琉球王国は1609年に薩摩藩の侵攻を受け、実質的に薩摩藩支配下に置かれました。
しかし、薩摩藩と江戸幕府にとっては、琉球を通した朝貢貿易にこそうまみがありました。当時の明は、「柵封」(中国皇帝に対して形式上臣下となる)を受け入れた相手としか貿易をしない「海禁政策」をとっていました。秀吉の朝鮮出兵によって明との関係が断絶し、関係修復をもくろんでいた幕府としても、柵封までは受け入れられないと考えており、むしろ琉球王国を代理的に柵封体制に組み込ませ、朝貢貿易を続けさせることを望んだのです。
このため、薩摩侵攻以後は、琉球の対中国貿易のほとんどは日本の品の輸出に限られていきます。(代表的な輸出品は北海道産の昆布で、17世紀には輸出品の8割は昆布だったといいます)。首里城には薩摩藩の役人が常駐し、貿易も薩摩藩が管理しました。琉球王国には貿易の利益はほとんどなく、年に一度の進貢船を出すごとに赤字だったそうです。
しかし琉球王国としても、対外的に王国が存続していることをアピールするため、たとえ赤字であっても朝貢貿易を続けることは重要でした。
以上のような情勢から、薩摩藩としては、清に「琉球が日本化した」と見られるのは、朝貢貿易を存続させる上では好ましくないことでした。このため、琉球人に対しては、日本風の名乗りの禁止や、琉球衣装(琉装)の強制など分離政策を推し進めることになります。また、薩摩侵攻後に薩摩藩に割譲させた奄美列島についても、琉球王国の役所を置かせ、琉球王国の外観はそのまま存続させました。内政にはまったく干渉せず、王国による自主政策が江戸時代を通して続きます。
また、20~30年に一度、清の柵封使がやってくるときには、ちょんまげ姿の薩摩藩士は姿を隠したそうです。清としては、琉球の情勢について、少なくとも同じ柵封国の朝鮮ほどの関心はもっていなかったようです。
●明治以後
しかし19世紀後半に明治政府が誕生すると、日本の領土帰属の明確化が進められていきます。明治政府はもはや琉球の名目的柵封を続ける意味はなく、1872年に琉球王国を琉球藩と改称させ、1879年には沖縄県を設置して王国が滅亡します(琉球処分)。
これに対して清は、琉球に対して柵封を理由に宗主権を主張し、日清間で沖縄の帰属問題が発生します。沖縄県内でも日本派、清派に世論が分かれ、特に保守的な士族階級には琉球王国存続のため清の柵封にとどまることを望む声が多く、清との直接交渉も行われました。
日本は問題解決のため、清に琉球の分割統治という譲歩案を示します(八重山、宮古は清に、沖縄本島は日本に)。これはいったん合意に達し、調印寸前まで行きますが、この分断案に琉球士族たちが大反発し、憤慨した琉球王国の遺臣が北京で抗議自殺をしたため、清は様子見へと対応を変化させ、結局これはそのまま調印されませんでした。そうこうするうちに朝鮮半島を巡る日清戦争に敗れ、沖縄県はなし崩し的に日本の領土として認められることになります。
こうした歴史的経緯が、中華人民共和国政府の尖閣諸島の領土権主張と結びついています。さすがに八重山の領土権までは主張していないようですが、台湾の中華民国政府は今も日本と琉球を区別し、沖縄が日本の領土であることを一度も認めていません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1017871980
琉球として独立したほうが良い。うん。