蒋介石はなぜ終戦後に対日賠償金請求を放棄したのか?
それは日中戦争は中国側から戦争を仕掛けたことが明らかだったからだ。
●ナチスドイツは友好国ではなかったのだ!
日独防共協定 (S11/11/25)成立後の盧溝橋事件(S12/7/7)、第二次上海事変(S12/8/13~11/30)においてドイツ軍事顧問団は、単なる軍事顧問ではなく、兵器の供給、作戦の立案から訓練、防御陣地の構築まで国民党軍を指導し、戦闘を指導し続けた。更に日本軍との戦闘に参加、戦死者までだしている。
ドイツ製の最新兵器で武装し、顧問団に訓練を受けた国民党軍精鋭部隊は手ごわく、第二次上海事変では日本軍は旅順攻略に匹敵する戦死傷者41,924名(旅順攻略戦59,408名)を出したのである。同盟通信の松本重治上海支社長は月刊誌「改造」に「上海の戦いは日独戦争である」と書いていた。
上海戦終結後も止まることの無いナチス独逸の二股外交、中国支援は続き、昭和12年11月 6日、日独伊三国同盟締結は、なんと上海戦の最中であった!
日独伊三国同盟軍事にもかかわらず、驚く事に日本軍の南京入城時(S12/12/13)国民党軍を指導していたのはドイツ軍事顧問団だったのである。
ドイツ軍事顧問団は日独伊三国同盟を推進したリッペンドロップが外相に就任し、昭和13年7月5日副総裁へスの再三の命令で漸く顧問団29名が引き上げる最後の日まで、戦争を指導し続けたのであった。それでも元ナチ突撃隊員シュテネン大尉など残った者までいた。
南京大虐殺のと呼ばれるプロパガンダ事件において、日本軍が残虐行為を行ったと証言するジョン・ラーベは、日本の同盟国としての独逸の実業家として、日本軍の虐殺行為の中立的証言者であるかのような、虐殺肯定派は重宝がっているのだが。
ドイツは同盟国でも、中立国でもなく、日本と実質的に戦闘を行った中国軍のドイツ軍事顧問団側の証言である。
しかも、中国国民党軍を大得意客とする武器商人のシーメンス社の社員であり、南京ではナチス党員であることを公言していたことを考慮すると、ラーべの証言は客観性にかける偽証である可能性が高い。
なぜ、同盟国ドイツの民間人が同盟国である日本を貶める偽証をしたのか永年疑問であった。
信長を除いて伝統的に虐殺を行わなかった日本の軍隊、当時の皇軍の規律を考えれば、虐殺は考えにくかったのだが、同盟国ドイツ人が証言したということは、皇軍が南京で市街戦を予防する為に便衣隊を処刑したことを誤解していたのではないかと思われていた。
中国側のプロパガンダほどではないにしても、虐殺が行われ たのではないかという疑問を持っていた。
しかし、本書を読むことで漸く納得でき、永年のつかえが取れた。
ただ、戦争なので便衣隊と誤認さ れた一般市民も処刑された可能性は否定しない。
上海戦の国民党軍85万人のうち皇軍に旅順以来の多大な犠牲が出てはいたが、国民党軍85万人の うち戦死傷者333,500名と、精鋭部隊を致命的壊滅状態にまで追い込んだ日本軍の強さは異常であり、鉄壁の防御陣地を構築し、軍事訓練を重ねた独逸軍事顧問団ファルケンファウゼン将軍のプライドは踏みにじられた。
彼らが執拗に同盟国の日本軍攻撃にこだわったのか、単なる経済的理由だけではなかったこと が、容易に想像つく。
第一次世界大戦は日英同盟であった為、日本はドイツに宣戦し植民地としていた青島を攻めた。
ベルサイユ条約でドイツの持っていた権益である南洋諸島、チンタオ山東省を日本が奪取した。
独逸にとってアジア=中国であり、日本=敵対国家であり続けたのである。
日本を引き込み、長期戦に持ち込む ドイツ顧問団は日本軍との戦いも指導することになる。
昭和七(1932)年1月、第一次上海事変が勃発した。
戦いの後半、中国軍はヴェッツェル中将ら軍事顧問団が訓練していた第87師と第88師を投入してき た。
直接ではないけれど、これが日本軍との戦いにドイツ顧問団がかかわった初めである。
昭和八年三月、日本の熱河作戦は万里の長城を挟んだ戦いとなった。
このときヴェッツェル中将は中国軍の指揮を執った。
ヴェッツェル中将がかかわったのは戦術だけであったが、続くゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦争指導にまでかかわるようになっていた。
しかも、対日敵視政策、対日強硬策を自ら進言しだしたのだ。
「日本に対して中国が強くなるためには武器も必要であろうし、飛行機も必要であろう。けれども自分がドイツにおける国防軍を編制し、国防軍を動かした経験から するならば、今最も中国がやらねばならぬことは、中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心を養うことだ」中国軍の強化策を蒋介石から問われたゼークトはこのように答えた。
この考えは、蒋介石だけでなく中国の軍人の思想を貫き、それが核となり、やがて中国人全体の反日感情となっていった。
このころファルケンハウゼンは、北支での戦いを主な対日戦と考えており、中国軍が近代戦に適応できないことを認めると共に、長期戦に持ちこむためには中国政府の抗日姿勢が大切だ、と説いている。
1935年10月1日には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲して主導権を握るように進言していた。
漢口と上海の租界では日本の海軍特別陸戦隊が邦人の保護のため駐屯しており、この日本軍を奇襲しようというのである。
日独防共協定締結の約一年前にドイツ人が中国にこの様に献策していたのだ。
ファルケンハウゼンは中国の敵を、日本が第一、共産党を第二と考え、日本軍を叩く過程において中国軍が勝利を収めていけば共産党を消滅させえると予測していた。
昭和11年(1936)4月1日になると、今こそ対日戦に踏み切るべきだ、と蒋介石に進言する。
「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ」
●蘆溝橋開戦説そのものが中国の宣伝
蘆溝橋で最初の一発をどちらが撃ったのか、という「敵」の設けた論点に、日本の現代史家は夢中になっている。
1937年7月の蘆溝橋事件が支那事変の始まりである、と言い始めたのは蒋介石の宣伝チームであった。
1941年に日本が米国に対して動員先制開戦し、その後、米国が同盟者となった蒋介石の宣伝に同意したことで、これが定説になる。
蘆溝橋の衝突とは、よくある国境警備隊同士の銃撃戦にすぎない。
日支両軍に「動員先制開戦」の痕跡はない。
このような小競り合いは、今日も世界中の国境で起きている群小イベントである。
パリ不戦条約は、国境警備軍同士の衝突を「戦争」だとは想定していないのだ。
1937年の侵略者も、8月13日にドイツ軍事顧問団が書いた開戦プログラムに基づいて数十万の将兵を動員・展開して上海の日本租界を殲滅するための一斉攻撃を仕掛けた蒋介石のシナ正規軍に他ならない。
支那事変はこの8月13日から始まる。
やはり上海に租界を維持し、シナ空軍の盲爆によって13日に死者を出している米国も、この事態を正確に知っていた。
ただし彼らは、極東での トラブルに巻き込まれる面倒を厭い、わざわざ日本人の肩を持つようなマネもしなかった。
だからその国際宣伝は、一義的にまず日本政府自身がせねばならない仕事であった。
ところが日本政府はそこでほとんど「宣伝責任」を果たさなかったのである。
日本政府は、無法な侵略に反応して内地から邦人救出のための部隊を急派し、杭州湾に上陸し、血に飢えた侵略軍を撃退し、南京まで追いかけて蒋介石を膺懲せんとした。
このとき派遣軍の参謀たちが、捕虜にしたシナ兵を裁判によらずに銃殺することを部隊に敢えて禁じなかった。
そして戦後に、1万人以上の便衣のシナ兵捕虜を銃 殺した責任を、すべて末端の兵隊に転嫁した。
南京郊外において日本軍内の予備役兵の素質が悪いためにハーグ条約が広範に破られたのだというストーリーは、
B級戦犯の訴追および刑死から免れたい当時の参謀たちには都合がよいが、その卑劣な責任逃れの言説が、「南京市内で民間人30万人が殺された」とするシナ
発の捏造宣伝のうらづけ材料として利用されることになった。
そして米国人も、広島と長崎への原爆投下が明瞭なハーグ条約違反たることを内心認めるがゆえに、広島と長崎の合計死者を確実に上回るハーグ条約違反の民間人殺人を日本が南京でしでかしていた
とするシナの宣伝を、大いに歓迎するわけである。
事変勃発直後における、外相(元首相)の広田弘毅の国際宣伝上の大きなしくじりは、
日本軍が上海戦線からの追撃戦を成功裡に遂行しているさなかに、蒋介石に講和を呼びかけたことだ。
勝っている側、それも侵略を撃退しつつある正義の陣営 が、凶悪な犯罪者(上海の日本人の大虐殺を企図していたことは疑いもない)に向かって講和を呼びかけるなど、近代外交の常識ではあり得べからざることだろ う。
広田は受験エリートでキャリア外交官だったが、近代精神は有していなかった。
そしてシナ式の、正邪を捨象する信じられないスタンドプレーに走ったので ある。
しかしこれを聞いた世界では、当然のことであるが、今次事変に関し、日本が何か重大な後ろ暗い負い目があるのに相違ないと信ずることになった。
また、侵略軍隊の壊滅後、とうとう蒋介石の方から停戦講和を願ってきたときに、時の首相の近衛文麿は、「居留民の保護」ならび
に「侵略者膺懲」という大目的を達成していたにもかかわらず、理由もなくこれを拒絶した。
爾来、支那事変は泥沼化し、あたかも日本がシナ全土の征服を執拗に進めているかのような「外形」を生じた。
1948年にA級戦犯として死刑になった7人のうち、文民の広田、そして軍人の土肥原、松井、板垣の計4名は、1937年に蒋介石に恥をかかせ、また8月13日の「蒋介石の侵略」をよく知っていた者として、蒋介石からの特別な死刑要求によって東京裁判で訴追リストに加えられた冤罪者である。
蒋介石は、この4名を吊るし首にすることで、自分が侵略者であった過去を戦後世界の「正史」の上
で永久に否定できると思ったのだ。
ドイツ軍事顧問団によって訓練されドイツの最新鋭の兵器で武装していた中国軍

(私のコメント)
日中戦争が何時どのようにして始まったのかは、日本の歴史教科書でも盧溝橋事件からというのが定説になっています
が、これは正しいのだろうか?
しかし盧溝橋事件は単なる偶発事件であり9日には停戦協議が成立している。
だから盧溝橋事件が日中戦争の始まりというのは 無理がある。
これ以降も25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て29日の通州事件など立て続けに起きているが、日本は不拡大方針で中国の挑発には乗らなかった。
日中戦争が始まったといえるのは8月13日の包囲していた中国軍と国際租界の日本海軍陸戦隊の交戦が始まりであり、わずか5000人足らずの海軍陸戦隊では
守りきれるものではなかった。
この作戦計画を立てたのはファルケンハウゼン中将らのドイツ軍事顧問団であり、上海疎開の周囲にはトーチカ陣地が築かれてい
た。
これらのゼークトラインを築かせたのもドイツ軍事顧問団だ。
実態からすると日本とナチスドイツとの戦争であり実質的に戦争を指揮していたのはドイツ軍事顧問団だった。
中国軍兵士はドイツ製の最新兵器で武装された蒋介石の最精鋭部隊だった。
蒋介石から見れば攻撃を仕掛けて日本海軍陸戦隊が引き揚げてくれれば大勝利だし、日本から増援部隊を送り込んでくれば、トーチカとクリークによって防備が固
められた中国軍によって大損害を出して日本に大打撃を与える事ができると読んだのだろう。
実際に日本軍は4万人以上の戦死傷者を出して大損害を受けた。
しかし中国軍も85万の兵士が参加して33万人もの戦死傷者を出して中国の大敗北に終わった。
しかし日本を中国との全面戦争に引きずり込む
事には成功して、それが日米戦争にまで発展して行く。
まさに第二次上海事変が歴史の曲がり角であり、盧溝橋ではない。
もしあの時点で兵を引いていれば米国との戦争も避ける事が出来ただろう。
その点で近衛首相の責任は重い。
もし石原莞爾中将の言うように上海から日本人が全部引き揚げていたら困ったのは上海租界にいる欧米人たちだろう。
日中戦争が第二次上海事変から始まったとすれば、蒋介石が賠償を放棄したのは当たり前であり、蒋介石が徳を持って放棄したと言うのはプロパガンダだ。
賠償金を強引に要求すれば戦争を仕掛けたのは蒋介石の方だと言うことになりやぶ蛇になるおそれがあった。
85万もの兵士を動員するには直ぐに出来るものではなく先に動員をかけていたのは中国の方だ。
しかし戦後の日本の歴史教科書では中国共産党のプロパガンダをそのまま教えている。
NHKなどのマスコミも「アジアの一等国」の特番に見られるように中国共産とのプロパガンダをそのまま放送している。
日本の歴史学者たちはそれに迎合するか沈黙して、日中戦争は日本が仕掛けた事になってしまっている。
日本はコ
ミンテルンやナチスドイツやルーズベルトの謀略に巻き込まれて嵌められたのだ。
日本の歴史教科書ではいずれも盧溝橋事件に関連付けて全面的な侵略戦争を始めたということを書いているが、全面戦争を始めたのは蒋介石の中国軍だ。
日本の歴史家はこの事をどうして主張しないのだろうか?
最近では中国人の林思雲氏が大規模戦争は中国が始めたと指摘しているが、日本の歴史家や戦史家は思考が停止してしまったのだ。
学校の歴史教育で日中戦争は盧溝橋で始まったと教えているから、日本人は教科書に書かれている事が本当だと思い込んでしまう。
自分で考える 訓練がされていないから相手の言うペースに嵌められてしまう。
アメリカの教科書では広島長崎の原爆は戦争を早く終わらせる為だと教えているが、ならばなぜ朝鮮戦争やベトナム戦争で使用しなかったのか?
原爆はもともと非人道的兵器でありジュネーブ条約でも禁止されている残虐な兵器であった。
日本がアメリカとの戦争を避けられないとするならば、1898年にアメリカ軍によって侵略されたハワイ王国解放戦争としてパールハーバーを攻撃したといったようなプロパガンダをなぜ打てないのだろうか?
だまし討ちというのならハルノートをもって宣戦布告とみなしたとすればだまし討ちにはならない。
日本の外務省にはそのようなプロパガンダを打てる機関がない。
蒋介石は戦争では負け続けたがプロパガンダで勝利した。
プロパガンダにはプロパガンダで対抗するしか手はない。
<丶`∀´>長いので読めないニダが、ウリナラに有利な文意ニカ?
