流れる星は生きている

藤原ていは夫と満洲で離れ離れになりつつも下は生後1ヶ月、3歳、6歳の子供3人を引き連れ1年以上かけて満洲から日本に戻ってくるが極限の苦労話が続く。(次男は数学者の藤原正彦でベストセラー「国家の品格」著す)夫で作家の新田次郎は帰国後は藤原ていに全く頭があがらず夫婦の間で「引揚の話」は禁句であったらしい。その藤原てい親子4人も何度も死線を彷徨いつつ博多港に引揚げてきたのであった。
昭和20年8月の日本敗戦により福岡市の博多港は引揚港として意外な脚光を浴びる事となる。
当時海外(旧日本領や満洲)には700万人を超える日本人の軍人民間人が 武器や資産、名誉を奪取されたまま日本への帰国を待ち侘びていた。
米、中、英領地での引揚者は比較的順調に1年内外で外地から日本に引揚げる事ができたが満洲、北朝鮮地区所謂ソ連が占領していた地域では朝鮮半島北部を通過できずソ連人や朝鮮人に様々に虐げられ非常な困難を本土帰還となった。
満洲内蒙古朝鮮北部では終戦から昭和22年頃までに日本民間人だけで老若男女12万人以上がソ連軍などの虐殺により非業の死を遂げているという。
満洲や樺太千島の日本軍守備将兵60万人が抑留され6万人以上が還らぬ人となったのも周知の事実である。(抑留による死亡者数は10万人を超えているとの話も聞く)これらの数字は東京大空襲、沖縄戦での民間死者、広島、長崎原爆の死者と同等か上まわる数字である。
終戦から約2年間で博多港は200万人以上の日本人帰国者を受け入れ、日本国内からは50万人の朝鮮、中国、台湾人を故国への帰国の途に赴かせた。
福岡県は当時、有数の石炭産出県で戦時中から朝鮮人多数が危険な炭坑で働いていたが筑豊や筑後等から山を越え博多の町に辿りつき引揚船が帰港して日本人が下船すると入れ替わりに朝鮮人らが乗り込んで慌しく出航して行ったのである。
昭和20年当時の福岡市は6月に米軍から大空襲を受け1千人以上が死亡し、市内の3割もの戸数が羅災し、博多港沖もB29から投下された機雷により港の出入は危険な状態あった。

博多港には引揚の碑「那の津往還」がある。
言葉に尽くせぬ長い苦労の末に博多港に上陸した引揚者達は海外から持帰った一人千円を超える所持金は没収され替わりに配給物資が受取れる引揚証明書を発行してもらい其々の故郷をめざした。
引揚といえば「岸壁の母」で知られた京都府の 舞鶴港が有名であるが博多港は舞鶴港(日本軍民66万人受入、外国人送還3万人)の規模を遥かに超える3倍近もの人々を往還させたまさに日本一の引揚港であった。

博多港に引揚げてきた日本人女性の中には引揚途中心ならずもソ連兵や朝鮮人達に暴行され妊娠していた女性も少なからず存在し、やっと乗船できた帰国船から海に身を投げる女性までいた。
1946年3月福岡の二日市保養所は「不法妊娠」や「性病」を処置するため隠密に開設され、そんな女性たちへの救援活動者として同じく引揚げてきた旧京城(ソウル)帝大医学部関連の医師らにより、密かに堕胎手術等が行われた。
その場所が昭和21年3月から1年半にわたって博多から程近い二日市温泉の二日市保養所である。(現在の筑紫野市済生会二日市病院)

当時の日本国内では堕胎罪が法で定められており、医師や看護婦達は違法行為と覚悟しての救援活動だったが日本政府もその活動を暗黙的かつ超法規的措置と認めるしかなかった。(基本的には優生保護法が1948年に成立するまで日本では中絶堕胎罪で罰せられた。)
従事する医師や看護婦、職員達も手術を施された女性達の心の苦しみは深いものであったろうか。皇族の高松宮も非公式に同保養所を訪問して患者や職員を見舞ったという。これは収容患者や医師職員らの罪悪感を少しでも減らそうと国家又は高松宮殿下が考えたのだろうか?
尚、多くの手術は医療物資も枯渇しており基本は麻酔無で行なわれたが妊娠5ヶ月から7ヶ月中の危険な状態の母子もおり術中に悔し涙を流し絶命し果てた女性患者もいたという。
同保養所では堕胎と同時に性病患者(女性のみ)もチェックして、隔離、治療をしている。これには性病蔓延阻止の国策があったかもしれない。
博多港から近い二日市保養所だけで昭和21年から約1年間で堕胎手術は500件以上が行なわれたようであり、堕胎された嬰児らは同保養所の桜の木の下に埋葬されたという。
二日市保養所の報告(1946年6月10日)によると、2ヶ月間に治療を行った47人を陵辱し、不法妊娠させた男の国籍は以下の通りである。
朝鮮28人、ソ連人8人、中国人6人、その他4人
朝鮮人による被害者は全体の6割になる。
堕胎後ある看護婦は大きな胎児が泣きだす声を聞くのが怖く泣き出す前に首を絞めたともいう。
これらの日本人女性を護る超法規的かつ緊急避難的な医療手術はたぶん佐世保や舞鶴等の引揚港周辺でも秘密裏に行なわれたのではないだろうか。
全く望みもせぬ不幸極まる妊娠や病気を移された引揚てきた女性達は誠にお気の毒であり、保養所を出た後も、生涯にわたり記憶を沈降させつつ誰にも「伝えられない歴史」を歩んできたのだろう。又、全く罪もないのに産まれいずる事が理に適わず櫻の木の下に埋められた何の非もない子供達。

病院よりほぼ北へ200M程離れた同病院のむさし苑、デイケアセンターの駐車場の奥と一般のマンションが並ぶ境界に「仁」の一文字が刻み込まれた「仁の碑」が隠れるように佇んで見えた。
この碑はこれら緊急的な人道的行為に感銘した高校教師児島敬三氏の浄財により1981年に二日市保養所の跡地に建立された。近くには小さな水子地蔵も安置されている。

※2012年元旦に実家が二日市温泉だったので探して寄ってみました。有料駐車場の奥にあるので車の場合は駐車場ゲートを通るときに100円必要です。jap_av