵島に属した島として記載が省略されたのだ.2次世界大戦を公式的に終了させた 1951年 9月 ‘サンフランシスコ強化条約’に “日本は韓国の独立を認めて, 済州島, 巨文島及び鬱陵島を含んだ韓国に対するすべての権利, 権原及び請求権をあきらめる.”という条項がある. これは韓国の 3000余個の図書の中代表的な大きい島々を例示的に書いたのだ. それにカイロ宣言とポツダム宣言, 終戦後連合国司令官の覚書きを見た時も日本で分離する韓国の領土には当然独島が含まれたことで見なければならないでしょう.
そして連合国の中でイギリス, オーストラリア, ニュージーランドが独島は韓国領土と力強く主張したがアメリカが独島を日本領土で編入させようと思った部分があっていたりしたが, 一方的な見解をサンフランシスコ講和條約全体見解であることのように日本が主張することは悪質的な歪曲だと言える.
1. 日本は自分たちが 1600年代から独島を先に見つけて利用して来た?
世宗実録 ‘地理誌’の独島言及部分我が国は 512年引っ越し部の于山国征伐と『世宗実録』「地理誌」(1454年)だけ見てもこれより先に独島を私たちの領土で認識していたことを分かる. それに日本でも独島を韓国地だと認めるザリョルルスィブゲ捜すことができる. 代表的に 4街だがよく見よう.
‘ウンズシチォングハブギ’は島根県東部地方官僚だったSaito陶窯老父が著わした本
独島に関して記述している一番古い日本文献のひとつの 『ウンズシチォングハブギ(隠州視聴合記)』(1667年) を見れば日本の西北の方境界はOki島であり, 独島は日本の領土から除かれるという事実が分かる.
日本の高地途中ひとつの ‘改訂日本余地で停電も
日本政府が自国の独島領有権根拠で提示している「改訂日本余地で停電も(改正日本輿地路程全図)」(1779年初刷り)を見ても鬱陵島と独島暇日本領土ではないことを見せてくれている.
も 1693年, 鬱陵島を取り囲んで朝鮮との外交紛争が発生すると, 1695年 12月 24日日本江戸幕府はドットリ番(回)(鳥取藩)に文書を送って鬱陵島がドットリ番(回)に属するかどうかとドットリ番(回)に属する他の島はないのか問い合わせた. これに対してドットリ番(回)は鬱陵島と独島が日本の領土ではないことを明らかにした.
大政官指令(左側)と鬱陵島略図に描かれた独島明治時期, 日本内務省は土地記録部編纂事業に鬱陵島と独島を含ませなければならないかに関して当時日本の最高行政機関である大政官(太政官)に提出した. これに対して 1877年 3月大政官は江戸幕府と朝鮮政府の間交渉結果鬱陵島と独島の仕事をした所属ではないことが確認されたと判断して, ‘竹島(鬱陵島) 外一刀(一島: 独島)の件に対して本邦(本邦, 日本)は関係がないということを肝に銘ずること’という指示を内務省に降りるのに, これを 「大政官指令」という.
2. 独島は主人がない地であり, したがって 1905年独島を日本に編入させた 日 内閣回決定が正当だ?
大韓民国勅令 41号に言及された独島もう 1900年に大韓帝国勅令第41号発表で朝鮮の独島領有権を国際的に露した. また 512年引っ越し部将軍が于山国を征伐した時から独島は私たちの地に認識されて来たし, 上に言及した多様な古文書たちがこれを証明する.
たまに引っ越し部将軍が于山国を征伐する時于山国に独島を編入したという証拠がないと主張する人がいる. 鬱陵島で独島が肉眼でも見えるのに于山国で独島に影響を及ぼさなかったわけなくて, 引っ越し部の于山国占領後于山国は毎年新羅に物産朝貢を捧げた.
‘傘島から何種類薬草とともにスウピなどを捧げた’ という ‘朝鮮王朝実録’の記録を見れば独島が傘も(鬱陵島)の生活圏だったという証拠になる. スウピは当時海獅子, おっとせい皮を意味して海獅子とおっとせいの株居住地は独島だからだ.
3. ‘サンフランシスコ強化条約’に独島が直接的に明示されなかったから独島が日本が権利をあきらめる領土に含まれない?

2次世界大戦を公式的に終了させた 1951年 9月 ‘サンフランシスコ強化条約’に “日本は韓国の独立を認めて, 済州島, 巨文島及び鬱陵島を含んだ韓国に対するすべての権利, 権原及び請求権をあきらめる.”という条項がある. これは韓国の 3000余個の図書の中代表的な大きい島々を例示的に書いたのだ. それにカイロ宣言とポツダム宣言, 終戦後連合国司令官の覚書きを見た時も日本で分離する韓国の領土には当然独島が含まれたことで見なければならないでしょう.