日米貿易摩擦
第二次大戦後、日本経済が国際競争力を回復するつれ、日本からアメリカへの輸出が増加しはじめた。日本の輸出は「集中豪雨的輸出」ともいわれ、相手国の産業に大きなダメージを与える。そのため貿易問題は政治問題化し、日米貿易摩擦とよばれるようになった。
まず最初に槍玉にあがったのは、1960年代初頭の「繊維」であった。日本からの輸
出によって繊維産業が打撃を受けたアメリカは、日本に輸出規制を求めてきた。政府間で調整が行なわれた結果、1972年の沖縄返還の見返りとして、日本は
輸出を自主規制することで決着した。日本は「糸」を売って「縄」を買った、といわれたものである。
1970年代になると鉄鋼・カラーテレビの輸出が問題となり、さらに1980年代には自動車・半導体・VTRなどが問題となった。
貿易摩擦に対する対応
日米貿易摩擦の解決のためには、日米双方に努力する余地がある。しかし、アメリカは自らの非を認めず、貿易赤字の原因は日本にあると一方的に主張して、その解決のためにさまざまな無理難題を押しつけてきている。安全保障という一番重要な問題をアメリカに依存している現状では、日本は言いたいことも言えないのかもしれない。これまで、
採られてきた対応は次の通りである。
(1)輸出の自主規制
日本はこれまで繊維、鉄鋼、カラーテレビ、自動車などで自主規制を行ってきた。
(2)円高誘導(1985年)
1985年のプラザ合意でドル高是正(=円高誘導)が実施され、日本からの輸出にブレーキをかけようとした。1ドル=240円だった為替レートは、その 後2年あまりの間に1ドル=120円になってしまった。これで輸出は止まるはずだったが・・・(→日米構造協議)
(3)日本の内需拡大
日本の輸出が増える背景には、日本国内の内需不足があるとして、政府は公定歩合を2、5%まで引き下げ、未曾有の金融緩和政策をとった。しかし、その結果「バブル」が発生してしまった。
(3)現地生産の展開
プラザ合意後、日本の自動車メーカーはアメリカでの現地生産・販売を本格的に始めた。そうすれば貿易統計上、日本の輸出は増えない。1993年、ついに現地生産台数が輸出台数を上回るようになった。
(4)スーパー301条による報復措置(1988年)
アメリカは、1988年に包括通商・競争力強化法を成立させ、その301条には「不公正な貿易慣行によりアメリカの産業が損害を被った場合、適切な報
復措置をとることができる」とした。これは事実上日本を狙い撃ちしたものであったが、WTO違反という指摘もなされた。
(5)日米構造協議(1989年)
プラザ合意後の円高でも、日本企業は乾いたぞうきんをさらに絞るような努力を重ね輸出を増やしていった。これに業を煮やしたアメリカは、貿易摩擦対策の第2弾として日本の系列取引や、建設業界の入札などの閉鎖的な市場の開放を求めてきた。
(6)日米包括経済協議(1993年)
日米構造協議は1993年からは日米包括経済協議と改められ、より一層の規制緩和や市場開放を迫るようになった。1993年のウルグアイラウンドでは、ついにコメの部分開放が始まったほか、2000年には大規模小売店舗法(大店法)が廃止
された。日本の経常収支黒字削減とアメリカの財政赤字削減というマクロ経済の協議がなされたほか、政府調達、自動車、半導体など分野別協議も行われた。
そのほか、労働時間の短縮や、学校の週5日制導入なども、そもそもは貿易摩擦対策として出てきたことも知っておくべきであろう。

日本の貿易収支推移
日本の貿易収支は1980年に赤字になるが、1981年には黒字に逆転した。
その後は上のグラフを見ての通り1980年代から黒字化するのである。
上の論文にもある通りアメリカは対日貿易赤字が問題化し「日貿易摩擦」を引き起こした事は有名な話である。
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