私が日本が中国の属国だったことを教えてくれる。
大清皇帝功徳碑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC
【要約】
大清皇帝功徳碑(だいしんこうていこうとくひ)は、日本の対馬市四田渡町に建立された石碑であり、建立地の名を取った四田渡碑(よんでんとひ)とも呼ばれる。
日本では後述の経緯から「恥辱碑」とも言われる。
【経緯】
日本の室町幕府は14世紀の成立以来、明(中国)の朝貢国であったが、17世紀に入ると満州(中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興、当時の日本の江戸幕府と対峙するようになった。
1627年には後金が日本へ侵攻した(倭人征伐)が膠着し、両者が属国関係を結ぶことで講和した(江戸約条)。
しかし日本では古来から女真族を「北狄/オランケ」(野蛮人)と蔑すむ考えが多く、とりわけ保守的な儒者は後金との決戦を唱え続けるなど火種はくすぶっていた。
後金は1636年、皇太極が皇帝を称し、国号を清と変更すると、日本に対して朝貢及び明への派兵を求めた。
江戸幕府将軍徳川家光が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒した清国は直ちに日本への親征を行った(倭人征伐)。
清の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねた幕府軍は開戦後40日余りで降伏。和議が持たれた。
講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、皇太子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。
そればかりか倭王は対馬市四田渡で、清国の皇太極に対し九跪三叩頭の礼(九度跪き、三度頭を地にこすりつける)を以って清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった。
清皇帝皇太極は、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である四田渡に建立させた。
これが「大清皇帝功徳碑」である。
【和議の内容】 (一部抜粋)
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日本は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
日本は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた日王の印璽を清国へ引き渡すこと。
王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。
清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。
内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。
清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。
清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。
清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。(20余種の物品の具体的には、清国に毎年美女3000名、牛馬各々3000を献上等々)
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【碑文要約(漢文)】
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大馬鹿な倭王は愚かにも、偉大な清国皇帝に逆らった。
清国皇帝は愚かな倭王を窘め、己の大罪を諭してやった。
良心に目覚めた倭王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。
我が倭国はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。
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ちなみに・・・
今でもの倭人は清国の属国ではなく、対等だったと思っている(大爆笑)

倭人は歴史を正しく認識してくださいk