「朝鮮産業革命の祖」野口遵(ノグチ シタガウ)
伊勢雅臣
水豊ダムは、日本統治下の朝鮮総督府と満洲国政府が工事費用を折半して1937年に建設着手。41年から発電を始めた。貯水量は、琵琶湖の約半分に相当し、当時としては世界最大級だった。45年の終戦時に、進駐してきたソ連軍が発電施設の一部を持ち去った。朝鮮戦争中にも米軍の空爆に遭ったが、壊滅的被害は免れた。中朝両国は55年、ダムの共同利用協定を結び、年間36億8千万キロワット時の発電を半分ずつ分け合っている。
安定した発電を続ける水量ダムは、エネルギー不足に悩む北朝鮮にとって今でも貴重な存在だ。韓国統計庁の推計では、2003年の北朝鮮の発電量は196億キロワット時で、その9%強が、水豊ダムから供給されている計算になる。
この水豊ダムをはじめ、朝鮮の水力開発に大きく貢献し、「朝鮮産業革命の祖」「朝鮮人の恩人」と称される人物がいる。日本窒素肥料を中核とする一大コンツェルンを築いた野口遵である。彼が朝鮮で展開した事業は次のようなものであった(黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社)。
野口氏は、威興の北にある鴫緑江上流を堰き止めて、日本国内になかった17万キロワットの巨大発電所をつくった。大正14年に着工、昭和3年に完成した。さらに2年後、20万キロワットの発電所をつくった。計37万キロワットという大発電所である。・・・それに続いて、白頭山、豆満江、虚川江などに続々と水力発電所を建設し、いずれも15万キロワット級であった。それから鴨緑江には、義州、雲峰、水豊など7カ所にダムを建設し、巨大な湖をつくって、180万から2百万キロワット出力の大発電所を計画していた。・・・水豊ダムは、高さ102メートル・・・出力70万キロワット、昭和12年から着工3年で完成した。
野口の事業について、『日本の創造力(10)』(NHK出版)には、こう記されている。
朝鮮半島の地形は背骨ともいうべき長白山脈が半島の東を走っている。そのため北朝鮮の日本海側は厳しい山岳地帯を形成している。西側は高原地帯を形成し、長白山に源を発する多くの河川は、ゆるやかに西流し、鴨緑江となって黄海に注いでいる。野口はこの水流を変更、日本海側の厳しい落差(約1千メートル)の地形を利用して新型の水力発電を行い、それを基本にして大化学工場を建設した。・・・川の流れを変えるのであるから、工事は大規模なものとなる。鉄道を敷き、トンネルをうがち、人工の湖をつくり、ダムを建設した。そしてそこに働く人たちのために町づくりもした。
いっぽう、昭和2年(1927)には朝鮮窒素肥料会社を設立、輿南に化学工場をつくり、一大化学工業地帯を出現させた。まさに野口の朝鮮開発は壮挙であった。
ちなみに、野口は昭和15年に脳溢血で倒れた後、全財産3千万円を寄付し、うち25百万円で財団法人野口研究所を、残り5百万円で朝鮮奨学会を設立した。研究所はその後化学の発展に寄与し、奨学会は約4万人の奨学生を送り出した。病に倒れた時、野口は側近にこう語ったという(日経2000・3・6)。
「古い考えかもしれないが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ」・・・化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」と。
台湾で東洋一のダムを造り、百万人の農民を豊かにした八田與一は、今も台湾の人々に敬愛されているが、北朝鮮は野口遵の事など一切語らずに、さらに援助をせしめようとするのみである。「報徳とか報恩」を知らない国は、国民が発憤して発展するはずもない。

水豊ダム(北朝鮮の平安北道の鴨緑江にあるダム)