▲文の文化と武の文化/ハン・ジュンソク著 国の興亡や地域の盛衰を一つや二つの因果関係で説明することはできない。この本は近代化当
時(188年代後半~1900年代初め)朝鮮と日本の交錯した運命を主流文化とそれから派生する対
外認識の観点から説明する。
朝鮮は1800年代後半、急速に衰弱して日帝植民地になり、日本は1800年代後半‘脱亜入欧’を
標ぼうして急速に強くなりアジアで唯一の帝国主義国家になった。西欧的なものがみな正しいとか
東洋の伝統が間違っていたということではない。ただし1800年代後半は全世界が西欧帝国主義
の前に不甲斐なく崩れた時だったことに注目する必要がある。
朝鮮と日本のどちらも鎖国政策をとった。よく朝鮮を文の文化、日本を武の文化という。朝鮮が文
だけ崇めていたわけではなく、日本が文を排除したわけでもない。ただし朝鮮は文、日本は武が
主流だったことを否定するのは難しい。
西欧列強の侵入の前でこのような文化の違いが全く違う結果を内包していた。(中略)丙寅洋擾と
辛未洋擾で朝鮮は外勢を追い出したが戦闘では敗北したと見られる。少なくともフランスと米国の
軍事的優位、科学と武力の優位を認める契機にはなるべきだった。しかし、興宣(フンソン)大院
君をはじめとする朝廷の大臣たちソンビたちはそのように考えなかった。
「いったい西洋蛮夷の銃と大砲がどれほど強いのか。武力を前面に出す者が盛んならば、どれほ
ど盛んになるだろうか。彼らが前面に出すのはせいぜい銃刀と兵卒の力だけではないか。」という
わけで朝鮮は丙寅洋擾と辛未洋擾を経ながらも鎖国に固執し、西欧列強という夕立ちが過ぎ去る
のを待った。
1800年代の日本も朝鮮と同じように鎖国政策を標ぼうした。しかし朝鮮が丙寅洋擾と辛未洋擾で
莫大な人的物的被害を受けても‘勝利’したと認識するのに比べ、日本はただ一度の戦闘で西洋
の強大な力を看破した。1853年初夏、日本の江戸に黒船4隻が煙を吐いて姿を見せた。当時、日
本の船は大部分100t、200tである一方、米国人らが乗って来た黒線は2千500tにもなる旗艦だ
った。米国提督フェリーが率いる艦隊であった。
鎖国政策を行った日本は開港を要求する米国の国書を断った。しかし、はるか海から撃つ米国艦
隊の砲弾が陸地に飛んできて家と港を壊したのに反し、自分たちが陸地から黒船に向かって撃っ
た砲弾はすべて海に落ちてしまった。大砲の力に日本人たちは西洋の力を見たのだ。日本は二
言もなく敗北を認めた。
朝鮮の文すなわち、詩は人により違う解釈をする余地がある。これはロマンチックで、創造的であ
り、平和の時には国を豊かにする根元となる。しかし武すなわち、刃物は勝敗が明らかだ。切った
者と切られた者、産業資源と死亡者が克明に分かれる。乱世には筆を執ったひげの白い高尚な
人より、刀を持って馬を走らせる武者が必要だ。
近代開港期は乱世であり、‘これも正しくて、あれも正しい’という高尚な人より‘勝敗が明確な’武
人の姿勢が必要だった。このような認識のため至近距離にあった朝鮮と日本は開港時期にあって
22年の違いが生じる。(朝鮮は1876年、日本は1854年開港)。この22年の間隙が両国の運命を
分けるのに決定的な役割を果たした。(もちろんそれが全てでは決してない。)
西洋の力を看破した日本は開港後、西欧に多様な文化使節を派遣した。政治、経済、文化、軍事、
科学、法律などほとんどあらゆる分野に遊覧団を派遣して西欧の先んじた文化と制度、技術をス
ポンジのように吸い込んだ。そしてわずか20年後、米国のペリーが日本にしたように艦隊を導い
て朝鮮の江華島近海に現れ開港を要求して武力示威を行い、不平等条約を締結した。
みな過ぎたことだ。しかも近づくことができることだ。
チョ・トゥジン記者