<国連事務総長>84歳在日韓国人被爆者、初対話に感激
8月5日13時26分配信 毎日新聞
国連の潘基文(バン・キムン)事務総長が歴代の国連トップとして、初めて被爆地・長崎を訪問した5日、被爆者たちは「核兵器廃絶」への期待を膨らませた。原爆資料館で被爆の実相にも触れ、平和のメッセージを打ち出したからだ。事務総長と直接対話し、被爆体験を伝えた被爆者たちは「核兵器のない平和な世界がこれでまた一歩、実現に近づく」と目を輝かせた。
潘事務総長と直接対話した被爆者の中には、在日韓国人の権舜琴(クォン・スングム)さん(84)の姿もあった。権さんは事務総長の来日が決まってから、そのことを報じる新聞記事をずっと持ち歩いている。「韓国大統領も来たことがない長崎に、世界のリーダーとなった韓国人が来るんですから」(世界のリーダーキタコレwww)
権さんは韓国・安東市生まれ。4歳の時、母に連れられ、日本に渡っていた父が住む京都市へ。「当時は貧しかった。米が買えずおにぎりが作れないんで、遠足には行かなかった」
(強制連行ではないんですねw)
学校で本名を使うと「朝鮮人」と指をさされた。だから、雨の日、学校の帰り道で傘を持って権さんを迎えに行ったチマ・チョゴリ姿の母を見て、避けて遠回りした。「帰って謝ると怒られました。母の悲しい顔、胸が張り裂けそうでした」
長崎に来たのは、権さんが15歳の時だった。朝鮮半島からの労働者が寝泊まりする宿舎の経営を父が始めたからだった。
(おや?朝鮮人労働者が強制連行なら民間が営業する宿舎に宿泊できる?脱走防止の監視も無いところに労働者が宿泊?)
権さんは、この町で朝鮮人の夫と結婚した。18歳だった。
被爆したのは結婚の翌年。爆心地から1.8キロの職場だった。「夫と一緒に働いていました。パーッと光が部屋に入ってきた。外に出たら、入道雲のような雲が空に広がっていた」。夫は、爆心地近くにあった宿舎に行き、同胞を捜し歩いたが、見つからず、2人で自宅に帰った。「家の前では、人がぞろぞろ歩いていた。(熱線を浴び)だらっと皮膚が垂れている人もいました」
(原爆の前年、戦争末期の1944年に朝鮮人同士が結婚できた。18歳の権さんは強制連行されて慰安婦になったわけでもなく、夫も強制連行されずに自由だったんだねw)
戦後の混乱の中、生きるために夫と必死で働いた。63年、市内に空き店舗を見つけ焼き肉屋を開いた。「この商売を始めて、やっと満足に自分の口へ食べ物が入るようになった」。その店が長崎市の老舗焼き肉店「アリラン亭」だ。苦楽を共にした夫は83年、膵臓(すいぞう)がんなどで死亡した。
長崎市などによると、原爆投下時、県内には約7万人の朝鮮人が暮らし、約2万人が被爆、約1万人が死亡したとされる。中には強制連行されてきた労働者もいた。
(徴用で長崎に居たのは何人? 毎日は印象操作ですねw)
権さんは「人間と人間が殺し合うなんて哀れなこと。会って話せば分かるはずです」と話し、ほとんど毎年、チマ・チョゴリを着て平和祈念式典に参列し、献花する。「ここに眠るほとんどの人の家族はもうお参りに来られないでしょう。せめて同胞が『安らかに』と祈らなくては」
(同族で殺しあって今も休戦状態の本国の人に言って。w)
長崎の在日外国人被爆者代表として潘事務総長と会った後、権さんは「『核兵器廃絶に一生懸命取り組む』と言ってくれました」。同じ韓国人である潘事務総長の言葉をかみしめていた。【蒲原明佳】
(韓国人世界大統領は口先だけだから信用しない方がいいよw)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100805-00000038-mai-soci
