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日本が韓国に負けるようになる理由

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東京大学出身台湾人博士サセフィが使った,[ 日本がアメリカを追い越して韓国に負けるようになる理由]

韓国併呑 100年に告げる

国が亡びてから 100年になる今年を忘れることができないようにする本一つがある. ずいぶん前に一度擦れたが, その常識に挑戦しているしたたかな本早さのため記憶の一すみに常に残っていた. <日本がアメリカを追い越して韓国に負けるようになる理由>(金禧鎭 役, 韓国経済新聞社)がその本だ. 台湾係日本人であるシャセキ(謝世輝) 教授(東海大学)が 1985年に使った. 今度広げて見たら, “2010年に韓国が日本を追い越す”と書いておいた. シャ(謝) 教授が占いをしたことではなくて, 第2次世界大戦の廃墟で出発した日本の自動車工業が 1980年代に入ってどんなにアメリカの自動車都市デトロイトをスルロムファシキョッドンがを入って行って, 時間幅を置いて各国産業に現われた所長成り行きと, 彼を秋冬する各国経済人口の熱情とバイタルリティ(vitality)の変動上に未来を予測したように見えたのだ. シャ教授は 30余年前に 2010年を予測したのだ.
良い数字もたまにあるが, 低出産率が日本を追い付いて OECD 国家の中で最下位になったし自殺率も日本をぐっと追い掛けている現実だ. 日本追ってから生じた現象だ. 雪道を中に回さなければならないでしょう.

克日 達成予言の日, 2010

行く道はまだ遠く見える. ところで確かに変わったのがある. 1980年代中盤に, 韓国が日本を追い越す日が 2010年に来るものと言った時はちょっと虚荒されるように聞こえたが, 2010年今日は胸手ごわいリアリティーに近付くという事実だ.
注目することは, 韓国が日本を追い越すとシャ教授が持っている理由たちだ. 彼は出身背景のためか, 韓国・日本問題にもじもじすることなしに単刀直入的に国民性を打ち明けている.
シャ教授は韓国が日本を追い越す動力源を, 韓国人たちの日本を向けた歴史的情緒で捜している.
“日本青少年の精神的な障害とは反対に今の韓国人(中年や青少年や)は意慾的で ‘克日本(克日)’に燃えているということを注目しなければならない. ‘克日本’というのは日本を追い掛けて追い越そうというのだ. 多数の韓国人は過去日本帝国注意の抑圧に対する仕返しと, 特に第2次大戦後日本人の韓国に対する無理解を悔しく思って日本を追い越させようと全国民が燃えているのだ.”(上に入った本 pp.188‾189)
‘克日本’という言葉は 1980年代初になってからこそ韓国のマスコミ一部で書き始めた言葉なのに日本のシャ教授が 1985年にもう目が間のは驚きべきだ. 1980年代あの時にシャ教授は金持ち国日本が利他的(利他的)でお金を使うことができないと警告している. 今返り見ることも意味があるでしょう.
 
韓国が日本を追い越す要因
 
“日本人は世界の富(富)をグロモウだが世界にサービスをしない驚くべきな ‘エコノミックアニマル’になっている. たとえば 1985年の日本は 500億ドル以上の貿易黒字を記録しているが, その年に日本の人々はアメリカに証券など 600億ドル以上を投資しているのだ. … 日本は当時唯一の黒字対局ながら世界で掻き寄せたお金をほとんどアメリカの金利を儲けるために投資していたのだ.”
シャ(謝) 教授は日本を向けて予言的警告を付け加えている.
“世界人たちがつらがる中に唯一の金持ち国がいっそうお金を掻き寄せているチォンバックスラン欲心がいつまで続くことと思うか? この世の中には目に見える真理(科学法則)もあるが目に見えない真理(道徳律など)も厳存しているということを忘れてはいけない.”(上にでも本 p.190)
韓日競争で韓国が日本を追い越す要因でシャ教授が持っていることは, 独創性, 相手言語の物分り, 強じん性, 情報化社会後発の利点 4種だ.

英雄的文化創造運動, 噴出で前に立つ

が文は主に韓国人の強点で入った 4種の中で, シャ教授が ‘強じん性’を韓国人の苦難の歴史体験と関連させておいていることに触発されたのだ.
去る 100年の中で我が民族の長年の英雄的文化創造運動の力は消尽されて, 底へ行って触れた. 植民地時代をけりをつける人類の良心法廷 2次大戦が終わりながら偉い私たち先行世代が, 衰退が既定事実になってしまった運命の手で, 民族生命の主導権を奪い返す大歴史を, 人類良心の陣雲の到来とともに成し出した. 和製国株の前で隠された民族の精神的エネルギーの枯渇することができない蓄積はいよいよ噴出の出口の前に立ったあと巻いた. 韓国文明の ‘プロメテウス(意味は 先見)敵躍進’(トインビー)が始まったのだ.
シャ教授がこの兆しを 80年代に日本の真ん中で読み出したことは尋常ではない. 彼がしたこと逆転(逆転)の電気を設定しておいた今年 2010年に, ソウルで G20 首脳会議が開かれるようになったことも超(超)歴史的などんなミョハブ(妙合)を感じる. G20は長くウンウィドエドン西欧文明の沒落の現実化で思われる今の世界恐慌から, 女態までの IMFでは解くことができない世界経済の出口を捜す祈祷だからだ. 人類社の前に新しい進路を開きあける開拓者の使命が誰かを待っているのだ. 長銀ソウルに立つ.
シャ教授は日本追い越しの要因で入った韓国人の強じん性を苦難の歴史と次のように連携させている.
“今の韓国の若者はどうして情熱に燃えているか? 一つの要因は長く続いた苦難の歴史に苦しんで苦しさにあって来たからだ.
熱意だけではなく捕食の中に住む日本の若いと苦痛の中に暮して来た韓国若者の人としての強じん性がよほど違うということに注目しなければならない.”
この頃私たち若者達がこのようなのか?
 
前進のエネルギーは 苦の歴史中に
 
前の追い越し要因の総論部分で, シャ教授は ‘第2次大戦後日本の人々の韓国に対する無二して’を指摘していた. 彼の話を総合すれば, 日本人たちの韓国に対する無理解と言う(のは), 日本のため韓国人たちが経験した苦難の歴史に対する日本人たちの無理解を言う. 韓国と日本史に対して客観的になるしかない, 台湾出身シャ教授の ‘無二して’ 指摘は充分に注目する必要がある.
が ‘無二して’が日本人たちの過去に対する後悔, 反省, 謝り, 懺悔を難しくしている. ひいては日本の人々が過去清算の決定的きっかけである 1965年の国交再開を ‘清算’なしにお金の力で紛らしてしまった. 彼らは韓国に対して罪を犯したことなくて, 借金したことないという立場を終わりまで貫徹した. 彼ら同士は外交勝利だと快哉を呼んだはずだ. しかし彼らはこの過程を通じて日本の支配階層が近代に引き続き相変らず ‘道徳的情念が欠乏’になった集団なのを世界万方に公知させたことを悟ることができなかったはずだ.
第2次世界大戦に敗亡してから, 新生日本が錨をあげたが過去清算ができなくて, 倫理的再生に失敗してからこそ, 国際長利で倫理的立脚店を用意することはできなかったし, 経済図体にふさわしい政治リーダーシップは日本と無煙した.
日本は 2005年 UN改革で, 安保理事会常任理事国になって見ようとした. 経済大国らしくお金も使って公道らだった. しかし日本の隣りであるアジアの国々は一つも切符を与えなかった. このような結果が ‘過去清算’と関係があるのなのを今ごろは日本指導層たちが卵のに, 自覚の身振りはない.
シャ教授の洞察力を受け入れて, 中国の局所(国父) 孫文(孫文)の語法を借りて, ここで一言する. 孫文は催晩年に日本に立ち寄って, 日本が近代化とともに朝鮮を強奪して, 満洲を蠶食するなどミリタリズムに傾斜することを見ながら次のように喝破した.
“日本が西側覇道(覇道)の岡っ引きになるはずか, ではなければ東方王道(王道)の干城(干城)になるはずか, それは日本国民が愼重に選べば良い事だ.”
中国 G2の時代が来たから, 一世紀の前朝鮮を保護国にした時位の決断が今日本になければならないだろう. 日本が過去清算を置いて ‘ずっと留保して, その昔良かった時代’の回想を楽しんで, 韓国人を果てしなく頑ばりさせる半面先生で残るのか, ではなければ清算して生まれかわって韓国人と一心になって東アジア平和構造構築に出るのか, 日本国民たちが愼重に選べば良い事だ.
そうしようとするならやはり伊藤博文(伊藤博文) 整理からしなければならないようだ.





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10歳の栄親王(左側)を人質で日本に連れて行った痛感伊藤博文.


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歴史認識共有は伊藤博文清算で

 

日本 NHK TVが去る 4月 18日, 韓国 ‘併合’ 100年だと, 韓日問題特集放送をした真書, 求めて見た. プログラムは書き始めで ‘未来の鍵は歴史の中にある’と, 韓日両国の歴史認識のギャップを補って見るという特集意図を現わしている. 1時間の特集の端の部分で地域共同体の世界的成り行きも搖り動かしている. 全体では言葉だけ出ている東アジア共同体でもして見ようとすると, 歴史認識から一緒にしなければならないという強調で聞こえた. これ ‘亡国体験 100年特別連載’の一つの目的も, 100年になる今年を迎え, 韓日両国の共同の未来のaことができる東アジア共同体に向けて, 手がかりでも一つ取って移るのだ. それは日本側が ‘併合’と名付けている歴史事実に対する両国の認識でも一度一致させる仕事だ.
例として NHKも高く評価することと見える, 日本の国民作家司馬遼太郎(司馬遼太郎)の ‘併合’ 関連歴史認識を聞いて見る.
“堂々な数千年の文化を持った, そして数千年も独立して来た国をですね, 目もびっくりなくて竝合してしまったの, 併合という模様で相手の国を奪ってしまったの. このような優劣(愚劣)した仕業が仕事・ロゾンゼング次に起きたのです.”(<昭和という 国家>, NHK Books)
日本作家シヴァ(司馬)が ‘併合’を ‘相手の国を奪ってしまったこと’で認識していることに注目する. 相手の所有を奪うことは強奪ではないか. 主体がネクタイをしたなら, シルクハットを使ったなら, 強奪は強盗の行為だ. 強奪した強盗が当ぎり相手から承諾したという兆候ではんこまで受け出したのだ. 歳月が経って強盗を恥ずかしがらなければならない世の中になっても, あの時承諾するはんこまで押したから強盗は合法だから意地を張っている.
NHKは伊藤博文(伊藤博文)を審判した安重根を通じてその時代が弱肉強食の時代だったしていた. その時代だけなのか, 今もジャングルは弱肉強食だ. あの時にもうウィンゾヤックみたいなことがあって条約に強制性があることは認めない認識水準が帝国主義者の間にもあったことではないか.

同一平面に建てた加害者と被害者

 

それなのに NHKが歴史認識のギャップを補って見ると言いながら, 弱肉強食の時代を口にあげることはもう一つ意図があるという話だ. それは歴史の加害者と被害者を倫理的に同一平面において話して見るというのではないか. 絶対に成功することができない試みだ. 加害者と被害者が同一平面に立ってウブオデは自分の弁解にどんな一致点があり得るか.
作家シヴァは朝鮮を植民地にしたことを置いて次とのようにも話す.
“欲張る農業師が隣り田を掠奪するように, ただ朝鮮半島をつまんで取りそらえたことだけでした.”
ここには倫理判断が入っている.
NHKが ‘併合’ 百年を迎え仲直りと協力の時代を作ってレポーター, 韓日間の歴史認識の問題を扱いながら, 彼らが尊敬してやまないシヴァの倫理判断位も踏んで立たないことは理解しにくい. 日本国民の平均的で標準的な歴史認識の形成と管理に力を傾けることと見える NHKがこんなにしかできないかと思ったら, どんな絶望感を避けることができない.
NHKの特集は伊藤博文が大韓帝国の主権を強奪する局面を描いておいてからは, 痛感になった伊藤(伊藤)がやらかした韓国の株券染躪は搖り動かさなくて, 内政を改革して, ひいては最新研究としながら, 韓国に議会を構成するなどで自治植民地まで構想していたと, Itoの韓国を向けた善意を照らそうとした. Itoの構想は韓国の人々の無理解と度が外れたナショナリズムで壁にぶつかったし, 併合に行くようになったというのだ.
NHKの伊藤博文に対する未練が分かることはできる.
彼は日本明治(明治)近代化の最大の功労者だった. 明治憲法で天皇は現実権力を行使することができなかった. 天皇の権威を政治現実で代わりに行使する役目者で元老たちがあった. 皆明治維新の元勳たちだった. その正常が伊藤博文だった. 日本は大韓帝国を強奪することで, 西洋型帝国主義を完成して, メイ至近対話を完結したのだ. 伊藤博文は当然大韓帝国を強奪する現場の主導者だった. 朝鮮殖民指話最高の功労者だった.
伊藤博文が狙い撃ちされてからわずか 10年になる 1919年, パリ強化会議でアメリカのウィルソン大統領が民族自決の原則を出すと帝国主義時代は幕を閉じた. 日本は西洋近代で帝国主義とマキアベリズムだけ見たの, ヒューマニズム(人道主義)の前進を見られなかった. 1910年に完成を見た日本帝国がやっと 35年ぶりに敗亡したことは, 近代日本文化の認識能力の限界とも関係があったように見える.
去る 1月号で日本帝国が朝鮮を敷いて座って敗亡するようになったと言ったが, 近代史と朝鮮のむのに一番大きくなった球があるItoの国家戦略は半分世紀も眺めることができなかったのだった. しかし韓国と日本が今から 100年, 共同の未来を開く鍵を得ようとしたら, 清算するのに伊藤博文ばかりした人もいなさそうだ.
 
がス仮イシューのIto批判
 
勝海舟(勝海舟)は江戸(江戸)時代の末期とメイ知己(明治期)にかけて日本を代表する賢者(賢者)と称えられる人だ. 旧体制の幕府君と新体制の維新君が江戸城で決定的に対決するようになった時, 来ている日本の新しい時代に向けて江戸城を無血で開いてくれた司令官だった. 知略があったし, ムービーが十分だったが 100万名の都市東京を電話(戦禍)で引き上げる方を仮イシューは選んだ. 日本に迫って来ているイギリス, フランスなどの外圧の前で, 自らが属した幕府体制の門を閉めて全体日本の体力を温存しようとしたのだ. 時代と対局を見られる慧眼を日本の史家たちが評価する.
が仮イシューが伊藤博文の政治に対する一番辛い批判者だったことだ. 仮イシューは維新主類に入らなかったが, 日本海軍を創設したりヘッヌンジだと, 解放(海防)と国家進路に決まった関心を持っていた.
仮イシュー(海舟)が伯爵と言う(のは)作為を受けた時Itoは総理大臣だった. この時を前後して彼は 2次にわたってIto前に政治意見書を送った.
が中で仮イシューは隣国との信義を重要に思って, 西洋だけ付いて行かずに, 伝統の中でも知恵を得なさいと強調した. ひいては ‘地術(智術)と西洋法(法)’だけで完全な国はなることができないから, Itoの政治姿勢を ‘誠意と着実’として押し堅めるように注意を与えている. 憲法を作って洋式富国強兵に疑心なしに沒頭したItoは仮イシューを受けることができなかった.
日本は遂に日清戦争を起こした. 日清戦争は日本が単純に朝鮮半島で繩張を確張するためにした戦争位ではなかった. 日本近代化の国民教師福沢勇吉(福沢諭吉)は日清戦争を ‘文野(文野)の戦争’と風を入れた. 文野と言う(のは)文明と野党だけの戦争というのだ.
福沢が朝鮮の甲申の変を支援して失敗していわゆる脱亜論(脱亜論)を唱えたことは 1885年だった. アジアチォンゴッドルして一緒に遊ぶ事ができないから, これから日本は西洋してしまった相対して, ‘朝鮮や中国に対しては西洋人がアジア人対するように対しよう’と言うのが脱亜論だった. おおよそ 10年近く経って起こった日清戦争を日本のどんな私邸は脱亜論入門戦争とも言う. 西洋物ちょっと先に食べたと隣りである朝鮮, 中国に対する軽視と侮蔑が極まった時点で日本はグンファッバルで半島と大陸を踏み付けたのだ.
この時の和本壬子が総理伊藤博文だった. 前で見た仮イシューは日清戦争を無名(無名・名分ない)の戦争だと強い口調で反対した.
仮イシューは維新の前から韓・中・日三国同盟論者だった. 東アジア 3国が対等に団結して欧米の侵略を退けなければならないという原則的立場を死ぬまで一貫した. 日本がアジア盟主に乗せたItoや山形アリトモ(山県有朋)の東洋平和論とは根本的に違った. 仮イシューの 3グックドングメングロンは安重根が玉の中で明らかにした東洋平和論と根本発想が同じのだった.
仮イシューが日清戦争前後に日本の朝野に向けて特に強調したことは中国と朝鮮に対する畏敬(畏敬)だった. 仮イシューは中国が国が一番(回)戦争に負けたと言っても社会は微動もしない強靭さがあるから軽く保持ないでねと警告した. 朝鮮に対しては ‘昨日の日本の師匠ではないか’と侮蔑論者たちを咎めた.
仮イシューは半島で大陸でグンファッバルを伸びるItoの部類を報告, ‘朝鮮や中国を殴るとかバカにするのが近代国家だと言ったら日本は近代国家をしないほうが良いだろう’とまでしたというのだ.(松浦玲, <明治の 海舟とアジア>, 岩波書店)
江戸無血個性(江戸無血開城)という日本史上最高のドラマを演出した仮イシューの慧眼は, 数千年の兄弟みたいな隣りを侵略するIto式タルアゾック国家運営の終りが民族国家の敗亡だろうと眺めたようでもある. それで時代の至上命令だった近代化までも乾かすことができる信念はできたのか分からない.
 

 

 

Ito, ピカへの青春
 
東京大学出身の英文学者Saeki章一(佐伯彰一)が <近代日本の自転(自伝)>(中公文庫)から伊藤博文(伊藤博文)の青春はピカで(悪党, ごろつき)風だったと, 実話を聞いて描いておいた. これを通じてSaeki(佐伯)が現わそうと思ったことは, 明治日本をひいて出たItoみたいな ‘維新の功臣’らがたいてい組織暴力団的メンタルリティで行動したし, 道徳的情念が足りなかったというのだ. 先に話を聞いて見る.
22歳の青年Itoは外国(夷)ならなんでも反対する壌夷(壌夷) 過激派支社だった. 理解にItoは二つ大きい事件に関与する.
東京のみを見下ろして東京品川丘に伸縮しておいた週間イギリス公使館をItoは動向さむらいたち 8, 9人と一緒に火を放って乗せてしまった. 外人(外人)たちのしゃくを上げて, 幕府を外交的に難境に落とすという計算が連中の上級さむらいたちにあったが, Itoとしては壌夷流行に割りこんでしたことはあげる機会だったことだ.
又の日自ら回考して ‘大挙放火の大罪を犯して兄さん(型)(刑)を避けることは古今に珍しい話なのに, 強弩(強弩)も絶体に行けば怒号(魯縞・中国山東で飛ぶとても薄い絹)もくぐることができないように, 幕府の形勢はこの地境だった’と言ったというのだ. ‘放火の大罪’という世の中の常識は認めながらも, その責任が幕府の弱体性にいる羊, 自らの罪の思いは毛の先も映っていない. このコメントが気を引くことは, 後日Itoが漢陽の宮廷に現われて朝鮮の国権を強奪して入って行く時のはらわたがこれとそっくりではなかったかと思うからだ.
Itoの組織暴力団の下手人みたいな, ピカで(悪党)の青春の業(業)はもっとある. 英文学者Saekiが 100年がもっと経ったのに, 明治最強の権力者であるItoの所作に良心の筆注(筆誅)を加えるようにするその筆遣いが印象的なのでここにそのまま移して見る.
“壌夷過激派Itoにはもっと暗くて ‘汚い手’の過去があった. 放火者だっただけではなくて, 彼はテロ行為の実行者だったし, 殺人者だったことだ. それは放火事件の同じ年同月の行為としてウノ−回ります(宇野東)と一つと支路(

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일본이 한국에 지게 되는 이유

도쿄대학 출신 대만인 박사 사세휘가 쓴,[ 일본이 미국을 추월하고 한국에 지게 되는 이유]

한국병탄 100년에 고한다

나라가 망한 지 100년 되는 올해를 잊을 수 없게 하는 책 하나가 있다. 오래전에 한번 스쳤지만, 그 상식에 도전하고 있는 만만찮은 책 이름 때문에 기억의 한 구석에 늘 남아 있었다. <일본이 미국을 추월하고 한국에 지게 되는 이유>(金禧鎭 역, 한국경제신문사)가 그 책이다. 대만계 일본인인 샤세키(謝世輝) 교수(東海大學)가 1985년에 썼다. 이번에 펼쳐 보았더니, “2010년에 한국이 일본을 앞지른다”고 써 놓았다. 샤(謝) 교수가 점을 친 것은 아니고, 제2차 세계대전의 폐허에서 출발했던 일본의 자동차 공업이 1980년대 들어 어떻게 미국의 자동차 도시 디트로이트를 슬럼화시켰던가를 들어가며, 시간 폭을 두고 각국 산업에 드러난 소장 추세와, 그를 추동하는 각 나라 경제인구의 열정과 바이탈리티(vitality)의 변동상으로 미래를 예측해 보인 것이다. 샤 교수는 30여 년 전에 2010년을 예측했던 것이다.
좋은 숫자도 더러 있지만, 저출산율이 일본을 따라잡아 OECD 국가 중 최하위가 되었고 자살률도 일본을 바짝 뒤쫓고 있는 현실이다. 일본 쫓다가 생긴 현상이다. 눈길을 안으로 돌려야 할 것이다.

克日 달성 예언의 해, 2010

갈 길은 아직 멀어 보인다. 그런데 확실히 달라진 것이 있다. 1980년대 중반에, 한국이 일본을 추월하는 날이 2010년에 올 것이라 했을 때는 좀 허황되게 들렸는데, 2010년 오늘은 가슴 벅찬 현실감으로 다가온다는 사실이다.
주목하는 것은, 한국이 일본을 추월할 것이라고 샤 교수가 들고 있는 이유들이다. 그는 출신배경 때문인지, 한국·일본 문제에 머뭇거림 없이 단도직입적으로 국민성을 털어놓고 있다.
샤 교수는 한국이 일본을 추월하는 동력원을, 한국인들의 일본을 향한 역사적 정서에서 찾고 있다.
“일본 청소년의 정신적인 장애와는 반대로 지금의 한국사람(중년이나 청소년이나)은 의욕적이고 ‘극일(克日)’에 불타고 있다는 것을 주목하지 않으면 안 된다. ‘극일’이라는 것은 일본을 뒤쫓고 앞지르자는 것이다. 다수의 한국 사람은 과거 일본제국주의의 억압에 대한 보복과, 특히 제2차대전 후 일본사람의 한국에 대한 무이해를 분하게 여겨 일본을 앞지르려고 전 국민이 불타고 있는 것이다.”(위에 든 책 pp.188~189)
‘극일’이라는 말은 1980년대 초가 되어서야 한국의 매스컴 일부에서 쓰기 시작한 말인데 일본의 샤 교수가 1985년에 벌써 눈이 간 것은 놀라운 일이다. 1980년대 그때에 샤 교수는 부자나라 일본이 이타적(利他的)으로 돈 쓸 줄 모른다고 경고하고 있다. 지금 되돌아보는 것도 의미가 없지 않을 것이다.
 
한국이 일본을 앞지를 요인
 
“일본사람은 세계의 부(富)를 그러모으지만 세계에 서비스를 하지 않는 놀라운 ‘이코노믹 애니멀’이 되고 있다. 가령 1985년의 일본은 500억 달러 이상의 무역흑자를 기록하고 있지만, 그해에 일본사람들은 미국에 증권 등 600억 달러 이상을 투자하고 있는 것이다. … 일본은 당시 유일한 흑자대국이면서 세계에서 긁어모은 돈을 거의 미국의 금리를 벌기 위해 투자하고 있던 것이다.”
샤(謝) 교수는 일본을 향해 예언적 경고를 덧붙이고 있다.
“세계사람들이 괴로워하는 중에 유일한 부자나라가 한층 돈을 긁어모으고 있는 천박스런 욕심이 언제까지 계속될 것으로 생각하는가? 이 세상에는 눈에 보이는 진리(과학법칙)도 있지만 눈에 보이지 않는 진리(도덕률 등)도 엄존하고 있다는 것을 잊지 말아야 한다.”(위에든 책 p.190)
한일경쟁에서 한국이 일본을 앞지를 요인으로 샤 교수가 들고 있는 것은, 독창성, 상대방 언어의 이해력, 강인성, 정보화 사회 후발의 이점 4가지이다.

영웅적 문화 창조운동, 분출구 앞에 서다

이 글은 주로 한국인의 강점으로 든 4가지 중에서, 샤 교수가 ‘강인성’을 한국인의 고난의 역사체험과 관련시켜 놓고 있는 것에 촉발된 것이다.
지난 100년 속에서 우리 민족의 오랜 영웅적 문화 창조운동의 힘은 소진되고, 바닥에 가서 닿았다. 식민지시대를 끝장내는 인류의 양심법정 2차대전이 끝나면서 위대한 우리 선행세대가, 쇠퇴가 기정사실이 되고 만 운명의 손에서, 민족생명의 주도권을 탈환하는 대역사를, 인류양심의 진운의 도래와 함께 이룩해 내었다. 일본제국주의 앞에서 감추어졌던 민족의 정신적 에네르기의 고갈할 수 없는 축적은 드디어 분출의 출구 앞에 서고야 말았다. 한국문명의 ‘프로메테우스(의미는 先見)적 약진’(토인비)이 시작된 것이다.
샤 교수가 이 조짐을 80년대에 일본의 한복판에서 읽어낸 것은 예사롭지 않다. 그가 한일 역전(逆轉)의 전기를 설정해 놓은 올해 2010년에, 서울에서 G20 정상회의가 열리게 된 것도 초(超)역사적인 어떤 묘합(妙合)을 느낀다. G20은 오래 운위되던 서구문명의 몰락의 현실화로 여겨지는 지금의 세계공황으로부터, 여태까지의 IMF로는 풀 수 없는 세계경제의 출구를 찾는 기도이기 때문이다. 인류사 앞에 새 진로를 열어젖히는 개척자의 사명이 누군가를 기다리고 있는 것이다. 장은 서울에 선다.
샤 교수는 일본 추월의 요인으로 든 한국인의 강인성을 고난의 역사와 다음과 같이 연계시키고 있다.
“지금의 한국의 젊은이는 왜 정열에 불타고 있는가? 하나의 요인은 오래 계속된 고난의 역사에 시달려 괴로움을 당해 왔었기 때문이다.
열의뿐 아니라 포식 속에 사는 일본의 젊은이와 고통 속에 살아 온 한국 젊은이의 사람으로서의 강인성이 상당히 다르다는 것에 주목해야 한다.”
요새 우리 젊은이들이 이러한가?
 
전진의 에너지는 苦의 역사 속에
 
앞의 추월요인의 총론 부분에서, 샤 교수는 ‘제2차대전 후 일본사람들의 한국에 대한 무이해’를 지적하고 있었다. 그의 얘기를 종합하면, 일본인들의 한국에 대한 무이해란, 일본 때문에 한국인들이 겪은 고난의 역사에 대한 일본인들의 무이해를 말한다. 한국과 일본역사에 대해 객관적일 수밖에 없는, 대만출신 샤 교수의 ‘무이해’ 지적은 충분히 주목할 필요가 있다.
이 ‘무이해’가 일본인들의 과거에 대한 후회, 반성, 사과, 참회를 어렵게 하고 있다. 나아가서는 일본사람들이 과거 청산의 결정적 계기인 1965년의 국교재개를 ‘청산’없이 돈의 힘으로 얼버무리고 말았다. 그들은 한국에 대해 죄지은 것 없고, 빚진 것 없다는 입장을 마지막까지 관철했다. 그들끼리는 외교승리라고 쾌재를 불렀을 것이다. 그러나 그들은 이 과정을 통해 일본의 지배계층이 근대에 이어 여전히 ‘도덕적 정념이 결핍’된 집단임을 세계만방에 공지시켰음을 깨닫지 못했을 것이다.
제2차 세계대전에 패망하고 나서, 신생 일본이 닻을 올렸지만 과거청산을 하지 못해, 윤리적 재생에 실패하고 나니, 국제장리에서 윤리적 입각점을 마련치는 못했고, 경제 덩치에 걸맞은 정치리더십은 일본과 무연했다.
일본은 2005년 UN개혁에서, 안보이사회 상임이사국이 되어 보고자 했다. 경제대국답게 돈도 쓰고 공도 들였다. 그러나 일본의 이웃인 아시아의 나라들은 하나도 표를 주지 않았다. 이 같은 결과가 ‘과거청산’과 유관한 것임을 지금쯤은 일본 지도층들이 알 법한데, 자각의 몸짓은 없다.
샤 교수의 통찰력을 받아들이고, 중국의 국부(國父) 손문(孫文)의 어법을 빌려, 여기서 한마디 하겠다. 손문은 최만년에 일본에 들러, 일본이 근대화와 함께 조선을 강탈하고, 만주를 잠식하는 등 군국주의로 경사하는 것을 보면서 다음과 같이 갈파했다.
“일본이 서방 패도(覇道)의 앞잡이가 될 것인가, 아니면 동방 왕도(王道)의 간성(干城)이 될 것인가, 그것은 일본 국민이 신중히 택하면 될 일이다.”
중국 G2의 시대가 왔으니까, 한 세기 전 조선을 보호국으로 했을 때 정도의 결단이 지금 일본에 있어야 할 것이다. 일본이 과거청산을 두고서 ‘계속 유보하여, 그 옛날 좋던 시절’의 회상을 즐기며, 한국인을 끝없이 분발시키는 반면교사로 남느냐, 아니면 청산하고 거듭나서 한국인과 한마음 되어 동아시아 평화구조 구축에 나서느냐, 일본국민들이 신중히 택하면 될 일이다.
그러자면 역시 이토 히로부미(伊藤博文) 정리부터 해야 할 것 같다.









10살짜리 영친왕(왼쪽)을 인질로 일본에 데려간 통감 이토 히로부미.



역사인식 공유는 이토 히로부미 청산으로

 

일본 NHK TV가 지난 4월 18일, 한국 ‘병합’ 100년이라고, 한일문제 특집방송을 했다 해서, 구해 보았다. 프로그램은 서두에서 ‘미래의 열쇠는 역사 속에 있다’면서, 한일 양국의 역사인식의 갭을 메워 보겠다는 특집의도를 드러내고 있다. 1시간짜리 특집의 끝부분에서 지역공동체의 세계적 추세도 들먹이고 있다. 전체로는 말만 나와 있는 동아시아 공동체라도 해 보자면, 역사인식부터 같이해야 한다는 강조로 들렸다. 이 ‘망국체험 100년 특별연재’의 하나의 목적도, 100년 되는 올해를 맞아, 한일 두나라의 공동의 미래일 수 있는 동아시아 공동체를 향해, 단서라도 하나 잡고 넘어가는 것이다. 그것은 일본 측이 ‘병합’이라고 이름 붙이고 있는 역사사실에 대한 양국의 인식이라도 한번 일치시키는 일이다.
예로서 NHK도 높이 평가하는 것으로 보이는, 일본의 국민작가 시바 료타로(司馬遼太郞)의 ‘병합’ 관련 역사인식을 들어본다.
“당당한 수천 년의 문화를 가진, 그리고 수천 년이나 독립해 온 나라를 말이죠, 눈도 깜짝 않고 병합해 버렸어, 병합이라는 모양으로 상대의 나라를 빼앗아 버렸어. 이와 같은 우열(愚劣)한 짓이 일·러전쟁 다음에 일어난 것입니다.”(<昭和라는 國家>, NHK Books)
일본작가 시바(司馬)가 ‘병합’을 ‘상대의 나라를 빼앗아 버린 것’으로 인식하고 있는 것에 주목한다. 상대의 소유를 빼앗는 것은 강탈 아닌가. 주체가 넥타이를 매었건, 실크햇을 썼건, 강탈은 강도의 행위다. 강탈한 강도가 당한 상대한테서 승낙했다는 징표로 도장까지 받아 낸 것이다. 세월이 흘러 강도짓을 부끄러워해야 할 세상이 되었어도, 그때 승낙하는 도장까지 찍었으니 강도짓은 합법이라 뻗대고 있다.
NHK는 이토 히로부미(伊藤博文)를 심판한 안중근을 통해서도 그 시절이 약육강식의 시대였다 하고 있었다. 그 시대뿐인가, 지금도 정글은 약육강식이다. 그때에 이미 윈조약 같은 것이 있어서 조약에 강제성이 있는 것은 인정하지 않는 인식수준이 제국주의자들 간에도 있었던 것 아닌가.

동일평면에 세운 가해자와 피해자

 

그런데도 NHK가 역사인식의 갭을 메워 보겠다면서, 약육강식의 시대를 입에 올리는 것은 하나 더 의도가 있다는 얘기다. 그것은 역사의 가해자와 피해자를 윤리적으로 동일평면에 놓고 얘기해 보겠다는 것 아닌가. 절대로 성공할 수 없는 시도이다. 가해자와 피해자가 동일평면에 서서 읊어대는 자기 변해에 어떤 일치점이 있을 수 있겠는가.
작가 시바는 조선을 식민지로 한 것을 두고 다음과 같이도 얘기한다.
“욕심 많은 농사꾼이 이웃 논을 약탈하듯이, 그저 조선반도를 집어 챙긴 것뿐이었습니다.”
여기에는 윤리 판단이 들어 있다.
NHK가 ‘병합’ 백 년을 맞아 화해와 협력의 시대를 가꿔 보고자, 한일 간의 역사인식의 문제를 다루면서, 그들이 존경해 마지않는 시바의 윤리판단 정도도 딛고 서지 않는 것은 이해하기 어렵다. 일본국민의 평균적이고 표준적인 역사인식의 형성과 관리에 힘을 쏟는 것으로 보이는 NHK가 이렇게밖에 못하나 싶으니, 어떤 절망감을 피할 수가 없다.
NHK의 특집은 이토 히로부미가 대한제국의 주권을 강탈하는 국면을 그려 놓고서는, 통감이 된 이토(伊藤)가 저지른 한국의 주권유린은 들먹이지도 않고, 내정을 개혁하고, 나아가서는 최신 연구라면서, 한국에 의회를 구성하는 등으로 자치식민지까지 구상하고 있었다고, 이토의 한국을 향한 선의를 비추려 들었다. 이토의 구상은 한국사람들의 몰이해와 지나친 내셔널리즘으로 벽에 부딪혔고, 병합으로 가게 되었다는 것이다.
NHK의 이토 히로부미에 대한 미련을 알 수는 있다.
그는 일본 메이지(明治)근대화의 최대의 공로자였다. 메이지헌법에서 천황은 현실 권력을 행사할 수 없었다. 천황의 권위를 정치현실에서 대신 행사하는 역할자로 원로들이 있었다. 모두 메이지유신의 원훈들이었다. 그 정상이 이토 히로부미였다. 일본은 대한제국을 강탈함으로써, 서양형 제국주의를 완성하고, 메이지근대화를 완결했던 것이다. 이토 히로부미는 당연히 대한제국을 강탈하는 현장의 주도자였다. 조선식민지화 최고의 공로자였다.
이토 히로부미가 저격당한 지 겨우 10년 되는 1919년, 파리 강화회의에서 미국의 윌슨 대통령이 민족자결의 원칙을 내놓자 제국주의 시대는 막을 내렸다. 일본은 서양근대에서 제국주의와 마키아벨리즘만 보았지, 휴머니즘(인도주의)의 전진을 보지 못했다. 1910년에 완성을 보았던 일본제국이 겨우 35년 만에 패망한 것은, 근대일본 문화의 인식능력의 한계와도 관계가 있어 보인다.
지난 1월호에서 일본제국이 조선을 깔고 앉아 패망하게 되었다고 했지만, 근대사와 조선 삼키기에 제일 큰 공이 있는 이토의 국가전략은 반 세기도 내다보지 못한 것이었다. 그러나 한국과 일본이 지금부터 100년, 공동의 미래를 여는 열쇠를 얻고자 한다면, 청산하기에 이토 히로부미만 한 사람도 없을 것 같다.
 
가쓰 가이슈의 이토 비판
 
가쓰 가이슈(勝海舟)는 에도(江戶)시대의 말기와 메이지기(明治期)에 걸쳐 일본을 대표하는 현자(賢者)로 일컬어지는 사람이다. 구체제의 막부군과 신체제의 유신군이 에도성에서 결정적으로 대결하게 되었을 때, 오고 있는 일본의 새 시대를 향해 에도성을 무혈로 열어준 사령관이었다. 지략이 있었고, 무비가 충분했지만 100만명의 도시 도쿄를 전화(戰禍)에서 건지는 쪽을 가이슈는 택했다. 일본에 닥쳐와 있는 영국, 프랑스 등의 외압 앞에서, 스스로가 속한 막부체제의 문을 닫고 전체 일본의 체력을 온존하려 들었던 것이다. 시대와 대국을 볼 줄 아는 혜안을 일본의 역사가들이 평가한다.
이 가이슈가 이토 히로부미의 정치에 대한 가장 매운 비판자였던 것이다. 가이슈는 유신 주류에 들어가지는 않았지만, 일본해군을 창설하기도 했는지라, 해방(海防)과 국가진로에 일정한 관심을 갖고 있었다.
가이슈(海舟)가 백작이란 작위를 받았을 때 이토는 총리대신이었다. 이때를 전후해서 그는 2차에 걸쳐 이토 앞으로 정치 의견서를 보냈다.
이 속에서 가이슈는 이웃나라와의 신의를 중히 여기고, 서양만 따라가지 말고, 전통 속에서도 지혜를 얻으라고 강조했다. 나아가서는 ‘지술(智術)과 서양법(法)’만으로 온전한 나라는 되지 못하니, 이토의 정치 자세를 ‘성의와 착실’로써 다지도록 주의를 주고 있다. 헌법을 만들고 서양식 부국강병에 의심 없이 몰두하던 이토는 가이슈를 받지 못했다.
일본은 종내 청일전쟁을 일으켰다. 청일전쟁은 일본이 단순히 조선반도로 세력권을 확장하기 위해 벌인 전쟁 정도가 아니었다. 일본 근대화의 국민교사 후쿠자와 유키치(福澤諭吉)는 청일전쟁을 ‘문야(文野)의 전쟁’이라고 바람을 넣었다. 문야란 문명과 야만의 전쟁이라는 것이다.
후쿠자와가 조선의 갑신정변을 지원하다 실패하고서 이른바 탈아론(脫亞論)을 부르짖은 것은 1885년이었다. 아시아 촌것들하고 같이 못 놀겠으니까, 이제부터 일본은 서양하고만 상대하고, ‘조선이나 중국에 대해서는 서양사람들이 아시아 사람 대하듯이 대하자’는 것이 탈아론이었다. 한 10년 가까이 지나 일어난 청일전쟁을 일본의 어떤 사가는 탈아론 입문전쟁이라고도 한다. 서양물 좀 먼저 먹었다고 이웃인 조선, 중국에 대한 경시와 모멸이 극에 달한 시점에서 일본은 군홧발로 반도와 대륙을 짓밟았던 것이다.
이때의 일본책임자가 총리 이토 히로부미였다. 앞에서 본 가이슈는 청일전쟁을 무명(無名·명분 없는)의 전쟁이라고 강한 어조로 반대했다.
가이슈는 유신 전부터 한·중·일 삼국 동맹론자였다. 동아시아 3국이 대등하게 단결하여 구미의 침략을 물리쳐야 한다는 원칙적 입장을 죽을 때까지 일관했다. 일본을 아시아 맹주로 올려놓은 이토나 야마가타 아리토모(山縣有朋)의 동양평화론과는 근본적으로 달랐다. 가이슈의 3국동맹론은 안중근이 옥중에서 밝힌 동양평화론과 근본 발상이 같은 것이었다.
가이슈가 청일전쟁 전후에 일본의 조야를 향해 특히 강조한 것은 중국과 조선에 대한 외경(畏敬)이었다. 가이슈는 중국이 나라가 한 번 전쟁에 졌다 해도 사회는 미동도 하지 않는 강인함이 있으니 가볍게 보지 말라고 경고했다. 조선에 대해서는 ‘어제의 일본의 스승 아니냐’고 모멸론자들을 나무랐다.
가이슈는 반도로 대륙으로 군홧발을 뻗는 이토의 부류를 보고, ‘조선이나 중국을 때리거나 바보 취급하는 것이 근대국가라 한다면 일본은 근대국가를 안 하는 것이 좋을 것이다’라고까지 했다는 것이다.(松浦玲, <明治の 海舟とアジア>, 岩波書店)
에도무혈개성(江戶無血開城)이라는 일본 사상 최고의 드라마를 연출한 가이슈의 혜안은, 수천 년의 형제 같은 이웃을 침략하는 이토식 탈아적 국가운영의 끝이 민족국가의 패망일 것임을 내다봤을 것 같기도 하다. 그래서 시대의 지상명령이었던 근대화까지도 말릴 수 있는 신념은 생겨났을지 모른다.
 

 

 

이토, 피카로의 청춘
 
도쿄대학 출신의 영문학자 사에키 쇼이치(佐伯彰一)가 <근대일본의 자전(自傳)>(中公文庫)에서 이토 히로부미(伊藤博文)의 청춘은 피카로(악당, 건달)풍이었다고, 실화를 들어 그려 놓았다. 이를 통해 사에키(佐伯)가 드러내려 한 것은, 메이지 일본을 끌고 나간 이토 같은 ‘유신의 공신’들이 대개 조폭적 멘탈리티로 행동했고, 도덕적 정념이 모자랐다는 것이다. 먼저 이야기를 들어 본다.
22세의 청년 이토는 외국(夷)이라면 뭐든지 반대하는 양이(攘夷) 과격파 지사였다. 이해에 이토는 두 가지 큰 사건에 관여한다.
도쿄만을 내려다보고 도쿄 시나가와 언덕에 신축해 놓은 주일 영국공사관을 이토는 동향 사무라이들 8, 9인과 함께 불 질러 태워 버렸다. 외인(外人)들의 부아를 지르고, 막부를 외교적으로 난경에 빠뜨리겠다는 계산이 패거리의 상급 사무라이들에게 있었겠지만, 이토로서는 양이 유행에 끼어들어 한 건 올리는 기회였던 것이다.
뒷날 스스로 회고하여 ‘대거 방화의 대죄를 범하고서 형(刑)을 피하는 것은 고금에 드문 얘기인데, 강노(强弩)도 끝장에 가면 노호(魯縞·중국 산둥서 나는 아주 얇은 비단)도 뚫지 못하듯, 막부의 형세는 이 지경이었다’고 했다는 것이다. ‘방화의 대죄’라는 세상의 상식은 인정하면서도, 그 책임이 막부의 약체성에 있는 양, 스스로의 죄의식은 털끝도 비치지 않고 있다. 이 코멘트가 관심을 끄는 것은, 훗날 이토가 한양의 궁중에 나타나 조선의 국권을 강탈해 들어갈 때의 심보가 이와 흡사하지 않았나 싶어서이다.
이토의 조폭의 하수인 같은, 피카로(악당)의 청춘의 업(業)은 더 있다. 영문학자 사에키가 100년이 더 지났는데도, 메이지 최강의 권력자인 이토의 소행에 양심의 필주(筆誅)를 가하듯 하는 그 필치가 인상적이라서 여기 그대로 옮겨 보겠다.
“양이 과격파 이토에게는 더욱 컴컴하고도 ‘더러운 손’의 과거가 있었다. 방화자였을 뿐만 아니고, 그는 테러행위의 실행자였고, 살인자였던 것이다. 그것은 방화사건과 같은 해 같은 달의 행위로서 우노 도오(宇野東)와 하나와 지로(滈次郞)를 연달아서 해친 두 건의 암살사건에 가담했다고 일러지고 있다. 특히 후자인 하나와의 살해는 음험하고도 잔혹하다 해야 할 것으로, 변호의 여지가 전혀 없다. 하나와가 막부의 명령으로 사상(史上)의 폐제(廢帝)의 실례를 조사하고 있다는 소문이 떴다. …조사란 풍문일 뿐이었다. 아니, 날조된 데마(demagogy)라는 게 더 맞다.”

 

정치암살의 인연법

 

이토의 테러행위는 날조된 데마에 근거한 경거망동이었을 뿐만 아니고, 정치권력하고는 아무 관계도 없는 무력한 학자를 노려서 참살한 것이었다. 상대를 확인하기 위해, 미리 방문하여 가르침을 구하는 책략을 썼다고 한다. 정치적 암살로서는 가장 혐오스러운, 부끄러워해야 할 타입의 암살이라고 하지 않을 수 없을 것이다. 당시의 일본은 과연 암살 다발(多發), 테러 유행의 광기의 계절이었다고는 해도, 너무도 음험하고 구제 여지가 없다.
어쩌다가 한 시인이 이토의 사건에 접해 ‘히로부미가 하얼빈 역두에서 암살당한 것에 일종의 인연이란 감을 나는 갖는다. 범인인 안중근은 조선민족한테는, 지금은 천하에 당당한 열사로 되어 있다’라고 쓰고 있지만 필자인 나도 서로 같은 감회를 억누르기 어렵다. 지난날의 살인범, 정치적 암살자가 또 하나의 암살자의 손에 걸려 거꾸러지게 되었으니 불가사의한 ‘인연’의 연쇄라 할 수밖에 없는 것이나, 정직하게 말해 양자를 같은 정치적 암살자로 보더라도, 안중근 쪽이 그 동기에 있어서나 실행에 있어서도 아득히 상수에 위치한다고 인정하지 않을 수 없다.”(<近代日本の自傳>, 中公文庫)
일본에도 눈은 있다. 인용이 좀 길었던 것은, 악당의 소행을 나중에 출세했다고 시대와 상황을 핑계 삼아 얼버무리는 것이 아니라, 시공을 초월하여 양심의 잣대를 들이대는 안목이 일본에 있다는 것을 실감 있게 알려주고 있기 때문이다.
 


메이지 주역들의 과대망상
 
위의 인용은 앞에서 본 NHK의 4월 18일자 특집처럼, 오래 교류해 온 이웃나라에 대한 일제의 국권침탈은 당시의 국제상황이다. 약육강식 시대를 들어 물타려고 드는 것이 일본 전부는 아닌 것을 알게도 해 준다.
앞의 사에키가, 당시 22세인 이토가 연달아서 테러행위에 빠져들어 간 이유로서 들고 있는 것은 심리적 요인이다. 이토는 출신이 미천했다. 농사꾼 아들인 이토는 원래 사무라이 세계에는 끼어들 수 없는 것이었다. 이토가 10대 초반이었을 때, 그의 부친이 말단 무사 가문에 입적을 하게 되어, 그때부터 약삭빨랐던 소년 이토는 상급 사무라이들의 심부름이라도 할 수 있는 형편이 되었던 것이다. 그는 윗사람에게 잘 붙는 편이었다. 청춘의 입구가 막말(幕末)유신의 격동기와 겹쳐, 머릿수를 채워야 할 상황에서는 상급 사무라이들과 같이 뛸 기회가 많았다. 신분상의 열등감을 보상하려는 욕구에 불이 붙을 수밖에 없는 상황에 이토는 놓였던 것이다. 새까만 말단 신참이었으니, 뭔가 하나 더 강력한 자기증명의 액션을 찾아 혈안이 되었던 모양이다. 그는 외국공관에 불 지르고, 칼 없는 학자를 베었던 것이다. 이토는 출세의 사다리를 오르는 길을 이같이 열었던 것이다.
이토의 행태는 일본이 수천 년의 이웃 조선을 군대가 보잘것없다고 쳐들어가서는 깔고 앉아, 제국주의를 완성했다고 뽐내는 것하고, 어딘가 닮은 느낌이 들기도 한다.
쇼와기(昭和期, 1926~1989)에 일본을 대표하는 역사학자의 한 사람으로 쓰다 소우키치(津田左右吉, 1873~1961) 교수가 있었다. 일본의 상대(上代) 천황들 중, 초대부터 14대까지가 후세에 날조된 것이라고 연구 발표를 했다가, 쇼와군국주의 시대에 탄압을 받아, 대학강단에서 쫓겨나고, 유죄판결도 받은 학자다(早大교수, 전후에 문화훈장). 그는 한 연구에서 일본의 국민사상을 분석하는 중에 유신 전후의 이른바 지사(志士) 낭인(浪人)들의 행태를 적출해 놓고 있다. 당파적으로 부설(浮說)을 경신하고, 진실을 알아볼 생각이 없다는 것, 살벌한 기풍, 일종의 허영심, 시기심, 그리고 자기 약소감을 갖는 일방에서, 자기가 손만 대면 대사는 성사되고 천하는 순식간에 움직일 것이라 생각하는 과대망상적 행동욕(이 대목은 이토가 한국을 침탈하여 서울에 와서는 통감정치가 조선사람으로부터 박수를 받을 것이라 기대했던 것을 연상케 한다) 등이다. 앞의 사에키는 쓰다의 분석이 ‘정치적 암살자로서의 이토의 케이스에 그대로 딱 들어 맞는다’고 했다.

 

 

 

이토의 강탈행
 
한국의 주권을 뺏아 보호국으로 하기 위해 한양으로 가는 이토에게 일본 천황이 내린 칙명은 ‘한국황제 위문을 생각하사 특파대사로서 차견(差遣)함‘이었다.
9명의 공식 수행원 중에는, 1875년 강화도를 침략한 운양호 함장, 이노우에 요시카(井上良馨) 해군대장도 있었다 1905년 11월 9일 밤에 도착했던 이토는 다음 날 경운궁(慶雲宮, 지금의 덕수궁) 수옥헌(漱玉軒)에서 고종황제를 알현하고, 천황의 친서를 봉정했다. 이토는 연이어, 품고 왔던 본론을 고종황제에게 펴 놓고자 내알현(內謁見)을 원했다.
그 자리는 11월 15일 오후 3시반에 만들어졌다. 이토가 국권을 뺏고자 고종을 강박해 들어간 언사와 이에 응수한 고종의 언사의 구체상을 한번 보았으면 한다.
이토는 일본인 기록자를 대동했고, 한국인 통역이 있었다. 수작의 대강은 이토의 복명서(1905년 12월 8일)에 붙어 있는 일본 측이 작성한 고종(高宗)-이또(伊藤) 간 대화록인 ‘내알현시말(內謁見始末)’에 있는 것이다.(海野福壽, <外交史料 韓國倂合>, 不二出版社)
고종은 무엇보다도 먼저 을미(乙未)사변(閔后암살)의 통한을 말했고, 전해에 일·러전쟁이 시작되고서 바로 이토가 다녀간 후, 일본이 내정개혁을 도와준다고 하고 나서 생겨난 작폐와 일·러전쟁으로 한국 땅에 주둔한 일본군으로 인한 민중의 고통을 들어가며 다음과 같이 말을 맺었다.
“이젠 우리 상하로 하여금, 일본의 태도를 의심케 하고, 악감정을 일으키게 되어 버렸소. 시험 삼아, 경(卿·이토)이 한번 역지(易地·입장을 바꿔)하여, 현재 우리나라가 조우하고 있는 지위에 처해 본다면, 알고도 남음이 있을 것이오.”
이 말에는 답하는 바 없이 ‘위문특사’ 이토는 대뜸 고압적으로 돌변하여 말했다.
“그렇다면, 폐하 시험 삼아 물어봅시다. 한국은 어떻게 해서 오늘에 생존하는 것을 얻었습니까. 한국의 독립은 하인(何人)이 내려주었는가, 이 일사(一事)입니다. 폐하는 이 일을 알기라도 하고서, 그래도 아직 더욱 이 같은 어(御)불만의 말씀을 흘려 내려주시는 것이옵니까.”
고종은 화도 안 내고, 여전히 10년 가까이 되어 가는 아관파천(俄館播遷)을 들먹이며 “한때의 기의(機宜·상황적 편의)에서 나온 것”이라고 변명조로 늘어놓자, 이토는 이미 기는 꺾었다고 생각했던지, 통역을 도중에 끊고, “폐하로부터 역사얘기 듣는 것은 타일로 미루고 사명의 대체에 관해 아뢰겠다”면서 “귀국에서의 대외관계, 이른바 외교를 귀국(貴國) 정부의 위임을 받아, 우리 정부 자신이 대신해서 이를 행하겠다”고 바로 들이댔다. 잔소리 말고 지갑부터 내놓으라는 식이다.
이에 황제는, “대외관계 위임의 일사(一事), 굳이 이를 절대로 거부함이 아니라 할지라도, 요는 다만 그 형식을 남겨, 내용 같은 것에 이르러서는 여하이 협정하든지 간에, 결단코 이의 없는 바이로다”라 했다. 고종은 이미 반쯤 주저앉은 상태지만, ‘형식’을 들어, 외교실제야 너희가 이미 뺏어 고문이다 뭐다 붙여 마음대로 하고 있으니, 독립국가의 허우대라도 남겨 달라 한 것이다.
이토는 “기타 일체의 국정에 이르러서는 물론 귀정부의 자치에 방임하기 때문에, 하등 국체상(國體上)에 이동(異動)이 생기는 것이 아니옵고, 감히 폐하를 속이고, 우리나라 이익을 취하는 것도 아니옵니다”라 했다. 뒷날 이토가 통감으로 행한 짓하고 비겨 보면 너무도 엉뚱한 거짓말을 늘어놓았다.
 

 

 

‘이나오리 강도’
 
그래도 황제는 ‘형식’을 놓지 않으려고 “경(卿)의 알선 진력에 기대하는 바이오”라며 강탈주체 이토에게 선의가 있을 것이라고 애소하듯 매달렸던 것이다. 굳이 이를 옮기는 것은 나라가 내려가면 어디까지 내려가는지 요즘 사람들이 한번 알기를 바라서이다.
이토는 오히려 동갈(挏喝)의 도를 높이고 나왔다.
“본안은 제국정부가 갖가지 고려를 거듭하여, 이제 와서는 촌호(寸毫)도 변통의 여지없는 최종안으로서 … 폐하께서 승낙하든 거부하든 마음대로이시지만, 만약에 거부하신다면, 제국정부로서는 결심하는 바가 있사옵니다. 그 결과는 나변에 달하겠사옵니까. 대저 귀국의 지위는 이 조약을 체결하는 것 이상으로 곤란한 경우에 빠지고, 한층 불이익한 결과를 각오하지 않을 수 없을 것이옵니다.”
조폭들의 공갈도 이보다 더 무지막지하지는 않을 것이다.
여기다가 고종은 한 번 더 “인민의 의향도 알아보고…” 했다가 이토한테 닦아세워지지만, 끝내는 한국 쪽의 의사결정 및 양국 간의 조약 맺는 절차와 방식을 이토 하자는 대로 맡기고 지시해 버린다. 국권강탈에 문을 열어주고, 승낙된 강탈임을 위장케 하는 도장까지 찍어주는 판이 연이어 벌어졌다.
위에서 보았던 고종과 이토의 대담을 보면, 이토는 시작과 동시에 예상과 상식을 뒤집어 고종의 기를 흩어, 공포심을 일으켜 놓고서, ‘강탈 품목’, 주권 포기를 들고 나왔다. 끝내기는 국가를 두고서 최악(最惡) 수준 가학을 암시 협박하여 차악적(次惡的) 강탈을 피해자가 스스로 감수케 하는 식으로, 한국의 주권자 상대의 강탈행을 해치운 것이다.
처음 면대하자 고종은 “민후(閔后) 암살과 일·러전쟁 이후 한국에서 일본이 벌인 일들로 한국 조야는 일본을 믿지 못하고, 악감을 갖게 되었다”고 했다. 고종은 당연히 ‘위문특사’ 이토의 우호자세를 기대하고 실정을 호소하여 개선의 계기를 잡아보려 했을 것 아닌가.
이에 대해 이토는 대뜸 “오늘 한국의 목숨이 붙어 있는 것은 누구 때문인지 알기라도 하느냐”며 생살여탈권이 자기 손에 있다는 식으로, 일거에 ‘이나오리(居直り) 강도’의 자세를 취하고 나왔다. ‘이나오리 강도’란 한국말로 유사어를 찾기 어려운데, 직역하면 ‘좀도둑이 현장을 들키자 갑자기 강도로 돌변하는 것’이다.
고종의 상식적 문제제기에 대한 이토의 대응은 ‘이나오리 강도’적이었다. 그것은, 그 전 두 번에 걸쳐 방한하여 한국과 고종한테 취한 자세와 그가 만든 친근무드를 상기하면 즉각 알 수 있다. 이토가 서울에 와서 고종과 만난 것은 이번이 세 번째다.
 

 

 

이토와의 첫 만남에서 을미사변 거론 못한 고종
 
첫 번째는 이토가 세 번째 내각을 끝내고, 2개월여의 장기 중국여행을 가는 길에 2주간 한국에 체류했을 때였다. 1898년 8월 말에서 9월 초에 걸쳐서다. 이때 그는 기분이 좋았던 모양이다. 부인한테 띄운 편지에 “황제 및 정부 인민으로부터 생각 밖으로 친절한 대우여서 꿈 같은 심지(心地)였다”고 썼다.(伊藤博文傳)
‘생각 밖으로 친절한 대우’가 무슨 말인가. 민후암살(閔后暗殺)은 불과 2년 전, 이토의 총리 재직 때였고, 암살을 지휘 결행했던 한국주재 일본공사 미우라(三浦梧樓)의 임명권자는 이토였던 것이다. 미우라가 군사 지휘권을 행사할 수 있도록 조처해준 것도 이또 총리였다. (金文子, <朝鮮王妃殺害와 日本人>, 高文硏) 일본은 암살에 가담했던 폭도 48명을 면직된 미우라(三浦)와 함께, 히로시마(廣島) 지방법원에 데려다가 재판했으나, 증거 불충분이라고 면소(免訴)처분, 모두 방면해 버렸다.
총리 재임 중에 일어났고, 석연치 않게 뒤처리된 이 암살 사건을, 한국에 오면서, 그리고 지아비 고종황제를 만나면서 이토는 의식하지 않을 수 없었을 것이다. 이때에 고종은 이 문제를 입이 올리지 않았던 모양이다. ‘생각 밖으로 친절한 대우’는 이래서 나온 말일 것이다.
이토가 두 번째로 고종과 만나는 분위기를 본다.
일·러전쟁의 선전포고는 1904년 2월 10일이었다. 개전하자마자 일본은 한양부터 점령하고 2월 23일 한일의정서를 체결했다. 한국땅을 수용하여 군사기지로 하고 한국사람을 군수인부로 동원하는 등 한국을 일본의 전쟁체제에 끌어넣기 위한 것이었다. 엄청난 침략행위였다.
의정서에는 한국 황실과의 친의(親誼)를 가꿀 것, 그리고 한국의 독립과 영토보전을 보장하는 조문이 있다. 이 바탕 위에서 이토는 한국에 ‘황제 위문특사’로 3월 중순에 파견되었던 것이다. 개전과 함께 고종의 총신(寵臣) 이용익 등 러시아와 가까웠던 요인들이 대거 몰려나 분위기가 어수선해지고, 일본군의 군사작전에 따른 민중의 불만이 높아지자, 일본정부는 최고의 문민카드 이토를 서울에 보내기로 한 것이다.
이때에 이토는 10개조에 걸쳐, 고종황제 앞에서, ‘동양평화’유지, 서양문명 수용과 개혁의 원칙, ‘침략적인 서양인’ 러시아 배제 등을 강의하듯 늘어놓았다. 이 속에는 “한국황제가 우리 일본과 존망을 함께하고, 동양평화의 유지 방책에 협동한다면 … 오래 한국의 산하를 폭진(暴秦-러시아)의 장중에 떨어지지 않게, 마치 일본 자체의 존망과 같이하여…서로 안위존망(安危存亡)을 함께하고… ”라는 문구도 보인다.
“한황(韓皇)은 이를 가납(嘉納)하사, 공(公·이토)의 원래(遠來)의 노고를 많다 하시고, 손수 대훈(大勳) 금척대수장(金尺大綬章)을 수여하시고, 그날 밤 대관정(大觀亭)에서 향찬을 내리셨다”고, 이토의 공식전기인 <이등박문전>(伊藤博文傳)(春畝公追頌會편, 原書房)에 보인다.
이 정도면 고종도 이또와 친근이 쌓였다고 믿었을 것 아닌가. 그러고서 불과 1년 반쯤 지나, 전쟁도 끝나고 이번에도 ‘위문특사’로 왔기에 전날의 언사와 우호무드를 믿고, 한마디 했더니, ‘누구 때문에 숨이라도 붙어 있는지 아느냐’로 나온 것이다. ‘이나오리 강도’의 전형을 이때의 이토에게서 본다. ‘서로 안위존망(安危存亡)을 함께하고’라 한 게 언제인데. ‘이나오리 강도’의 기습 앞에 누구든 억장이 무너지고, 기가 산란해지지 않을 수 없었을 것이다. 상대가 강대국과의 전쟁에서 이긴 나라의 최고권력자이고 보면. 실은 이 모든 판이 조선땅을 군사점령하고 있는 일본 손바닥에서 벌어지고 있는 것에 고종이 다시 한번 눈 뜨지 않을 수 없었을 것이다. 군사력에 의한 국권 강탈판이 기본이었던 것이다.
 

 

 

도덕적 저능아 이토
 
또 하나 간과할 수 없는 것은, 이때 이토의 대응에 부답(不答)의 공갈이 동시에 있었다는 사실이다. 고종은 그전 두 번에 걸쳐 만났을 때까지는 건드리지 않았고, 그동안 “신료(臣僚)는 물론, 종친에조차 입떼지 않았던 것”을, 이번에는 몇 번의 만남이 만들어 낸 친근무드를 믿었던지 끄집어 냈던 것이다. 고종이 어찌 몽매에라도 명성황후 문제를 잊을 수 있었겠는가.  당시 한국정부는 사건을 대원군과 왕궁경비 훈련대의 소행으로 몰아, 세 사람의 훈련대 사관(士官)을 암살자로 처형했다. 당시의 친일정부가 일본측에 농간당한 것이다. 고종은 해가 바뀌어 러시아 공사관으로 피신하자마자, 사건진상조사부터 지시했다. 사건의 진상을 반년도 안가 고종은 파악했다. 그리고 미우라 공사를 비롯한 일본 폭도들이 귀족 작위도 회복하고, 징벌되지 않았을 뿐더러, 일본사회가 영웅시한다는 것도 알았을 것이다.
일본 측은 배후를 미우라에서 끊었지만, 고종은 믿지 않았을 것이다. 내알현 자리의 눈앞에 있는 당시의 일본 내각총리대신 이토는 원천적, 도의적 책임에서 벗어날 수 없는 자이므로 뭔가 한마디 할 거라고 기대했을 것이다. 그 자리에서 고종은 “…생각이 이에 미치면 너무도 억울하고 원통하여 분하기 그지없다.”고까지 했던 것이다. ‘위문특사’ 이또는 위로와 사과는커녕, 일거에 ‘이나오리 강도’의 자세로 돌변한 것이다. ‘암살 문제’의 거론에는 부답인 채, ‘이나오리 강도’로 말을 받음으로써, 공갈메뉴에 일거에 ‘암살’을 올리는 형국을 이토는 고종을 상대로 만들어 낸 것이다.
이토의 도덕불감증에 대해서는 하나 더 짚어 둘 것이 있다. 1990년대에 번역되어 한국에서도 화제를 일으켰던 쓰노다 후사코(角田房子)의 역작 <민비(閔妃)암살>의 끝 부분에 다음과 같은 구절이 있다.
“민비의 유체 옆에 있었던 일본인 중에, 동포인 나로서는 쓰기가 어려운 행위가 있었던 것이 보고되어 있다. 전 법제국(法制局) 참사관으로, 당시 조선정부의 내부(內部·내무부) 고문관이었던 이시즈카 에이조(石塚英藏)가 법제국장관 스에마쓰 겐초(末松謙澄)에게 보낸 보고서 속에 ‘참으로 이것을 붓으로 옮기기 견딜 수 없지만 …’이라 전제하고서, 그 행위를 구체적으로 써 놓았다.”
뭘 더 적시할 수 있을 것인가. 여러명의 일본인들 속에서 이 짓을 했다니, 이는 근대화했다고 떠벌렸지만 그때의 일본인들이 인간 미달의 인종임을 나타내는 것 외에 아무것도 아니다. 일본은 그 뿌리 깊은 야수적 야만성을 서양사람들한테만 감추려고 발버둥치다가 결국 망한 것이다.
조선의 국모(國母)를 향한 이 능멸을 왕정은 없어졌어도 조선사람들은 1000년이 가도 잊을 수 없을 것이다. 그것은 한민족(韓民族) 전체의 상징에 가한 능멸이기 때문이다.
이 일을 여기 쓰는 것은, 위에서 든 보고서를 받은 스에마쓰는 이토의 사위로서, 이토 정보인맥의 핵심적 존재였다는 사실 때문이다.(佐佐木 隆, <伊藤博文의 情報戰略>, 中公新書) 스에마쓰가 책임 맡았던 법제국이란 일본 근대화 작업의 선도기관이기도 했다.
그러므로  참살당한 황후에 가해진 일본인들의 능멸을 절대로 모를 수 없는 이토가 고종이 황후 얘기 끄집어내니까, ‘이나오리 강도’의 자세를 취하고 나왔다는 것, 이건 뭘 얘기하는가. 메이지의 제일 문관 이토의 국권강탈자로서의 유능성과 도덕적 저능아성을 동시에 알려주는 것이다. 근대일본이 패망으로 끝날 수밖에 없는 이유가 압축해서 이토 속에 있는 것은 아닌가.


 

남바라(南原)총장의 ‘도의국가론’
 
‘한국이 누구 때문에 살아 있는지 아느냐’가 스스로조차 기만하는 공갈임을 이토는 잘 알고 있었을 것이다. 이토를 한국의 국권을 강탈하는 현장으로 내몬 사람은 러시아의 재상(宰相) 출신 강화조약 대표 위테였다. 일본이 포츠머스의 회담대표 외상(外相) 고무라(小村壽太郞)에게 훈령으로 내린 제일 첫머리 강화조건은 ‘한국을, 완전히 우리 (일본) 자유처분에 맡기는 것을 러시아가 약낙(約諾)게 하는 것’이었다. 일본이 무엇 때문에 전쟁했는지가 이 훈령 속에 있다.
이를 받아 고무라는 강화조건 개조(個條)의 제일 첫항을 ‘한국의 자유처분’으로 하였다. 일본은 한국을 미리부터 물건 취급이었다. 여기에 러시아 위테 대표가 제동을 걸고 나왔다. ‘일본국의 조치실행을 위해 한국 황제의 주권을 침해할 수 없음을 알아야 할 것’을 추가하자 했다.
위테는 강경하게 “러시아, 일본 두 나라가 약속해서 ‘한 독립국을 망하게 하는 것 같은 모양’을 보이는 것은 바람직하지 않다”고 했다. 누가 봐도 정론인데 일본 고무라는 물러서지 않았다. 결국 회의록에 “이 나라(한국)의 주권을 침해할 수 있는 것은, 한국정부와 합의한 뒤에 이를 집행해야 한다는 것을 여기에 성명함”을 명기하는 것으로 결착되었다. 이토가 한양에 오기 두 달 전이었다.(吉村 昭, <ポ-ツマスの旗>, 新潮文庫)
따지고 보면 이토는 결국 위테의 문제제기 때문에 한양에 오게 된 것이다. 강탈하면서 강탈당하는 사람 도장까지 받아 내려 한 것이다. 위테의 경고를 거꾸로 실천하여, 강탈 공갈하는 이토의 정신에 남는 것이 없었을까. 안중근의 심판을 받을 때까지 4년밖에 남지 않은 시점이다.
황국사관을 정면에서 뒤엎어, 쇼와군국주의의 탄압을 받았던 쓰다 소우키치 교수를 앞에서 보았다. 그는 <문학(文學)에 나타난 국민사상(國民思想)의 연구>에서 ‘유신의 공신(功臣)’이라고 하는 자들에게는 ‘도덕적 정념이 결핍’해 있다고 했던 것이다. 일본의 논단에서 아무도 반박하지 못했으므로 눈여겨 둘 필요가 있다. 쇼와 군부에 영합하지 않았던 정치학자 남바라 시게루(南原繁)가 도쿄대학 총장이 된 것은 광복하던 해 12월이었다. 도쿄는 아직 잿더미 속이었고 사람들은 땟거리를 구해 헤매었다. 교수건 학생이건, 기자건 의식 좀 있었던 사람들은 모두 망연자실해 있었다.
해가 바뀌어 일본의 기원절(紀元節)인 2월 11일, 남바라(南原) 총장은 구식대로 야스다(安田) 강당에서 성대히 기념식을 치르고는, 이 자리에서 역사에 유명한 ‘신일본문화(新日本文化)의 창조’를 연설 하였다. 그의 연설은 패전(敗戰)의 쇼크로 허탈상태에 빠져 있던 전 일본민족을 향해 국가재건과 정신혁명에 불을 붙이는 말들로 엮어져 있다. 연초에 천황이 스스로의 신격(神格)을 부정한 것을 들어, 남바라는 일본의 ‘종교개혁’이라 했고, ‘일본인과 일본문화의 해방’이라고 했다.
남바라 연설의 두 가지 초점은 ‘신일본문화의 건설’과 ‘도의(道義)국가 일본의 건설’이었다. 남바라의 연설은 총장의 학내연설치고는 예외적으로 신문에 대서특필되었다. 일본이 고도성장을 통과하면서, 많은 사람이 “내 인생의 전기(轉機)는 남바라 연설이었다”라고 했다 한다.(立花隆, <天皇과 東大>, 文藝春秋)
역사는 근대 일본에 두 번 기회를 주었다. 한 번은 무력으로, 한 번은 경제력으로, 일본은 갈 데까지 가 보았다. 그런데 두 번의 기회 모두 일본이 도의의 문제를 무겁게 본 흔적은 있어 보이지 않는다. 오히려 ‘도의’ 같은 것 쳐다 보지 않아서 그 고지까지 올라갈 수 있었다고 생각하는 것 같기도 하다.

 

 

과거 청산 없이 ‘도의국가 일본’ 없다

 

남바라 총장은 ‘일본재건의 근본적 기초는 도덕적 책임, 도덕문제에 있다’고도 했다. 일본이 한국을 ‘병합’한 지 100년이 되고, G2를 중국에 넘겨, 다시 한 번 새 출발을 해야 할 때를 맞아, 남바라 총장의 연설을 한번 상기할 수는 없는가. 우리는 남바라 총장의 ‘도의국가론’에 주목한다.
한국과의 과거를 청산치 않고 일본의 도의국가는 있을 수 없다고 우리는 생각한다. 사과를 할 만큼 했다고 그러는지 모르겠는데, 사과가 있을 때마다, 물을 타는 ‘망언’을 갈구하는 유권(有權)대중이 있는데 무슨 청산이 되겠는가. 도의문제를 편의주의적으로, 기회주의적으로 접근해 봤자 부질없는 짓이다. 군사근대화는 독일 것 본떠 놓고 청산문제는 독일을 참고 못한다는 것인가. 이 ‘100년’에 일본이 다시 일어서 양 민족의 진정한 화해의 계기가 만들어졌으면 좋겠다.
동아시아 공동체 얘기가 나온 지 제법 된다. 말만 떠 있고 출발점이 좀처럼 보이지 않는다. 그 이유는 대상국가들 속에 탈아(脫亞)국가가 있기 때문이다. 그 정신이 아시아를 떠나 좀처럼 돌아오지 않는 탈아국가가 있기 때문이다.
탈아의 정신경향을 일본이 극복했는지 일본 엘리트들이 제일 잘 알 것이다. 역사가들은 청일전쟁을 일본의 탈아 입문이라 하고, 러일전쟁을 탈아 완결이라고도 한다. 더 정확하게는 러일전쟁으로 조선을 병탄하여 대일본제국을 완성한 것이 탈아 완결판인 것이다.
동아시아 공동체를 위해서는, 그러므로 일본의 탈아 극복이 필요하다. 아시아로 돌아왔음을 보여줘야 한다. 일본이 탈아를 극복했음을 알릴 수 있는 가장 확실한 방법은, 일본이 이웃 아시아 나라 뺏은 원죄를 확실히 참회하는 것이다. 

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30 년 전에 쓴 책인데, 대단한 선견지명이다.

사세휘 박사는 한국이 2010년을 기준으로 일본을 조금씩 추월할 것이라고 한다.

일본이 한국에 지게 되는 이유로써 그는 대략 4가지를 제시한다.

한국인의 투지, 언어 이해력,  디지털 능력, 우수한 두뇌.

이미 그의 예견은 많은 부분에서 들어 맞고 있다....

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